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ボディビルと私 <その5> 〝根性人生〟

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[ 月刊ボディビルディング 1973年9月号 ]
掲載日:2017.10.13
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影四郎

名古屋で初めて見せた必殺〝アルプス落し〟

 前号で紹介したラウル・ロメロ,ラモン・ロモ,ヤキ・ローチャといった世界を股にかけて暴れまくる一流の外人レスラーの人気も手伝って,大阪における再々起の旗揚げは大成功のうちに終わった。
 これを知った各地の興行師たちは,先を争って私の事務所に興行を申し込んできた。まずまっ先にきたのは名古屋と岐阜からの照会だった。この中京地区は,われわれの旗揚地大阪にも近く,すでに横浜では興行をすませているので,私たちの希望どおりで,条件的にも申し分なかった。こうして,昭和31年4月21日,名古屋,岐阜の地方巡業に出発することになった。
 プロレスの巡業といっても,旅はやっぱり楽しいもの,とくに外人レスラーにとってはすでに観光気分でソワソワしている。日本人レスラーたちにとっても,試合のない日は朝から練習につぐ練習だが,巡業ともなれば,試合前には挨拶廻り,試合が終われば次の興行地への移動と,いつものように猛練習にしばられることもない。まして旅先でおいしい名産や行ったことのない観光地が見物できるとあって,みんな楽しみにしている。
 しかし,私にとってはそんなに楽しいものではなかった。というのは,選手としてファイトする以上に,一行の世話役としての仕事があったからだ。
 名古屋での興行は金山体育館と決定した。私は興行師と打会せして,名古屋城から名城公園を経て白川公園,大須観音,そして熱田神宮という,名古屋の目抜き通りを市内行進して前景気をあおることにした。
 久しぶりにオープンカーから見る名古屋の街は,いやに焼け跡が多く,広い道路だけが目立つ殺風景で活気のない街に見えた。巡業の第一戦に選んだ名古屋だっただけに,果たしてこの興業がうまくいくかどうか不安だった。しかし,どうしても興行は成功させなければならない。日頃鍛えた技と,迫力のあるファイトで名古屋のファンを熱狂させれば,あとはきっとそれが評判になって成功するはずだ。
 そして私は,この巡業第一戦に,いままでひそかに練習していた秘密兵器必殺の〝アルプス落し〟を披露することにした。これは,敵を肩ごしにうしろからかかえ,頭上に持ちあげた瞬間自分も倒れながら後方に落とすという豪快な技である。
 この日,私と対戦したラウル・ロメロはどうしたことか最初から荒れ模様であらんかぎりの反則をしかけてきた。とくに,こぶし打ちはものすごかった。へビー級ベクサーがくり出すようなストレートを,顔といわず胸といわず浴びせてきた。むろん,レフリーの制止など聞くはずがない
 満を持していた私は,ついに必殺のアルプス落しを使うことにした。いままで一度も見せたことがなかっただけに,ラウルはもちろんこの荒技を知らなかった。必殺アルプス落しはモロに決って,一発でラウルはリングにのびてしまった。この威力に私自身もおどろいたが,それ以上におどろき,そして喜んでくれたのは金山体育館につめかけた名古屋のファンだった。
〔私の首投げ見事にきまる。相手はロメロ〕

〔私の首投げ見事にきまる。相手はロメロ〕

鵜匠のあやつりによく似た複雑な巡業の手配

 翌朝は全員6時起床。朝食もそこそこに岐阜へと向った。早起きというのに団員の顔はうきうきとにぎやかである。昨夜の興行の予想以上の成功を祝って,思っ切り羽根を伸ばしてドンチャンさわぎをしたからである。
 へドを吐くまで頑張る猛訓練と失神するまで戦う試合だけでは,団員はだれもいやになってしまう。興行が成功したときには,みんなで酒をくみかわし,ともに喜び,あすへのファイトを誓い会っていく雰囲気こそ,巡業をささえていくものであることがわかってきた。
 長良川の鵜飼で有名な岐阜も,ちょうど5月11日まではシーズン・オフで観光客の姿も見られず,大へん静かだった。なにも知らない外人レスラーたちは,日本の有名な鵜飼が見られないと知って大むくれだった。そして,臨時に舟を出して〝ワンダフル鵜飼ショー〟を見せろといってきかないのである。私は説得するのに大わらわだった
 この日は市内行進がないので,試合までの数時間,会場近くまでブラブラ散歩に出た。そして,途中でフト目にとまったのが,5月11日から始まる鵜飼のポスターだった。そこには川面にうつるかがり火にてらされて優雅に鵜をあやつる鵜匠の姿があった。
 水中にもぐってはせっせとアユをとってきた鵜は,のどをしめつけられてアユを吐き出し,またもぐる。たくみに綱をあやつる鵜匠の命令に忠実に従う。そこには鵜の悲しくきびしい運命があるようだが,客の見ていないところでは,鵜匠は鵜をわが子のように可愛いがっているにちがいない。そうでなければ,いくら訓練したからといって,すぐに吐き出さなければならないアユをそんなに一生懸命とってくるはずがない。
 ポスターをぼんやり見ながら,きびしい訓練と愛情にささえられた見事な鵜匠の手さばきは,どこか巡業の手配に似ているような気がした。日頃の激しいトレーニングと,興行につきものの複雑な対人関係,民族風習のちがう外人レスラーの扱い,これらがちょうど鵜をあやつるように一糸乱れず,うまくできるようになるには並大低の苦労ではなかった。そして,この努力はたんにプロレスの巡業のみならず,私の長い人生にとっても大いに勉強になったのである。
 岐阜での試合は,期待した鵜飼が見られなかったうっぷんをリングにぶつけるかのように大荒れになった。とくにキング・タイガーの暴れかたはものすごく,早くも前座試合から血を見ることになってしまった。
 外人レスラーと寝食をともにしていると,彼らの感情とか習慣というものがよくわかってくる。リングでは残酷なまでの暴れ方をしても,いったんリングをおりると,まるで人が変わったように陽気で人なつっこくなる。逆に日本人は,リング上での反則を試合が終わってからも根にもって,なかなか忘れようとしない。確かに日本人の性格としては,努力して磨いた技で相手を倒そうとする。反則で勝とうなどとは最初から考えていない。
 ところが,外人レスラーは,試合を盛りあげ,観衆をエキサイトさせるためには平気で反則をする。これが結果的には興行の成功につながるのであるすなわち,リング上での行動は,すべてビジネスと割り切っており,試合が終わればあとになにも残らないのである。当時の日本人には,これを理解するまでにかなりの時間がかかった。
 こうして幸いにも連日の好況に団員のギャラもグーンとあがり,再々起の旗揚げは順調にすべり出した。
 翌日は有名な〝日本ライン下り〟を満喫し,英気を養って次の巡業に備えることにした。
〔長期巡業の第1戦は,この城で有名な名古屋市で行われた〕

〔長期巡業の第1戦は,この城で有名な名古屋市で行われた〕

大きな豚を2日でペロリ

 昭和31年5月18日,岡山県倉敷市を皮切りに,始めての長期巡業に出ることになった。団員にとっては始めての経験でもあり,最後の巡業地は木村政彦団長の出身地である熊本ということもあって,いやがうえにも活気がみなぎっていた。
 倉敷に着いた一行は,デモンストレーションの意味もあって駅から旅館まで歩いて行った。大男たちが荷物をかついで市内をのし歩く姿を見て,織物の町倉敷は一度にプロレス・ブームに火がついたようだった。
 やがて地元の興行師に案内されて試会場について驚いてしまった。当然,体育館か市民会館だとばかり考えていた私たちは,織物会社の倉庫の一角が会場だと知らされていっペんにファイトをなくすところだった。
 当時は東京,大阪,名古屋といった大都市以外は,体育館や市民会館はなかった。興行師がかけずり廻ってやっと探したのがこの倉庫だったのだ。私はしょげかえっている団員たちに「これからの長い巡業のうちには,もっとひどい会場があるかも知れない。しかし,われわれの試合を見に来てくれるお客様には関係ない。きっと満足してくれるようないいファイトを見せようじゃないか。会場が気に入らないからといってやる気のないやつは荷物をまとめてサッサと帰れ」ときびしく注意した。
 団員たちも私の気持を理解してくれ名古屋や岐阜にも劣らない好試合を見せてくれた。
 試合が終わったあと,織物会社の社長さんはていねいにわれわれ一行を自宅に招いて,地方独得の素朴なもてなしをしてくれた。久しくこのような心温まるもてなしを受けたことのなかった都会育ちの私は,そこにほんとうの日本人のこまやかな人情をみたような気がした。
 さてその夜の食事のことで問題がもちあがった。倉敷名物の藤戸まんじゅうなどが出されて,日本人レスラーは喜んで食べていたのだが,外人レスラーから苦情がでて,どうしても肉を出してくれといってきかない。いまでは食料も豊富であり,プロレスラーはもちろん,体力を必要とする運動選手たちは肉類中心の食事をしているが,当時はそれほど簡単に肉が手に入らず,とくに,東富士や豊登など力士出身のレスラーが多かったために,体格づくりには大豆やいもや大めしを食い,夜はちゃんこ鍋と,ただ胃袋に大量につめ込むのがいちばんで,肉などはごく一部の金持の食べ物だというような考えがあった。
 そこでなんとか急に肉を調達しなければならなくなったわけだが,予算との関係もあり,いろいろ考えた結果,倉敷郊外の農家から豚を一匹払い下げてもらうことにした。そして,朝晩いゃっというほど食べさせた。連中のうれしそうな顔,飽くことのない食欲,ついにこの大きな豚を2日間でたいらげてしまった。それからは,巡業先の旅館につくやいなや,まっ先にするのが肉類の調達だった。

粗末なリングが好ファイトを誘う

 倉敷の巡業も無事にすみ,5月19日夜行列車で次の巡業地柳川に向った。大勢の大男が夜行列車で移動するくらいきついことはない。いくら大きいからといって2人掛の椅子に1人というわけにはいかない。2人ずつ向い合って4人で坐ったときなど,膝はぶつかるし,お尻はつかえてなかば中腰でいなければならない。このときばかりは体の小さい人がうらやましくなる。
 柳川の試合場も,学校の古びた講堂だった。私は次の興行はきっといい会場でやるから,きょうは不満をいわずに好試合を見せてくれ,と頼むよりほかなかった。前の巡業地倉敷で,会場の良し悪しをいってはいけない,とカツを入れておいたのだが,続いてまた古びた講堂となると若い団員や,プライドの高い外人レスラーからは当然文句が出る。とくに,酋長として大いに尊敬されているヤキ・ローチャや,メキシコのラモン・ロモあたりは露骨に不満をあらわしていた。
 しかし,この不平不満もときにはいい結果をもたらすものである。というのは,悪い会場に腹をたてた外人組はこれをリングの上で爆発させたのである。当然血がとび散る凄惨な試合となった。食事を肉食主義に転換したおかげで,少々の血を出したくらいでは貧血でぶっ倒れるものもなく,思う存分ファイトすることができた。
 このように連日血のとび散る荒々しいプロレスは,大いに観衆をわかせ,それが評判になって興行はいつも大入満員の盛況を呈するが,われわれからすれば商品であるレスラーが次々と傷つき,そのやりくりがまた大変になってくる。

呉で名付けた〝原爆攻め〟

 そこで呉の興行では,私の柔道時代の知人で,いまでは地元の有力者として知られている角野六段と進道六段に長距離電話をして,なんとかいい会場と立派なリングを用意してくれるように無理なお願をした。
 友だちとはいいものである。二つ返事で吉報がかえってきた。立派な体育館を借りてくれたというのである。さあみんな今度は久しぶりで本格的なリングで,思う存分やれるぞ,と早くも団員の気持は呉の試合にワクワクしていた。
 呉につくと,赤銅色のガッチリした体格の角野さんが一行を出迎えてくれた。ホテルについてひと休みしたあと,広島までの市内行進が用意されていた。久しぶりに都会の雰囲気を味わい,めずらしい原爆ドームなどを見てまわった。
 会場である体育館もなかなか立派なものだったが,それにも増してうれしかったのは,角野,進道両氏の指導で会場設営のあちこちに,さすがスポーツマンならではの細かい配慮がなされていることだった。ひしひしと感ずる友情に,私は感謝の気持をこめてリングから無言の目線を両氏に送った。
 この日の試合は,市中行進のときに見た原爆ドームが脳裏から離れず,なんとか原爆のように一発で反則魔ヤキ・ローチャをマットに沈めて,つもるウップンを晴らしたいと考えた。
 いよいよゴング。中盤に入ったころ私のうった首投げがモロに決まり,ふらふらと夢遊病者のようになったローチャ。そして次の瞬間,私の太い腕がガッチリと彼の下腹にくいこみ,満身の力でしめつけているではないか。
 ローチャは苦しがってうなり声をあげている。「オーノー!ドームじめ!」といっているように私の耳にはきこえてきた。そして,マットに1回,2回と立ったまま,ちょうど餅をつくように打ちつけた。ローチャの大きな上半身は,苦しさに左右に大きな円をえがいてもがいていた。その姿はあのおそろしい原爆の木のこ雲のように見えた喜んだ観衆は,私のこの技に〝原爆攻め〟と命名してくれた。
 この日は,血染めの凄惨な試合は少なく,むしろ素晴らしい技の応酬でお客さんを魅了した。これは両先輩のご尽力で立派な体育館とリングが提供されたからであろう。そして,プロレス本来の姿をとり戻すことができたのである。
 両先輩に花むけとしていいファイトをお見せすることができ,私の気持は久しぶりに日本晴のようなすがすがしさだった。(つづく)
[ 月刊ボディビルディング 1973年9月号 ]

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