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ボディビルと私 ~ ボディビルが自転車日本一周をさせた! ~

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[ 月刊ボディビルディング 1968年8月号 ]
掲載日:2017.11.22
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小菅 栄夫

◎ ボディビル雑誌がとりもつ縁

 私は、昨年4月から今年の3月まで小型の自転車による“日本一周全国高等学校めぐり”(北海道→沖縄)という名目で、無事1年間の旅を終わることができた。

 おそらく、ボディビルにめぐり会っていなかったら、こんにちこのような自分も存在しなかったし、このような旅もとうていできなかったろうと、いまさらながら、ボディビルを知りえたことを幸福だったと思っている。

 私は生まれつき虚弱体質であった。とくに胃腸の弱さにはホトホト困りはて、中学時代から、自分なりに研究して、いろいろな薬をのんだり、器具を使ったり、また病院にもかよった。高校時代になってからいくらかよくなったものの、身長 166cm(現在170cm弱)。体重 55kgというありさま。

 元来本が好きだった私は、大学に入学すると、よく神田の古本屋街を歩きまわった。そんなある日のこと、とある本屋でアメリカのボディビル雑誌を見つけ、すばらしい肉体の写真にわれを忘れ、陶酔してしまった。同じ人間でも、鍛えることによって、こんなにも変化するものか……。

 これが…私がボディビルを知ったきっかけである。

 しかし、大学時代は、下宿生活で、ボディビルをやる場所もなく、器具を買う金もなかったので、休暇で帰省したおり、モミすり機の廃品からとりはずしたゴム・ローラーにセメントをつめ、それをわざわざ東京の下宿まで運んだ。そして、それに鉄アレーを加え、せまい下宿の庭で、いまから思えばボディビルのママゴトみたいなことを1年ばかりつづけた。

 大学卒業と同時に、私は岩手へ帰って中学教師となった。そして、月給をもらうようになり、さっそく待望のバーベル一式を買い入れ、ベンチ台は日曜大工で、1,000円の材料費で作りあげた。

◎ メシが食えなくては何もできぬ

 それ以来7年間がすぎた。もともと健康体で始めたのとちがい、思うような成果があがらず、途中で休んだことも再三あったが、また思いなおしてはやり、その間なんとか太りたい一心で漢方薬を煎じて飲んだり、あるときは深夜の体育館で、あるときは厳寒の空の下で冷たいバーベルを握りしめた。

 そしてついに、私は、体重60kgのカべを6年目にして突破したのである。自分でも達成不可能と思い(他人からもそういわれた)、半ばあきらめていたユメがとうとう実現した!

 しかし、こうなるまでに、第一のカベ57kgを破るのに6年間の大半をかけ第二のカベ60kgは漢方薬を用いて2カ月間で突破した。そして、62〜63kgの状態が半年以上つづいたところで、こんどの旅に出たのである。出発後まもなく、ボディビルを始めた当時の体重に近い55kgまで減ったのだが、慣れるにつれて58kg前後となり、2〜3日休むと60kgを突破するようになって、体の調子もよくなった。

 こんどの旅で得た大きな収穫の一つは、第三、第四のカべを破る自信がついたことである。何よりも、太れない原因は食べられないことにあった、と私は思っている。1回の食事で2杯がせいぜいだった私が、この旅ではなんと最高10杯(米にして5合)も食べたのだ。

 旅に出るまえの2日分の分量である。ふだんなら、それこそ胃腸が目をまわしてしまうところなのだが……。この調子で、旅行中はつねに2〜3人前は平らげなければ満足できないほどだった。私にとっては、まさに奇跡以外のなにものでもなかった。

 やはり人間は、メシが食えないようでは何もできはしない。メシが食えるようなときは、生きるファイトもモリモリとわいてくるし、すべての面で気力が充実する。

 最後に、私は世の人々に「ボディビルを知らずして人生を語るなかれ」と声を大にしていいたいのである。
[ 月刊ボディビルディング 1968年8月号 ]

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