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東海村にボディビルの灯をともす

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[ 月刊ボディビルディング 1973年6月号 ]
掲載日:2017.10.23
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日本原子力研究所・東海研究所
赤間行三

1 ボディビルとの出合い

 確か「3カ月で見違えるような体になれる」と書いてあったと思うが,京王線柴崎駅の案内板に貼ってあったポスターを目にして,半ば持前の好奇心と,半ばポスターの台詞を体現したいと思う気持から,調布ファイティングボディビル・クラブの戸を恐る恐る叩いたのは,街路樹も黄ばんだ42年の秋も終わりに近づいた頃であった。
 三十路の峠を登り,しかも胃弱で細い骨格の持主でも入会の資格があるのかという単純な問いに対し,トレーニングの最初は苦しいが,ボディビルは胃弱のひとに極めて効果的であり,階段を昇るときの息切れもなくなると,微笑を浮かべながら,やや控目な口調で,その効能を語ってくれたのがこのクラブの温井会長だった。
 身長171cm,体重僅か51kgであった私とボディビルとの運命的(?)な出合いはこうだった。
 母の言によれば,私が痩身で胃弱なのは,幼少時に患った赤痢が原因ではないかとのことである。
 戦事中の食糧難時代に,珍しく口にしたご馳走を裏庭で吐潟した記憶は未だ生々しいし,虚弱ゆえに筋力も弱く鉄棒にぶら下ったまま懸垂一つできず腕白坊主からは侮蔑され,教師からは「敗残兵!」と罵倒された小学校時代の出来事を,今日になっても夢見ることがある。虚弱であるために,どれほどの屈辱を味わったことか,そして,健康で体力のある級友をどれほどうらやましく思ったことか,私のつたない文章ではそれを的確に表現することはとてもできない。
 社会人になって,体力を競う機会がなくなったせいか,痩身であることについては,それほど意識しなくなったが,胃腸には全く自信がなかった。新聞やテレビで新しい胃腸薬の発売を知ると,直ちにそれを買い求めることが日常茶飯事となっていた。
このような私が,ボディビル・クラブを訪れたのは,好奇心もあったろうが,やはり,せめて人並の体になりたいというささやかな願望が,四六時中強く意識の底でうごめいていたのであろう。トレーニングに励めば,起床時に感ずる胃の不快感や,空腹時に時折り襲われる胃の痛みから解放されるかもしれないという,祈りにも似た気持があったのも事実である。
 しかし,それまではボディビルによって鍛えられた肉体は,所詮人工的な造形物で,盛りあがった筋肉は健康とは無関係だと思っていたし,ボディビルの効能書も誇大宜伝にしかすぎないと考えていた。漢方薬をはじめとして目にしたあらゆる胃薬を口にし,「テルミー」と称する怪しげな胃カイロを試し,胃下垂帯を身につけても効果がなかったことを考えれば,ボディビルの効用について半信半疑であったのは当然である。

2 難行苦行のトレーニング

 それにしても初期のトレーニングは難行苦行だった。腹筋の痛みで背筋は伸ばせず,ペンをとっても手に力が入らず,階段を昇るときには脚があがらず,全身の細い筋肉が痛みで腫れあがったようであったといっても過言ではない。
 とにかく,1ヵ月は何が何んでもと悲壮な決意で,痛みに耐え,汗を流した。15kgのベンチ・プレス,20kgのスクワットがどのくらい続いたろうか。ジムの片隅で,顔を歪め,あえぎあえぎ呼吸をしている私に,いつもそばに立って適切なアドバイスをしてくれた温井会長の励ましがなかったら,恐らく途中で降参していたに違いない。
 3ヵ月経って,ポスターの台詞を具現するまでにはいかなかったが,体重は2kgほど増加し,筋肉の痛みもようやくなくなり,3ヵ月前の痛みがまるでひとごとのように感じられた。この頃になると体力もだいぶついてきて,最終電車のドアが開くやいなや飛び出し,少しでも早くタクシー乗場の列に並ぼうと,階段を三段飛びで駆けおり競走するかのように何人も追い抜いていくのがまことに痛快であった。
 6ヵ月後にクラブのパワー・コンテストがあった。私の実力はベンチ・プレス32.5kg,スクワット45kgで,もちろん,ジムの記録としては最低だったが,半年前の記録と比べると大きな進歩である。
 こうなるとトレーニングにもますます熱が入ってきて,記録を克明にノートに書き留め,徐々にグラフの曲線が上昇カーブを画くのを見て一人で悦にいっていたものである。記録があがるとともに体重も増加し,胃薬を買いに薬局へ立寄る回数はめっきり少なくなった。
 仕事が深夜に及んでも,ボディビルをしているんだという意識が睡魔を追払い,同僚が疲れたといっても,私だけはこれぐらいの仕事で疲れてはならないんだ,という気負った妙な自負心が私を支えてくれた。
 こうなるとトレーニングはもう完全に生活の歯車となってしまった。手帳にメモした出欠表に(欠)のしるしが続くと,何か間違ったことをしたかのような錯覚をおぼえた。
 しかし,私にはそれほどの自制心があったわけではなく,ただ温井会長の良きアドバイスや,苦しさに耐え,汗水流しているクラブの僚友の姿が大きな励ましとなっていたのである。とくに,40才を越しながらも100kgのべンチ・プレスを軽々と繰返す次山さんの姿は,及ばないと知りながらも私の目標となっていた。
 46年秋のパワーコンテストの記録はベンチ・プレスが70kg,スクワットが80kgであった。この頃は体重も60kgを越すまでになっていた。お陰で「努力賞」の循を授かった。小さいときからおよそスポーツと名の付くもので賞をもらったことのない私にとっては,忘れることのできない人生の一大事であった。それに自信を得て,友人に腕角力を挑戦し,勝っては子供のように喜んだ。単純といえば単純であるが…。また,不快な出来事があっても,トレーニングに精を出せば,それは汗とともに流れ去ってしまうし,少々の下痢でも腹筋運動を繰返せば一晩で治ってしまう。そして,ことあるごとにボディビルの効用を友人や知人に語ったものである。
 こうして私の肉体改造の鍛練場であるとともに,精神の修練場でもあった調布ファイティング・ボディビル・クラブとも別れなければならない日がきた。それは私が東海村に転任になったからである。
〔東海村,原子力研究所の全景〕

〔東海村,原子力研究所の全景〕

3 原研ボディビル・クラブ

 茨城県那珂郡東海村にある日本原子力研究所は,大平洋を目の前にし,青々とした気品のある松林に囲まれ,スモッグも公害も知らない別天地である
 野球場,テニスコート,プール,サッカー場,体育館と体育施設にはまことに恵まれているが,残念ながらボディビルの道具はなかった。柔道場の隅にわずかに腹筋台とバーベルが1つころがっていただけである。
 私が赴任してすぐにこれをボディビルのトレーニングに活用しようと考えたのはもちろんである。数名の同僚を誘って細々とトレーニングを始めた。徐々に道具も整備され,どうやら格好がつくと,いままでひやかし半分に訪れていた者も一緒にトレーニングに精を出すようになり,現在ではメンバーも30名近くになった。
 こうしてだんだん本格的なトレーニングを行うようになってくると,トレーニング法をろくにマスターしていない私がトレーナーでは心細いので,去る3月30日,ファイティング・ボディビル・クラブの温井会長と古谷さんに遠路をお越し願って指導を受けた。そして,古谷さんの見事なポージングに一同が驚嘆した。
 原研ボディビル・クラブのメンバーの平均年令は30才を越している。胃下垂気味の者,腰を痛めている者,太りすぎの者,疲せすぎの者,より筋力をつけたい者,その構成は多様であるがボディビルに期待する思いは同じである。健康で,より頑強な身体を鍛造することである。
 またつい先頃,原研ボディビル・クラブのことが東海村教育委員会の耳にもはいり,ぜひ協力をしたいという,まことに喜ばしい申出があった。これからさらにクラブを発展させ,ミスター日本のコンテストに参加し得るようなビルダーを育てあげたいと夢見ている。
〔原研ボディビル・クラブの有志。前列右から2人目が私,隣が温井会長,その隣が古谷さん〕

〔原研ボディビル・クラブの有志。前列右から2人目が私,隣が温井会長,その隣が古谷さん〕

4 体を鍛えること

 ボディビルを行うことによって「根性」が生まれ「克己心」がつちかわれるのは事実である。しかし,これは所詮副次的なものであろう。健康で,より頑健な体を鍛えることが最大の眼目であると思う。
 ふだんは意識していないが,健康であることがどんなにありがたいことかそして,活力に溢れた生活がどんなに楽しいものか。今日の激動の社会においては,頑健な肉体から生まれる智力こそが有用である。頑健な身体を願う前に,どうしたら頑健になれるかを考えるべきではないだろうか。
 「……人間は,身体が壮健でなくてはならない。精神の勇ましいのと,根気の強いのとは,天下の仕事をする上でどうしてもなくてはならないものだそして身体が弱ければ,この精神とこの根気を有することはできない。……昔の武士は,身体を鍛えることには,よほど骨を折ったものだ……修業して鍛えたものだから,そこでおれのように年を取っても身体が衰えず,精神も根気もなかなか今の人たちの及ぶところではない。……」
 この言葉は,維新の激動を切り開いた勝海舟75才のときの言葉である。もって座右の銘とすべきであろう。
 いま机に向っている私のそばで,安らかな寝息をたてている愛息が,いつの日か大きくなって,私と海でたわむれるとき,重いリュックを背にするとき,鍛えあげた私の五体を見て,かつて私がスポーツ万能であった私の父を畏敬したように,誇らしげに,そして頼もしい父と感ずるであろう。
[ 月刊ボディビルディング 1973年6月号 ]

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