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ボディビル界のゴッドファーザー ミッツ・カワシマ氏永眠する

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.05.01
Mits Kawashima (1918~2012)

Mits Kawashima (1918~2012)

ジム経営、IFBBジャッジ、コンテストプロモーター、ヘルスフードビジネスなど、長年ボディビル界で功績を果たし、ハワイのボディビル界では“ゴッドファーザー”として頼られ、そしてスパースター、アーノルド・シュワルツネッガーの親友としても知られているミッツ・カワシマ氏が2月3日にホノルル市で亡くなりました。死因は、1月に腸閉塞になり手術をしましたが、手術後に肺炎の合併症を起こしたためでした。誕生日が2月6日だったことから、94歳に3日たりない享年93歳でした。

本誌では、1999年5月号で、『ボディビル偉人伝』としてミッツ・カワシマ氏を紹介していますが、その一部分を引用しカワシマ氏のボディビル人生を振り返ってみたいと思います。

ミッツ・カワシマ氏は、本名ミツオ・カワシマ。1918年2月6日カルフォルニア州サンフランシスコ市で生まれている。両親は父親が滋賀県、母親は広島県出身で、カワシマ氏はアメリカ生まれの日系二世になり、4歳年下の弟が一人いる。小学校まではサンフランシスコで過ごし、中学はロサンゼルスで学び、そして高校は日本に留学している。カワシマ氏は1935年から2年間、母親が「日本語の勉強をするのには日本へ行くのが一番良い」ということで、神奈川県横浜市の関東学院高等商業部で学んでいる。

日本留学中は、学校のバスケットボールクラブでプレーしたりしてアクティブに過ごしたためか体重が減少したために、アメリカに戻ってきて体重を戻さなければいけないと、ボディビルジムに入会してトレーニングをスタートした。

このようにして、ボディビルと出会ったのは彼が19歳のときで、これからスタートする素晴らしい20代に希望をいだいていたが、現実は彼の思惑とは異なるものであった。それは、戦争である。

強制収容所

第二次世界大戦が勃発。しかも悪いことに、アメリカの対戦相手は日本である。カワシマ氏はアメリカ生まれであるが、血はれっきとした日本人であり、日本にまで留学して、日本人としてのアイデンテイーを強めたばかりである。

当然ながら彼にもアメリカ政府から徴兵令状が来た。しかし、カワシマ氏は生まれつき足の爪先が曲がっていたことから、徴兵検査に合格できなかった。その間、戦争はますます激化してゆき、日本軍による真珠湾攻撃が起こり、アメリカに住む日系人に対する非難が高まる一方であった。

そんなとき、アメリカ政府は米国内に住む日系人を強制収容所( キャンプ) に収容すると決定。カワシマ氏は、家族と一緒にワイオミング州にあるキャンプに送られた。キャンプに収容されたと言っても、言葉を変えれば捕虜である。ワイオミングの片田舎の何もない土地に堀と鉄条網が張られ、何万人という日系人達が事実上は人質として閉じ込められたのだ。

カワシマ氏は突然このようなキャンプ生活を余儀なくされたが、彼はボディビルをスタートして2年がたっており、すでにボディビルの魅力に取り付かれていた時期であった。そのため、キャンプの中でもトレーニングをしたいという気持ちは高ぶるばかりであった。そこでカワシマ氏はキャンプ内でボディビル好きを集めて、キャンプの所長にキャンプ内にウェイトを入れてくれるように陳情し、それが受け入れられた。

終戦

1946年太平洋戦争もやがて日本の降状で幕を閉じ、2年以上にわたったこの日系人キャンプ生活も終りを告げた。カワシマ氏はこれから何をするあてもなかったが、キャンプで一緒にトレーニングしていたハワイから来ていたミック・アズマと言う人からハワイに来て一緒にトレーニングをしないかという誘いを受ける。これが切っ掛けで、カワシマ氏はその後ハワイに住むことになり、そこでムームーやアロハシャツの仕立てを行っていた生粋のハワイっ子のドットさんにひとめぼれ。会ってわずか5週間で結婚した。カワシマ氏28歳のときで、翌年には娘が生まれている。

カワシマ氏は、1948年にアズマ氏とパートナーでホノルル市内にジムをオープンさせている。その2年後、カワシマ氏が権利を買い取り『ミッツ・ヘルススタジオ』として単独で経営をし、このジム経営は今日のハワイのボディビル界には大きく貢献し、1979年まで31年間続いていた。

ジム経営を終了しカワシマ氏も60歳になり、そろそろ引退をうながされたが、ボディビルで鍛えあげた体と心は新たなチャレンジへと燃えていた。

アーノルドとの出会い

新しいチャレンジとは、サプリメントなどを販売するヘルスフードビジネス、『ミッツ・ベーシックフード』店のスタートだった。カワシマ氏のチャレンジ人生は同時に人々との巡り合いであった。

その中でもひときわこのカワシマ氏を慕う男がいる。それはアーノルド・シュワルツネッガーである。アーノルドとカワシマ氏との出会いとは、カワシマ氏は器具などの購入のために、ちょくちょくカルフォルニアに出掛けていたある日、友人からオーストリアから来たというボディビルダーを紹介された。これがカワシマ氏とアーノルドの出会いで、1968年のことである。

このとき、カワシマ氏は友人から「アーノルドがニュージーランドにゲストポーズがあり、その途中ハワイ経由で行くので宜しく」と頼まれる。後日、アーノルドがハワイに来ると、カワシマ氏はアーノルドを家に泊めてめんどうをみる。カワシマ氏は当時のことをこのように話している。
「まだアメリカに来たばかりで英語をほとんど話せなかったが、いつもニコニコして温かみを感じた。アーノルドは21歳と若く童顔で、大きな身体をして肌は真っ白。まるでお風呂からあがってきたような清らかさがあった」と言っている。

こうしてアーノルドは、ハワイ滞在中にカワシマ氏のジムでトレーニングをしたりして世話を受けながら過ごし、いよいよニュージーランドに出発するという時になって突然ニュージーランドのプロモーターが姿をくらましてしまった。そのため、アーノルドはゲストポーズ代を貰うことができず、ハワイからの帰りの飛行機代もなく、ハワイで身動きができなくなってしまった。アーノルドにとってはまだ来たばかりのアメリカで言葉も分からず、その上お金もない。最大のピンチに見舞われることになり、唯一の頼りはカワシマ氏であった。

カワシマ氏はこのような事態に遭遇したアーノルドに対し、カルフォルニアまでの帰りの飛行機代を都合した。こうしてアーノルドはカワシマ氏の温情を受け、無事カルフォルニアまで帰ることができた。

この出来事があってから、アーノルドはカワシマ氏の恩義を決して忘れることはなく、その後カワシマ夫妻を実の親のように尊敬し慕い、アーノルドがどんなに有名人になってもお互いの信頼関係を一層強めて、ハリウッドの映画のセットにもたびたび招いている。アーノルドがケネディー家の令嬢マリア・シュライバーと結婚したときも、アーノルドはカワシマ夫妻を親変わりとして招待している。カワシマ氏の80歳の誕生日にはアーノルドはカルフォルニアから自分専用のジェット機でハワイまで来て、2時間だけお祝いにも駆けつている。

コンテストの開催

アーノルド・シュワルツネッガーをはじめ、多くのトップビルダーと親交の深かったカワシマ氏。

アーノルド・シュワルツネッガーをはじめ、多くのトップビルダーと親交の深かったカワシマ氏。

彼のプロモートした大会には1度に3、4名のゲストポーザーを招聘していたことでも有名であった

彼のプロモートした大会には1度に3、4名のゲストポーザーを招聘していたことでも有名であった

カワシマ氏はIFBBのジャッジでもあり、1970年代にはミスター・オリンピアのジャッジも何回か行っている。

そこで、カワシマ氏はヘルスフードのビジネスのスタートと同時にコンテストの開催も考え、アーノルドとパートナーを組んで、1978年『ハワイアンアイランド・チャンピオンシップ』というコンテストを開催。コンテストがスタートしたころは、まだアーノルドが有名になる以前であったこともあり、最初の7年間はアーノルドが司会をつとめていた。

アーノルドがハリウッドのスーパースターになってからも、時間の許す限りコンテストに姿を見せているが、そうでない場合はビデオメッセージを送っている。コンテストは、カワシマ氏と奥さんのドットさんが切り盛りし、アーノルド・クラシックやミスター・オリンピアなどへの観戦も毎年のように二人で行き、“ミッツ&ドット”とボディビル界ではよく知られたおしどり夫婦であった。

コンテストの開催はカワシマ氏にとってはまた新たなチャレンジであったが、コンテストは2007年まで29年間続き、この功績に対しホノルル市長から感謝状も贈られている。本誌でも1998年ハワイ特集号で、このコンテストを取材に訪れているが、カワシマ夫妻からは温かなホスピタリテイを受けている。

コンテストはその後、カワシマ夫妻が息子のように可愛がっている、女子プロボディビルダーのポーラ・スズキの兄で、パワーリフターでもあるリッキー・スズキとプロボディビルダーのグンター・シュリアカンプが受け継ぎ2年間は開催されたが、その後は開催されていない。
編集部も取材へ行ったことのあるミッツベイシックフード

編集部も取材へ行ったことのあるミッツベイシックフード

カワシマ氏がプロモートしていたハワイアンアイランド選手権

カワシマ氏がプロモートしていたハワイアンアイランド選手権

生涯現役

『ミッツ・ベーシックフード』店は一人娘のカレンさんも手伝っており、将来は娘さんにこのビジネスを譲ることを考えていた。ところが、2002年にそのカレンさん(55歳)が突然胃ガンで死亡する。親にとって子供が先に亡くなることほど辛い思いはない。このような悲しい出来事があってもカワシマ夫妻は、ヘルスフードショップの経営とコンテストの開催を続けている。

2007年、88歳になったカワシマ氏はコンテストプロモーターを終了した。これは誰もが年齢のためかと思えたが、ヘルスフードのビジネスを引き続き行い生涯現役を貫く方針であった。カワシマ氏の口ぐせは、「リタイアなんてつまらない。リタイアするという考え方がきらいだ」

しかしながら、その翌年2008年には最愛の人生のパートナーであった奥さんのドットさんがすい臓ガンで死去。このときはカワシマ氏も失意のどん底で、ついにヘルスフードビジネスから引退している。

カワシマ氏は奥さんに先立たれ後、孫達から同居を勧められたが、大好きなペットの小鳥とともに亡くなるまで一人でホノルルのコンドミニアムで暮らしていた。

カワシマ氏が亡くなったあと、アーノルド・シュワルツネッガーは次のようなステートメントを出している。

「ミッツ・カワシマさんのご遺族、そして友人の皆さんに対し、お悔やみ申し上げます。私は素晴らしい友人であり、よき助言者をなくしましたが、フィットネス及びボディビル界も偉大な支持者の一人を失いました。カワシマ氏は私がアメリカに来て最初に会った人のひとりでした。カワシマ氏はとても思いやりのあるやさしい友人で、私がいつもベストが出せるように導き、そして勇気づけてくれました。それは私が彼のジムでトレーニングしているときでも、あるいは私が何か困ったときなどはいつでも電話で相談にのってくれました。今年のアーノルド・クラシック時の会場にはカワシマ氏の空席をもうけ故人に敬意を表し、そして彼を偲びます。これで、ようやくカワシマ氏は最愛の妻ドットさんと天国で再会できることになります」

私は1月の始めにカワシマ氏と電話で話をしたばかりだった。毎年カワシマ氏から新年の挨拶の電話をもらい、今年もあい変わらず元気な話ぶりであったことから、100歳までは生きるエネルギーを持った人だと思ったため、その1カ月後に亡くなったという知らせを受けたときには信じがたいものだった。

カワシマ氏の晩年は臀部の骨を損傷したことから手術をおこない、歩行はやや困難になったものの、リバビリも兼ねてウェイトトレーニングは亡くなる直前まで続け生涯現役を貫いている。昨年はイギリスのロンドンで長年ボディビル界に貢献したことで表彰もされ、今年は日本を訪ねる予定もたてていた。

いつも笑顔で、周りの人をなごます温かなアロハスピリッツを持った人で、良く喋り、良く笑い、良く噛んでゆっくり食べ、生涯をボディビルとともに歩んできた人でした。

カワシマ氏の遺族は弟(タカシさん)が一人、孫が2人(ミッシェルとイアン)、曾孫が3人(キイリイ、カラ、ローガン)。ご遺族に対し心からお悔やみ申し上げます。
どこへ行くにも二人一緒だったミッツ&ドット夫妻。今頃天国で、また二人仲良く過ごしていることでしょう

どこへ行くにも二人一緒だったミッツ&ドット夫妻。今頃天国で、また二人仲良く過ごしていることでしょう

report:
SUMIO YAMAGUCH
[ 月刊ボディビルディング 2012年5月号 ]

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