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ボディビルと私<その1>〝根性人生〟

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[ 月刊ボディビルディング 1973年11月号 ]
掲載日:2017.09.28
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東大阪ボディビルセンター会長
元プロレスラー 月影四郎

プロレス引退を決意

 全日本プロレス選手権大会で第4位に終わった私は,これを最後としてプロレス界からの引退を決意した。
 田舎興行師に欺された現実とその背景,それは私がプロの世界にとび込んだ当時のひたむきな求道心とは大きな差があった。複雑に分裂していくプロレスリングのいろいろの矛盾をもう一度素直にふりかえってみたい。
 私の初志は,プロレスリングを他のプロスポーツ,とくにプロ野球のように,全国のあらゆる層の人たちから愛され親しまれるようなレベルにまで引っぱっていくことだった。そして,そのための鍛練や研究を一日として怠ったことはなかった。試合にはつねに全力を投入した。一生懸命に良いファイトをして,ファンや一般の人々にプロレスを少しでも理解してもらおうと努力をした。
 たしかにプロレスも一時日本中を熱況の渦に巻き込んだときもあった。しかしそれも一時的の現象で,そのあとはごく限られた一部のファン層しか獲得できなかった。プロ野球のように,健全なるプロスポーツとして,しっかりと大地に根をおろしたものではなかった。
 どうしてもっと広く一般の人々に受け入れられないものだろうか? 夜を徹して考え,また悩んだのも一夜二夜ではなかった。しかし,日増しに人気の下降を辿り始めたこの世界は,非情できびしいものだった。そして,現実と理想の差が当然のごとくそこに出てきた。私ばかりでなく,友人の清美川氏も山口利夫氏も,日夜同じような悩みをくりかえしては煩悶していたようだった。
 こうして引退を決意した私に,その後も再三にわたって復帰の要請が持ち込まれたが,私の心は動かなかった。親友の清美川氏は,選手を集めるために渡米することになった。そして,私にスポンサーを捜してほしいといってきたが,その後音信不通となり,事実上私とプロレスとのかかわりあいはなくなった。

身心鍛練道場の必要性を痛感

 プロレス界を引退した私は,それまでのあわただしかった生活から解放されて,ようやく落ちついてこれからの人生を見つめ,生活設計をたてることにした。そこには当然プロ柔道,プロレス時代の数々の貴重な体験が土台となっていたことはいうまでもない。
 悲観し,絶望し,自分を傷つけながらもまた勇気をふるい立たせ,プロの世界のきびしさを味わってきた。その間約10年。これからはいままでとまったく違った角度から考えなければいけない。そして,もう二度とやり直しのきかない年令に達していることもよくわかっていた。約1カ月間くらい考えたのち,ようやく私は結論を出すことができた。
 それは「青少年のための身心鍛練道場」の開設であった。これは以前からの念頭でもあったが,これからの人生を私はこれに賭けることにした。つまり,スポーツを通じて身体を鍛練するだけでなく,同時に精神をも鍛練して真に社会に貢献できる人間をつくりあげることである。
 それにはまず道場の建設が必要である。プロレスを引退し裸一貫になった私にとっては自分の力でこれをつくることは不可能である。私の考えていることを理解してくれ,協力してくれる人を探さなければならない。
 まず近畿地方を第一歩として,いままでお世話になった友人,知人を頼って四国,中国,九州と日本国中を駆けずりまわった。そして会う人ごとに,最近の青少年の体力気力の低下を力説して,「身心鍛練道場」の必要を説いて協力をお願いした。みんな私の趣旨には賛成してくれたが,金銭的に後援してくれる人はいなかった。しかし,がっくり疲れて大阪に戻った私に朗報が待っていた。国際興行社長(当時は大弥株式会社)能口久良雄氏にすぐに会うように,という友人からの話であった。

能口氏の後援で「月影道場」開設

 さっそく能口社長に会った私は,現在の青少年のことや道場の必要性を説明した。能口社長もかねてから青少年の身心鍛練には深い関心を持っておられたので,話は簡単だった。私の趣旨に賛成してくれたのはもちろん,その場で道場の開設を約束してくれた。このときの喜びはとてもつたない私の文では表現することはできない。もし能口氏のご理解がなければ私の現在はなかったといっても過言ではない。
 時を同じくして,力道山道場や山口道場も開設され,私の力説した道場の必要性は現実となって各地に影響を与えたようだった。
 さて,いよいよ夢にまで見た「月影道場」を,昭和33年,能口氏の経営する映画館の1つ,千日前の国際シネマ館内に設けることになった。これは国際シネマ館内に道場を新設する広いスペースがあったのと,映画のアトラクションとして,レスリング教室,ボディビル教室,空手教室を見せるためでもあった
 道場は,レスリング・マット(ロープとコーナー付き)とボディビル・トレーニング場を併設し,大広間の畳をとりはずしできるようにした立派なもので,器具もすべてKokusaiとネーム入りの誂え品で統一した。
 道場の教授陣には,柔道出身の辻井観八郎五段(現八木市の柔道師範),福息国治五段,空手出身の浅田三段(空手道西日本選手權者),斉藤三段,今川三段,基礎体力養成部としてバスケット界出身の谷川明選手,それに国際よりボディビル関係として滝川泰彦選手(現東大阪ボディビル・センター・コーチ),他若手陣を中心に多士彩々が集まり,いよいよ念願の道場が始動されることになった。

ゴムマリのような体づくりをめざしてトレーニング

 まずトレーニングの最初は,基礎体力を養成するために,ボディビル・トレーニングから入った。もちろん,柔道,空手,レスリングにかかわらず全員に義務づけた。当時のトレーニングの内容をちょっと紹介しよう。

①階段の昇り降り(脚力の強化)
 40kg前後のバーベルを肩にかついで国際ビルディングの九階屋上までをかけ足で昇り降り。

②ワン・ハンド・プレス(腕力の強化)
 40kgダンベルを左右の腕で20回程度プレスする。3~4人を1グループとしてぐるぐる交替しながら10セットしたら少し休憩して再び同じ要領で10回繰り返す。

③ダンベル・ツー・ハンズ・カール(引き付け運動)
 30kgのダンベルで10回×10セット。これを②の要領で再び10セット。

④バーベル・ベンチ・プレス(胸の強化)
 140kgで12回×10セット

⑤ダンベル・ベンチ・プレス
 40kgで12回×10セット

⑥バーベル・ベント・ローイング・モーション(背筋の強化)
 100kgで10回×10セット

⑦ヒンズー・スクワット(脚腰の強化)
 連続3000回

 以上を毎日繰り返して行なった。いろいろ違ったスポーツから集まっていたのと,体力や体格にも差があり,最初はぶっ倒れる者もあったが,少し馴れてくればそれぞれのスポーツのベテランだっただけに,足並みをそろえるのにそう苦労はしなかった。それよりもよい意味で競争心がかえって気合となり,いつも張りつめた空気がただよっていた。力が一定のレベルにまで達したといっても,必ずといってよいほど,人によって苦手の種目があるものだ。そんな場合,その種目だけは人一倍,いや人三倍の練習を命じたものである。中には宿直に当った夜,夜中にも一人で練習するという,いまでは考えられないような熱心さだった。
 ある程度基礎体力ができたところで次は技の研究に入った。これには柔道の技,空手の技,バスケットのかわし技,そして私の体得していたレスリングの技を中心として,これも基礎体力のトレーニングに負けず熱心できびしいものだった。
 先ず受身の練習として,助走して畳を立てた上を飛び越すのであるが,これを連続数百回行うのである。これを連日繰り返すことによって,ゴムマリのような体にするのである。すなわちバネがあって柔軟で,しかもスタミナをつけるのである。いま考えるとメチャクチャな練習だったが,夢にまで見た念願の道場ができた喜びで,苦しかったが気力の充実した毎日だった。
念願の”月影道場”完成ではりきる筆者(昭和三十三年)

念願の”月影道場”完成ではりきる筆者(昭和三十三年)

映画のアトラクションにボディビルとレスリングを

 この猛練習のお陰で,2~3カ月すると全員の体質体形,さらに精神面においてもかなり強靭なものになってきたのがはっきりわかった。
 そこでいよいよ国際シネマの晴れの舞台でボディビルとレスリングの実技を公開することにした。その目的は広く一般の人にほんとうの健康のすばらしさを認識してもらい,さらにレスリングの基本,技,見どころなどを充分理解できるレベルにまで知識を引き上げ,そして鍛えればここまでになれる,という私の考えを理解してもらおうというものだった。
 アトラクションの方法としては,はじめにボディビルの基本種目を1~2種目ずつ紹介したのち,アマ・レス,プロ・レスの両方のルールやトレーニングの方法,技などを毎日少しずつ解説し,最後に試合形式で実際の勝負を見てもらった。そしてとくに強調したのは,まったくの素人の人でも鍛えればこれまでになれるということだった
 もちろん映画を見るのが目的で来た人たちであるから,中にはあまり興味を示さない人もいたと思う。しかし。機会あるごとに,テレビではなく自分の目で直接見てもらうことに意味があるのだ。そのうちに興味がもたれ,そして10年後,20年後に1人でも2人でも,この体力づくりの必要性を理解し,受けついでくれる人が必ず出てくる。そこに私の理想と哲学があった。
 日本ではもちろん初めての試みであり,映画のスクリーン前から観客席に向けてリングが組み立ててある。映画を見にきたお客様は,一瞬この奇妙な設営と風変わりな余興にとまどいながらも,熱心に私の話を聞いてくれた。しかしどの人も生活に疲れた青白い顔をしており,私の話に共鳴して,すぐに体力づくり,健康づくりにとびつくようにはとても見えなかった。
 それだけに実技をする門弟の技が成功しますようにという念願と,片や観客に対しては,健康のすばらしさを忘れた多くの人たちに,その必要性を推進しなければならないという,とてつもなく大きな目標とその必要性,その使命感で私の胸はいっぱいだった。
 やがて無事に第1回の演技被露が終了した。どことなく素人くさいが,その熱心な態度が観客の1人1人の心に通じたのであろう,絶大な拍手と嘆声がいつまでもやまなかった。
 こんな感激はいままでに一度も味わったことがなかった。花やかなプロレスのリングで,必殺の技で相手を鮮やかにマットに沈め,何千という観客から嵐のような拍手をもらったときの感激とはちがったものだった。一般の人との小さなつながりを頼りに,私のレスリング経験をとおして得たものを少しずつ理解してもらうという,地味な長い長い。そして何ものにもかえられない大きな仕事である使命感が,ひしひしとせまってくるようだった。
 とくに,ボディビル・トレーニングの説明に入ったとき,観客の注目がいちだんと真剣になり,ホーッというため息にかわっていくのがわかった。
 私はこの第1回の演技を終了した瞬間に,これからの私の進むべき道,すなわち,ボディビルを通じて青少年の身心を鍛えることに確固たる自信を得たといってもいい。この国際ボディビル・センターが,私にとって最初の専属道場として開設してからも,まだ迷い続けていたいろいろなことが,ピッタリと1本に焦点がまとまり,健康なからだづくりとしてのボディビルへ踏み切らせた貴重な試練であり,大きな収穫を得ることができた。
 次号は数々の記録と,ボディビルに関する練習方法,数々の選手諸氏の紹介などをしてみたい。
(つづく)
[ 月刊ボディビルディング 1973年11月号 ]

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