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ボディビルと私<その3> ”根 性 人 生”

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[ 月刊ボディビルディング 1973年7月号 ]
掲載日:2017.10.24
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東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影四郎

”プロ柔道” 半年で崩壊

 プロ柔道も表面は華々しかったが、その裏にはいろいろな問題をかかえていた。この始めての巡業に加わったメンバーの中で、最も若かった私は、このままではスポーツとしての柔道の純粋性が失われてしまう。このままでいいのだろうか?こんなあせりがいつも心のどこかにあり、精神的な反問をくり返しては悩む日が続いた。

 こうして北海道巡業も多くの話題を提供し、ある程度成功したかに見えたが、金銭的には予想をはるかに下廻ったものだった。年の若い独身者の私たちはそれほど深刻に考えなかったが、扶養家族のある人たちにとっては、これが最も大きな問題だった。

 テレビもなく、現在の生活水準から見れば、とても想像できないほどみじめな生活をしていた当時としては、金を払ってプロ柔道を見るという余裕はなかったのであろう。要するに時期尚早だったともいえる。

 間もなく破局をむかえる日がやってきた。それはプロ柔道が旗揚げしてからわずか6カ月後であった。

 木村七段、山口六段、坂部六段の3人のスター・プレヤーが、さまざまな男の世界の感情と生活の負担から脱退していった。3人はアメリカの興行師にトレードされ、いったんハワイに渡ったのち、坂部六段は常夏の国の警察官の柔道教師として腰をすえ、木村七段と山口六段は南米へ柔道の普及に旅立っていった。

 スターの抜けたプロ柔道はみじめなものだった。これではとても興行を続けるわけにはいかない。ついに、設立後わずか半年にして霧散の状態となって消えてしまった。

 学生時代からただひたすら柔道に打ちこんできた私にとって、このショックはあまりにも大きかった。力と技と精神の完成を目指してプロ柔道にはせ参じた私にとって、この破局は複雑な人生のよい勉強にもなった。根性だ、力だ、技だ、と大見栄を切っていてもそれはただ表面上の強がりに過ぎなかったのか?少なくとも根性と努力が私の人生、いや柔道のすべてであっただけに、私が追い求めていたものは所詮虚像だったのだろうか。北海道の巡業中に、いつも私の心の隅にあった「これでよいのだろうか」という反問も。すべてこのような私の人生観から出たものだったが、あっけないプロ柔道の終幕によって、世の中の何もかもが信じられなくなってしまった。

学生柔道選手権からボイコット

 プロ柔道崩壊を機に、足を洗ってサラリーマンに転向する人もいた。のちにプロレス界で大活躍した遠藤幸吉六段もその1人だった。しかし、私にはどうしても柔道を捨てることはできなかった。

 「俺はまだ若いんだ。こんどは大地にしっかりと足をつけ、もう一度やってみよう」こう考え、再度、日大の柔道部に復帰した。そして、来るべき全日本学生柔道選手権を目指して、以前にも増してそれこそ死にものぐらいで激しい練習に打ち込んだ。学生相手だけでは物足りず、連日連夜、講道館へ、警察道場へと足を運んだ。

 そんなある日、私にとってまさに青天の霹靂ともいえる事件が起きた。いつものように練習していた私を道場の隅に呼んで主将はこういった。「プロ柔道はアマチュア規定に反するものでプロ柔道の経験者はすべての大会に出場できないことに決定した」

 これを聞いた私は、一瞬、脳天をハンマーでなぐられたように、全身から力が抜けて目の前が真暗になってしまった。私にとってこれほどキビシイ処置はなかった。いくら若いとはいえ、いったんプロの世界に足を踏み入れれば、その結果はどうなるか。そんなことを全然知らなかった自分の軽卒さ、おろかさを悔いずにはいられなかった。

 全日本学生柔道選手権に出場できないことは、私にとって再起の目標を失い、生涯柔道を捨てろというにひとしかった。プロ柔道といっても、ショーとしての柔道ではなく、試合はあくまでも厳正で真剣なものだっただけに、出場禁止の処置はどうしてもあきらめることはできなかった。私は連盟に対して出場を認めてくれるよう、あらゆる手段と努力を惜しまなかった。訴状や嘆願書は何枚書いたか数えきれないほど書いた。再登録、再々登録。しかし、アマチュア規定は冷たい厚い石の壁だった。こうして私のアマチュア柔道復帰への願望は、ついにその道をとざされてしまった。

苦境の中でトレーニング法の研究

 アマチュア柔道をあきらめきれないまま、私は目標を失い、柔道のできないこれからの人生を考え、不安と焦操にかられてしばらくなにも手につかない日が続いた。

 町の中をブラブラしているとき、勇壮な汽車の姿を見て、私は強く心を打たれた。ものすごい蒸気、力強いピストンの動き、大きな車輪の回転、エネルギーをさかんに発散させながら前進する汽車を見ているうちに、少年時代にあの汽車と競走したことが思い出され、心の中に勇気がわいてくるのがはっきりわかった。

 柔道に明け暮れ、いつも激しく体を動かしていた私は、いつまでもブラブラしていることはできなかった。あの汽車のように、この若いありあまるエネルギーをぶっつけてみたかった。
ちょうどいつも汽車を見にいく近くの操車場に、トロッコの車輪がころがっているのが目についた。そのころはまだ鉄のバーベルなどを見たことはなかったが、トロッコの車輪をなにかトレーニングに利用できるのではないかと考えた。

 早速、譲ってほしいと係の人に頼んでみたが、とりあってくれない。毎日のように足を運んで頼んでいるうちに「あの車輪を頭の上まで持ちあげたら譲ってやってもいいが」と、まさかそんなことができるわけがないといわんばかりに折れてきた。シメタ!力なら誰にも負けたことがない。もちろん、難なく持ちあげてトロッコの車輪を2本手に入れることができた。

 こうしていくらか心のいえた私は、手に入れた車輪を使って自己流のトレーニングを開始した。

 まず私が考えたことは、人間の体もエネルギー代謝の機能をもっている。そして自分の体の中で燃焼する過程がある。汽車も蒸気を得るために石炭を燃焼させるのだ。そうして得たエネルギーを一度に爆発させ、最大限に利用する結果、あの力強い勇壮な姿を鼓舞しているのではないだろうか。

 それであれば人間の体も呼吸によって新鮮な酸素を血液に供給し、栄養物を分解してカロリーとして燃焼させ、その得たエネルギーを運動という方法で最大限に力の発散に利用する。まったく汽車と同様である。それをいかに運動に結びつけていくか、という努力から力が強くなるのではないだろうかと考えた。

 柔道ができないなら、柔道以外でもっと力をつけてみようと、譲ってもらったトロッコの車輪を使って、下宿の庭でトレーニングを始めた。

 いざ始めてみると、ごく基本的なことで勉強しなければならないことがたくさんあることに気がついた。まず、人間の体の構造や機能である。いろいろな専門書を買い集め独学で勉強を始めた。わからないところがあるとツテを求めて有名な先生のところにも聞きにいった。

 そしてトレーニングにおける最も効果的な呼吸法というものを考え出したそれは、前述の汽車が石炭を燃料タンクに運び入れるように、酸素をいかに有効に体内に運んでいくかという点に求めたものだった。

 その頃私のやっていたトレーニングは、トロッコの車輪を持ち上げるとき、いかに筋肉と筋力につなげていくかということに意識を集中しながら、30回×5セット程度のフロント・プレスから始めた。それも方向を変えながら何回も試みた。

 つぎに引き付け運動として松の木に柔道の黒帯を2本くくりつけ、それを両方から引っ張るという方法(ラバー・クロス・オーバーの変型)や、トロッコの車輪でベント・オーバー・ローイング・モーションを30回×5セット程度行なった。

 足のトレーニングとしては、ヒンズー・スクワットを朝晩5000回くり返した。その他、トロッコの車輪をかついでのスクワットも行なった。これらのスクワットは、慣れてくるに従って数をかぞえるのが面倒になり、最後には時間制に切り替えた。

 このように解説書もなくコーチもいない当時としては、いまでは考えられないような時間と労力を費やしながらひとりで研究したトレーニング法だったが、あとでアメリカなどの専門誌を見て、私のとほとんど同じ方法であり決して間違っていなかったことに大いに自信を深めた。そして、自分のやってきたことが無駄ではなく、ギリギリの苦境の中でつかんだこの自信は、きっと将来の自分にとって大きな財産になるのではないかと思えた。
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プロレス時代の幕あき

 こうして毎日体力づくりに明け暮れているとき、アメリカから1通の部厚い便りが届いた。差出人はさきに南米に渡り、その後アメリカに滞在していた木村先輩であった。

 この1通の便りによって、私の人生は再び大きく展開していくのである。

 同封の写真を見てまず驚いたのは木村、山口両先輩のあまりの変わりようだった。見違えるばかりに体格が変型し、すっかり逞しくなった2人は、いまプロレスリングのトレーニングに励んでいると書いてあった。もちろんプロレスリングを知らない私のために詳しく説明が付け加えられていた。そのうえ、両先輩が近く帰国する予定だと結んであった。

 柔道から締め出され、あり余る体力をもてあまして、ただ悶々とトレーニングを続けていた私は、この手紙を読み終わるやいなや、よし!これに自分の将来をかけてみよう、と決心した。そして、両先輩の帰国を一日千秋の思いで待っていた。
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 両先輩の帰国と時を同じくして力道山もプロレス修業を終えてアメリカから帰ってきた。帰国後しばらくは以上の3人を中心としてプロレスリングの普及試合が行われた。

 その後、木村七段は故郷の九州・熊本で、国際プロレスの結成旗揚げをした。国際プロレスに参加した主なメンバーは、力士出身の立ノ海松喜氏、柔道出身の戸田武雄六段、大坪清隆四段らを初めとして10数名であった。

 また山口六段は、力士出身の清美川梅之氏、同じく力士出身の長快日一氏学生相撲出身の吉村道明氏、アマチュア相撲出身の山崎次郎氏、柔道出身の市川登四段らと全日本プロレスを結成した。

 一方、力道山も、遠藤幸吉、豊登、竹村、駿河海らと日本プロレスを結成し、3団体による船出の態勢がととのった。そして、外人レスラーの招待とテレビの出現によって、プロレス・ブームはいっきに爆発するのである。

 さらに、大相撲の横綱東富士が引退し、プロレスに転向することになり、日本中の相撲ファンまでプロレスへ目を向けるようになってくる。

 格闘競技にはつきものであるが、当時、プロレスの真の実力日本一は誰だろう?という話題がファンの間でささやかれ始めた。

 ついに、昭和29年11月25日、木村七段が力道山に対して、全日本チャンピオンのタイトルをかけて挑戦を申し出た。これを受けて力道山も承諾。かくして世紀の一戦は12月22日夜、蔵前国技館で行われることになった。この試合はよくご存知の方もあると思うが、力道山の空手チョップで木村七段は口から血を吐いてレフリー・ストップ、全日本チャンピオンのタイトルは力道山の頭上に輝いた。

 続いて翌30年1月、こんどは山口六段がこれに挑戦した。このときは大阪府立体育館に超満員の観衆を集めて行われ、まさに白熱の好試合だったが、山口六段がリング下で肪骨を打って立ちあがれず、リング・アウト負けで、力道山の名声は日本チャンピオンとして不動の地位を築いていった。

 翌年には力道山、木村の和解がなり木村七段は再びカムバックして、国際プロレスを再結成した。そして、私もこのメンバーに積極的に参加した。このときのメンバーは、先に紹介した清美川氏、大坪氏を筆頭に、柔道出身の加藤弘恭四段、力士出身の速浪武夫氏、その他、白梅武氏、村井昭次郎氏、小松原五郎氏等であった。

 当時のプロレスラーとしての私の評価は、力道山、遠藤両氏の長所を兼ね備えている有望新人というのだった。そして親友の清美川氏とともに後援会も結成され、府立体育館での試合には大きなのぼりや横幕が出され、会場はいつも超満員だった。

 プロ柔道への参加、そして崩壊、アマ柔道界からの追放。あてのないトレーニング。いろいろのことがあったがようやく日頃の精進が実ってきたような気持だった。

(つづく)
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[ 月刊ボディビルディング 1973年7月号 ]

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