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ボディビルと私 ~ つづけることの大切さ ~

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[ 月刊ボディビルディング 1968年9月号 ]
掲載日:2017.11.28

遠 藤 英 夫

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 近ごろは、練習をサボるくせがついて、ジムにも通わなければ、自宅で腕立て伏せをすることさえしていないが、ボディビルとのつき合いはかなり長い。トレーニングを怠っているので、身内からわいてくるあの充実感もなく、筋肉がたるみっぱなしのせいか“ボディビル”といえば、懐古趣味じゃないが、やはり以前のことがなつかしく思い出されるのはしかたのないことだろう。

1日1000回のダンベル振り

 昭和28、9年のころーー私は早大レスリング部の選手だった。しかも非力。激しい格闘技で、すこしはましな体つきはしていたものの、強い力とその持久力がないのは、まったく困りものだった。汗くさい練習場のわきに全身の映るドでかい鏡、その前に2、3本のバーベルとダンベルがおいてあった。この環境がボディビルに親しむ機会をあたえてくれたことはまちがいない。
「ダンベルを1日1000回振ってみろ。毎日欠かさずにだぞ」

 こんな先輩の叱咜に、まだ純真だった新入部員の私は、いわれたとおり忠実に、片手1000回の目標達成だけを考えて、ガムシャラに大汗をかいたものだ。いまのように、合理的な練習方法の確立していない時代のことだ。人間の体は鍛えれば鍛えるほど強くなるし、その限界はないーー合気道のケイコで板張りの道場からタタミの道場に変わったとき、あたかもフトンの上でやっているような柔らかい感じを味わった経験ーーこの体験による認識だけが、当時の私を“1000回のトレーニング”にかりたてた。

 レスリング部員が練習するマットに隣り合わせて柔道部の道場があり、そこは、まばらなマット上のレスリング選手にくらべて、イモの子を洗うような多数の柔道部員で占められていた。そのなかに、白面の貴公子のおもむきのあるホッソリした青年、玉利斉君がいた。いまボディビルを愛好する者ならたいていは知っている日本ボディビル協会理事長の学生時代の姿だ。

 60キロにも足らない彼は、それでも2段なんだぞとがんばっていたものの若い女の子たちからは「俳優の川喜多雄二みたい。ハンサムね」などといわれ、どちらかといえばキャシャなほうであった。その玉利君がいつか鏡に向かってバーベルを握るようになった。大木のような柔道部員にかこまれるとひときわ細い彼は、この肉体のハンディをなくそうと努力していたにちがいない。

 しかし、系統立った方法を知らないから、アメリカの“ストレングス・アンド・へルス”とか“マッスル・ビルダー”だとかのアメリカのボディビル雑誌で覚えたわずかな知識をたよりに、バーベルの上げ下げである。

 このころ、これもレスリングの先輩の平松俊男さん(現在協会技術顧問)が仕事の合い間に道場にかよってきてしきりに鏡とにらめっこしながら、バーベルと格闘していた。レスリングの先輩は、たいていは現役部員と練習するものだが、平松先輩はめったにレスはやらない。鉄棒の両端に砲丸投げの玉をくっつけたようなバーベルーー15、6キロだったと思うーーが好きで、もっぱらボディビルにいそしみ、ベンチ・プレスを1セット終わるごとに、大鏡の前にあぐらをかいて、広背筋をひろげるポーズに見入っていた。私たちには、これが大いに刺激となった。

 鏡の前に集まってくる者がふえてきた。柔道、空手、ボート、体操、はては陸上競技部の連中までがやってくる。へルシンキ・オリンピック代表のスケートの五味芳保や野球の森徹など
もトレーニングにかよってきては、みんな思い思いの練習で満足げに帰っていった。

 柔道マンだった玉利君は、このころになるとボディビルに社会的な意義を見いだしてか、これに専念するようになっていた。そしてこのフンイキの中から、玉利君を初代主将にしてワセダ・バーベル・クラブが誕生した。おそらく日本ではじめての組織立ったボディビル団体であろう。窪田登氏も役員にむかえられた。ひよわなため、これまで運動部にはいれなかった一般の学生がバーベル・クラブに入会して、大いに活況を呈し、部員の数が少なくて悩んでいた私たちレスリング部員をうらやましがらせたものだ。
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私は早大レスリング部の選手だった。

忘れられぬトレーニングの味

 “ボディビルと私”に話をもどそう。日本ボディビル協会が設立されたとき、私も役員の1人になっていた。ボディビルのブームが起こって、雨後のタケノコのようにできたボディビル・センターのひとつに、栄ボディビル・ジムというのがあった。東京末広町の風呂屋の3階、コンクリートの床ながら、練習器具は当時としてはかなりそろえて開店した。私はここにかよってくる練習生をしばらく指導したことがあった。
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栄クラブ・コーチ時代の私
 人間というやつは、バーベルを見るといっきに差し上げてみたくなる困った習性があるようだ。ふだん運動もしていない人たちがやってきて、いきなり重いバーベルからもちあげ、筋肉でも痛めたら、逆効果になる。だから、これを防ぐいわば監視役をつとめ、基本的なバーベルの扱かい方を教えたわけだ。毎日一定の時間は練習場にいるのだから、自分のトレーニングも自然に力がはいる。練習者たちとの人間的なふれあいも楽しかった。

 いま美人製造で有名な和田静郎氏もこの栄ボディビル・ジムにかよってきて、しきりにやせる研究をしていた。またある日、私が自宅の近くの銭湯にいったとき、うしろから「いい体してますね。エンドウさんじゃありませんか」と近よってきた青年があった。小学校の後輩にあたる竹内威君である。見ればかなりのたくましさではないか。世間のボディビル・ブームとは別世界に住んで、手製のバーベルを使って、自己流ながら黙々と鍛えていたという。

 私はさっそく栄ジムにくるようにいって別れた。彼は翌日ジムに姿をあらわし、これまでにくらべれば格段に豊富になった器具と環境の中で、トレーニングをつむようになった。竹内君がみるみる大きくなったのはそれからである。やがて、ミスター日本コンテストで優勝の栄冠を獲得するまでに成長したのは周知のことだ。
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栄クラブのメンバー。竹内氏(1959年ミスター日本)や全身美容の和田静郎氏の顔も見える。
 ブームの去ったあと、協会が開店休業の状態になった時代がしばらくつづいたことがある。“国民の体格改良。基礎体力養成”といっても、頂点に立つコンテストも開かないでは、世間から忘れ去られ、やがては基本理念を実現する場も得られなくなる。東京日本橋三越の屋上で、苦しいながら協会唯一のコンテストを年に1回は開きつづけたのがこの時代であった。私が新聞社の事業部にいたことで、会場の交渉から運営の打合せ、実施まで、大いにお手伝いできたと思う。

 はじめにも書いたが、私はこのところボディビルの練習からすっかり遠のいてしまった。それだけに、“つづけることの大切さ”を身にしみて感じている1人だ。トレーニング後のビールのうまいこと。食欲のでることーーこの格別な味を忘れないかぎり、秋にでもなったらまた始めることだろう。
[ 月刊ボディビルディング 1968年9月号 ]

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