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ボディビルと私 その<6>〝根性人生〟

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[ 月刊ボディビルディング 1973年10月号 ]
掲載日:2017.10.22
記事画像1
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影四郎
 中国地方のプロレス巡業も予想以上の反響と成功のうちに終わった。そしていよいよ御大木村政彦先生の出身地九州へと足を延ばした。
 この頃,力道山の率いる日本プロレス協会は,世界タッグ選手権保持者と名のるシャープ兄弟,続いて全ヨーロッパ・チャンピオンでユーゴの荒鷲と異名をとるシモノヴィッチなどを呼んだ。そしてこれを迎え打った力道山・遠藤組との熱戦は,折りからのテレビ中継と相まって,日本国中は興奪のるつぼと化した。
 われわれの国際プロレスも,再起以来,各地での好試合が評判となり,着々と実績をあげ,これからのマスプロ時代への企画を走らせていた矢先のできごとだっただけに,力道山をはじめとする日本プロレス協会のこの華々しい活躍には少なからずショックを受けた。しかし,木村政彦先生の出身地,九州へ来てみて,われわれの人気のすごいのに,そんなショックもすっかりふっとんでしまった。

男の町,八幡で見せた〝玄海鉄頭打ち〟

 さて,九州での第1戦は,製鉄で有名な北九州の八幡であった。
 昭和31年5月26日,小雨が降りそそぐ鉄くさい町は,八幡製鉄(現新日本製鉄)を中心とした工場群が林立し,すごい活気を呈していた。そして案内された会場は八幡競輪場。いかにも男の町らしくスケールの大きいものだった。
 すりばち状になった競輪場に一歩足を踏み入れたとたん,中央に設けられとリングが豆つぶのように小さく見え
まるでローマのコロシアムで戦うような錯覚におちいった。そして一行の顔もニンマリと,いやがうえにもファイトをかきたてられたのである。
 ふだんはギャンブルで立錐の余地もないほど観衆でふくれあがるこの広い競輪場が,果たして満員になるだろうか。入りが悪ければ,広い会場だけにかえって目立ってみっともない。ライバルの日本プロレス協会の華々しい活躍に負けてはいられない。市中行進でもなんでもして,なんとしてでもこの広い競輪場をいっぱいにしなければならない,とみんな一生懸命だった。
 折りあしく小雨まじりの悪天候だったが,さっそく大型のフォードが用意されて市中行進へと出かけた。
 われわれの宣伝カーが一歩町に入るや,車はたちまち黒山の人に囲まれてしまった。見れば日曜日でもないこの日中に真黒で筋骨たくましい,いかにも働き盛りといった男たちばかりではないか。あとで聞いてみると,製鉄所は溶鉱炉の火を消さないために24時間操業で,夜勤をして昼間社宅に帰ってくつろいでいる人たちであることがわかった。もちろん,この人気はテレビの影響もさることながら,プロレスが男くさい八幡の町にピッタリのスポーツであったからだ。
 さすがに日頃鉄をつくり,鉄と戦っている男たち。みんな立派な体格をしている。その発達した腕,とくに上腕三頭筋のよく発達した人が目立った。中にはこぶし大に盛りあがった僧帽筋の人もいた。きっとあの人はいつも鉄をかついでいる人だろう。こっちの人は鉄をもちあげている人だろう,と勝手な想像をしながら,われわれの宣伝カーは八幡の町を進んでいった。
 幸い雨もあがり,タやみがせまる頃にはさすがに広い競輪場も満員御礼となって,私のとりこし苦労も水の泡と消えてしまった。
 熱心なファンは,選手の控室にやってきて,「わいは職場でのう,一番腕角力が強いが,一度いまはやりのプロレスの本職と手合わせ願いたい」と,九州弁丸出しで挑戦してくる人などもいた。
 いよいよ中央にライトが照らされ,リング上ではいつになく白熱した壮絶な試合が展開されていった。レスラーの一挙手一投足に興奮した観衆のどよめきと歓声が競輪場全体に響き,それが互いにこだまのようになって耳をつんざくようなすごさだった。
 こうなれば選手もそれにつり込まれて自然に力が入り,血が煮えたぎり,熱戦にさらに拍車がかかる。とくに外人選手はそうであった。トゥーホールド(足固め)やキイロック(腕固め)など難なく次から次へと出てくる。もちろん,反則攻めもいつもの数倍も仕掛けてくるのだった。
 私は昼間の市中行進のときから,きっと今夜のリングでは,外人勢の反則はすごいだろうと予測していた。そして,彼らの反則を防ぐには,攻撃が最大の防禦であり,なにか新しい技を出そうと考えていた。それには,かねてひそかに練習していたあの強烈な技を試してみようと心にきめた。
 その技とは,大木のふしに自分の頭を打ちつけたり,ひじで打ったりして鍛えたもので,私はこの技を〝玄海鉄頭打ち〟と名付けてこの夜披露した。果たしてこの荒技にさすがの外人勢も度ぎもを抜かれ,私は九州の第1戦をものにすることができた。

美しい鹿児島で知った〝ほんとうの根性〟

 次の興行は,九州の最南端鹿児島である。私も巡業で各地を廻ったが,その中で最も美しい町としていまでも脳裡に焼きついている。
 鹿児島の美しい街並みと桜島のとり合わせは,ナポリとベスビオのそれにたとえられ,澄みきった空気と明るい風光,とくに城山からの眺望はすばらしく,370年間栄えてきた島津72万石の歴史をしのばせる城下町,そしていまなお鹿児島の人々の心に生きている西郷どんの遣跡,さらに男性的な火の島,桜島が混然一体となっている。
 この美しい景色に外人選手もことのほか上きげんだった。しかし,こういうときのあとのリングは必ずといってよいほど荒れるのが常だった。
 ふと目を清美川さんにやると,いつも昼寝という力士時代そのままの生活なのに,きょうはいつになく張り切っている。オープンカーによる市内行進が終わるのを待ちかねたように一番最初に練習に入ったのも清美川さんであった。そしてダンベルで肩と腕を鍛えながら「きょうはやるよ!さっき木村先生からいわれたんだ。わしとかけてみんか!!わしはロメロのもつメキシコ・ジュニア・へビー級タイトルを獲得するから,清美川よ,ヤキ・ローチャのもつ全米インディアン・タイトルを獲れ,とね」といいながら休むことなく練習に意欲をみなぎらせていた。
 私も清美川さんに負けじとさっそく練習をはじめた。よし!今夜はひとつ桜島の噴煙のようにドロップ・キックを出してみよう。この技は,相手より早く,しかも高く跳んで,足のうらで蹴らなければならない。それにはなんといっても足のバネを鍛えておかなければならない。
 私は鴨池のほとりに出て,くり返しスクワットを行なった。スクワットが一段落すると,今度はふるえる足をひきずりながら池の回りを何十周も走った。キーンと張りつめた大腿部は,心地よく安定感を増し,今夜の勝負に対する自信が泉のように湧いてきた。この試合前の激しいトレーニングは,いつも私をして勝負の鬼と化すのだ。
そ の夜の試合は鴨池グランド「特設リング」で行われた。果たして試合は大荒れに荒れ,回転エビ固め,波のり固め,地獄固め,尾底骨割りと恐ろしいきまり技が次々ととび出し,はては乱斗,出血,反則,リング・アウトとまさに修羅場と化した。
 とくに,この夜の清美川の一戦はものすごかった。大相撲でつちかった石のように重く安定した腰を使っての払腰,首投げには,さすがの全米インディアン・チャンピオンもたぢたぢで,手も足も出なかった。
 清美川ペースで前半を過ぎたころ,チャンピオン,ヤキ・ローチャは形勢不利と読みとったのか,清美川の額めがけて得意の〝かぶりつき〟の反則技をしかけてきた。インディアンのかぶりつきは,肉を喰う野生の姿そのものだった。たちまち鮮血がポタッポタッと落ち,ちょうど戦場で兵士が額を打ち抜かれたときのようなものすごい形相になってきた。
 血が目に入って方向の定まらない清美川は,夢遊病者のようにリングの中を両手を前に出してさまよっているだけだった。そしてそれでも木村先生とのタイトル獲得の約束を守らんがために,勝負を捨てようとはしなかった。この姿を見たとき,私はいままで求め続けてきた〝根性〟をはっきりととらえることができたような気がした。
 戦いを本職とする者の最後の技,最後の姿,あるいは極意とでもいおうか清美川のこの執念のような姿を見て,ヤキ・ローチャはしばらく攻撃することができなかった。それまで興奮で割れんばかりだった会場も,一瞬,水を打ったような静けさになりシーンとした気持の悪さを漂よわせていた。
 試合続行不能とみたレフリーは,ここでレフリー・ストップを宣言した。異様な雰囲気と,清美川のものすごい形相におそれをなしたローチャは,リングの外へ逃げ出してしまった。
 このあとはいよいよ私とラモン・ロモとの対決である。前の試合があまりにも凄惨だっただけに,なんとかきれいなファイトを見せようと心掛けた。といっても,決して戦いをあいまいにするのではなく,短い時間に正しい技で,堂々と相手をマットに決めたいと考えたのである。
 しかし,いざ試合が始まってみると相手も一流のレスラー,そうたやすく決めることはできない。清美川さんのためにも絶対負けてはならない。正々堂々と極技で結着をつけてやろう。それには必ず相手より一歩先に技をかけねばならない。
 45分1本勝負。すでに20分を過ぎていた。私の気持はあせるだけで,次第に体力が消耗し,思うように体が動かなくなってきた。いくら鍛練しているからといっても,リング上での激しい動きを45分フルに続けることはなかなかできない。胸に動悸を感じ出す頃には,背中に石でもくくりつけられたようで,ファイトだけはあっても動作がともなわない。
 この試合に備えて昼間鴨池で練習した飛び蹴りも,なかなか急所にキックできない。相手より早く高くという鉄則も,時間がたてばたつほど不利になる。だんだん動きがにぶくなってくるからだ。
 よし,では意表をついて飛びちがえて飛び蹴りをやろうと考えた。この技は,ふつうの飛び蹴りの要領で飛びあがるや,相手が正面から防禦の攻撃をかけてきたら,側面から飛びあがりながらかわして,相手がうしろ向きの態勢になったときに,さらに跳躍して相手の後頭部に飛び蹴りを決めるという高度な荒技である。しかし,この技は1つタイミングがくるうと,かえって自分の致命傷となってしまう。
 幸いにも思い切って出したこの荒技が見事に決まり,清美川さんの雪辱をようやく果たすことができた。
 最後に木村先生も大乱闘のあげく,2対1でロメロを下し,メキシコ・ジュニア・へビー級のタイトルを獲得した。
 こうして,鹿児島では日頃鍛えたあらゆる技を出し尽し,さらに清美川さんから学んだほんとうの根性など,その後の私の人生や今日のジム経営などの教育材料として,生きた教材として大いに役立っている。
〔ダンベルを使って体を鍛える清美川さん 1956年,鴨池グランド控室にて〕

〔ダンベルを使って体を鍛える清美川さん 1956年,鴨池グランド控室にて〕

木村政彦御大の出身地熊本で前途に暗い予感

 さて次の巡業地は,木村政彦先生の故郷熊本。打あげ興行と銘打ち,最後の決戦場となった熊本での人気は,木村先生の出身地ということもあって,まさに空前といってもよかった。市中行進では紙吹ぶきが飛びかい,地元出身の英雄とプロレス人気が一緒になってムンムンとする熱気が市内にただよっているようだった。
 私はこの異常な人気を喜んでばかりはいられなかった。それは,ふくれあがったこのプロレス人気も,必ずいつか下り坂になるだろう。これはすでにプロ柔道で味わった。この人気を長く続けるにはどうすればいいだろう。この巡業が始まってから,いつも私の頭から離れなかったのはこのことであった。
 私がある人を通じてひそかに企画していたプロレスのテレビ定時番組も力道山を中心とした日本プロレス協会に先を越されてしまった。このテレビ放映によって,今回のわれわれの巡業も人気面では大いに助かった。しかし,わが国のプロレスのほんとうの人気は,あくまでも国際プロレスではなく,力道山のひきいる日本プロレス協会だった。
 あるときなど,われわれの試合を見にきて,力道山はいないのか?遠藤はどうした?と,さわぎ立てる者さえいた。そのたびにテレビの持つ力の大きさと,これを先取りされたくやしさがこみあげてきたのだった。
 試合を前にして私は団員を集め「今回の巡業の優終の美を飾り,木村先生の好意にこたえるためにも,今夜こそ全員思いきってよい試合をしよう。そして,あすからはまた,次の巡業を目指して精進してもらいたい」と注意した。このときの私の頭の中には,いつまでも日本プロレス協会の人気におんぶしたいまの状態が,次第に悪くなっていくような気がしてならなかった。
 熊本でも私は何か新しい技を見せたいと思い。幼い頃の米俵かつぎからヒントを得て,相手を飛行機投げのように肩にかつぎ上げ,回転させながら差し上げて,ふり落とすという技を試みた。そしてこの技を〝田原坂落し〟と命名して,その後の私の得意技の1つともなった。
 こうして全巡業は無事に終わった。興行成績も上々だったし,団員たちの技もかなり上達した。その他いろいろのことを学んだ。
 木村政彦先生の猫手チョップ開眼にはじまり,赤チョッキを着せられての市中行進,鵜匠から学んだ経営学,プロレスは会場の良し悪しではなく技と中味だと知らされた倉敷の倉庫,呉での友情のありがたさと〝原爆ドームじめ〟,〝玄海鉄頭打ち〟と鹿児島での桜島の〝噴火蹴り〟,そして最後に熊本での〝田原坂落とし〟などの新しい技と数々の思い出が,走馬燈のように大阪に帰る車窓に映し出されては消えていった。
〔戦いすんでキラー・ジャックと健闘をたたえあう(熊本)〕

〔戦いすんでキラー・ジャックと健闘をたたえあう(熊本)〕

第2次地方巡業悪い興行師にだまされて無ー文

 続いて第2次の地方巡業に出ることになった。こんどの巡業は第1次よりはるかに強行軍で試合数も多く,前途にはなにか大きな問題が起こるような気がしてならなかった。
 まず和歌山を皮切りに海南,御坊,白浜,串本など南紀コースをとおって熱海,伊東,下田などの伊豆コースから,東京に入り,千葉,木更津,館山の九十九里コース,続いて日光,宇都宮コースをたどり,最後に私のプロレス界引退の決定的事件の舞台となった花巻という順序だった。
 この花巻での事件とはつぎのようなものだった。
 最初に興業師から出された条件もかなりよかったし,地元の人だということも聞いていたのでなんの疑いもなくとびついた。プロレスの人気も一時ほどではないにしても,かえって根強い人気になりつつあった。その花巻での興行も無事に終わり,われわれは宿屋に帰ってくつろいでいた。
 ふつう興行が終わると,すぐ興行師がきて,売上げの中から約束の契約金を支払うのが慣例である。しかし,この日に限ってちょっと遅いなあと思い女中さんに会場へ電話をとりついでもらった。あとかたづけをしていた夜警さんが出て「ついいま出てそちらに向いましたよ」という。
 いまかいまかと待つこと1時間。11時になっても帰ってこない。そこへ宿屋の主人が来て「興業師さんはもう次の興行地へ向われたんですか?うちのものがさっき駅で見かけたそうですよ」という。
 おかしいなあ!!今晩一緒にここに泊まることになっているんだがなあ。こう思った瞬間〝しまった!!逃げられた〟私の第六感にピンときた。「興業師が逃げた!!みんな駅へ行ってつかまえるんだ!!」私は先頭に立って走りに走った。いきせききって駅についてみると「汽車は出ていく煙は残る」ほんのちょっとのところで逃げられてしまったのである。
 すごすごと宿に帰り,みんなの持金を全部集めたがとても足りない。「カネオクレ ジコアリ シンパイスルナ」大阪に向けてすぐ電報を打った。その後3日間,金が届くまで宿屋で待つことにした。その時の長いこと。3日間をこんなに長く感じたことはなかった。この長い3日間は,私にいろいろのことを考えさせてくれた。
 その頃,日本プロレス協会では,全日本プロ選手権大会を発表するなど,われわれの国際プロレスとは月とスッポンほどの違いで,ますます隆盛をきわめていた。そして,私にもぜひ出場して欲しいとの要請状がきた。
 この全日本プロ選手権大会は国際スタジアムで行われた。このときへビー級準決勝に進出したのは東富士,豊登,山口,そして私の4人であった。
 山口(9分18秒,腕固め)月影
 東富士(5分15秒,体固め)豐登
となり,私は3・4位決定戦で豊登に破れ,残念ながら4位であった。なお決勝戦は山口と東富士が引分けで1位をわけ合った。
 私はいよいよこれを最後に,一度じっくりと将来について考え,それに向って一路邁進すべく意を決した。


つづく
[ 月刊ボディビルディング 1973年10月号 ]

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