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JBBAボディビル・テキスト⑤ 指導者のためのからだづくりの科学

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[ 月刊ボディビルディング 1973年12月号 ]
掲載日:2017.11.13
日本ボディビル協会
指導員審査会委員長
佐野 誠之

<8>身体運動における諸原則

 これまで折りにふれて基礎学の必要性を述べてきたが,それより得ようとする要点を個条書にし,漠然と勉強するのではなく,その目標をつかむ指針としたい。


A 解剖学的,生理学的な原則
①身体運動には関節が関与する。したがって,運動の範囲や種類は関節の構造によって決まる。
②身体は自らの力によって動かされる精密機械である。その原動力は筋肉の収縮である。
③関節を支点として,それをまたぐ筋の付着場所が「てこ」の力として筋の能力をあらわす。
④各関節の両側に互いに拮抗する筋群があり,大きい力を要するところには大きい筋があり,巧妙な動きをするところには数多い小さい筋がある
⑤身体のすべての器官が正常で,互いに協調された機能を発揮するときに筋は充分な能力を発揮する。
⑥筋の協調は,中枢神経内で刺激が適当に類別されて行われ,熟練により種々の運動が反射的に行われる。
⑦運動が巧みであるということは,経済的に運動することであり,経済的な運動とは,最少の筋力を使って最大の仕事をすることである。このような運動(動作)がもっとも合理的で自然な動作であり,この動作が一番美しい。
⑧疲労は筋の収縮を困難にし,運動の効率を低下させる。


B 身体運動の基本動作分類
①立坐運動(坐る,起きる,かがむ等)
②歩行運動(這う,歩く,走る等)
③跳躍運動(跳ぶ,ける等)
④把握運動(にぎる)
⑤打突運動(打つ,突く等)
⑥投てき運動(投げる,ほうる等)
⑦押引運動(押す,引く等)
⑧格力運動(ねじる)
⑨転回運動(転がす)
⑩滑行運動(すべる)
⑪懸垂運動(ぶらさがる)
⑫遊泳運動(泳ぐ)
⑬運搬運動(さげる,かかえる,かつぐ,背負う,引きあげる等)

 以上の13種類に類別できるが,これをよく分析してみると,屈伸,挙振,転回(ねじる,まわす),屈倒の4つに大別でき,複雑な動作でも根本的にはこの4つの形式を出ない。
 これらの形式が,次の物理的原則により支配されている。


C 物理的な支配
①身体の運動は円弧(回転)運動であり,何回かの回転(円弧)運動により並進運動を行う。
②身体には,部分的に単一機械と見なされるところがたくさんあり,それは「てこ」の動きが主である。
③骨と筋の構成する「てこ」の動きでは,
 ○イ:筋はつりあいの役を果たしている
 ○ロ:出力を大きくする。
 ○ハ:運動の範囲をひろめ,その速力を大にする。
④身体はつねに重力の抵抗を受け,加速度や慣性をもつ。立姿勢は不安定で,小さい足底面の上でつねに平衡運動を続けている。
⑤身体の回転は縦軸を中心線にするときに抵抗が一番少なく,横軸を中心とするとき,抵抗が一番大きい。
⑥身体の一部の運動は全体に転移し,全体の運動は一部分に運動量を分け-与える。
⑦身体が他の物体を動かすのは,身体が物体に与える運動量による。
⑧一つの運動の動作の中にも,いろいろと段階がある。すなわち,予備運動→主運動→後続運動をなす。

 したがって,身体運動の基本的な動作の類別と力学的考察が必要である。

9>体育の必要性

 体育の必要を理解する方法として,人間の身体の歴史を考えてみよう。
 まず一番大きな変化は,四つ足の生活から直立歩行になったことである。直立歩行により,頭部が前肢の衝撃から解放され,背柱という1本の柱の上に乗り,安定性を得たことによって大脳の発達を促進し,また,前肢も歩くことから解放され,機能的にも変化をきたし,直線的な運動から曲線的動作の新技術を会得して,文化の発達の端緒をつくった。
 頭や胴体を直上的に支えるために,下肢と骨盤が変化し,頭の位置を中心とした骨組に変化するとともに,考える動物としての形態を整えてきた。
 直立歩行により,背柱のわん曲も,胸廓の形も変化し,内臓の圧力の加わり方も腰部へと変化した。もともと内臓は,四つ足の匍匐の状態のときに楽に動作ができるように,都合よくできていたのが,直立歩行によって不安定な状態となった。
 すなわち,肋骨や腹壁という棚に,都合よく横に並べられ,背柱という梁によって,がっちりと吊られていたと考えられる状態が,縦につみ重なり,ずり落ちないように柱や壁にぶらさげられた状態となった。胴体が四つ足で水平に支えられた安定な形から,重力に抗して,地面に垂直な位置となったそしていろいろな歪が起こり,内臓障害が生ずるようになり,人間特有の痔のような病気や,胃下垂のような状態を見るにいたった。また,臓器自身がもつ働きのほかに,振動に対する位置の確保等の負担も増大した。さらに,胴体部内臓にかかる圧力にも変化をきたし,これらの変化,すなわち姿勢の変化に伴う歪に対し,補償補強としてなんらかの方法が講ぜられなければならないという根本的な必要性が原始的に発生している。
 われわれ人間は,考える動物であるとともに,運動する動物である。生まれて以後の生活環境や職業等により持って生まれた運動能力が発達されずに終わってしまうこともあり,日常活動で,身体部分はその可動範囲がきまり癖や変形をきたすこともある。すなわち,使用するところは異常発達し,使用しない部分は萎縮して,奇形的になることもある。関節の可動範囲が制限され,筋肉の柔軟性も失われる。故に人の骨格はこうあり,筋肉はこのようにつき,このように動き,全体としての機能はこのようであらねばならないという基礎の上に,日常生活の中から生じる歪や発育をさまたげる諸条件を補正し,ノーマルな発達を促進する運動が,日常生活の歪の矯正という意味で必要である。
 勝敗や,記録を考えたり求めたりする要素がなく,健康なからだづくりのみを,解剖生理,心理等を基礎として人為的に工夫考案された運動の体系が必要なのである。
 体育の必要性ということは,以上簡単に述べたように,原始発生的に要求されていることで,文化の発達とともにその必要性が理論づけられ,今日にいたっている。
 医療関係でリハビリテーションとして行う場合,特殊な器具装置の必要性をみるも,一般には,原始的に身体を動かすことを考えるべきで,器具や装置の新奇を求めるべきではなく,原始的な動きに対する工夫こそ大切である余暇利用,精力善用こそ最良の道に通ずるものであろう。

<10>指導者の責任

 指導者と一口にいうが,その内容において多岐にわたるものである。たんに教え導びくことでなく,それを推進していく中心的な原動力的存在を指すのであろう。
 一般スポーツの指導者と体育の指導者とではその内容が異なっている。
 一般スポーツを行う場合は,スポーツ自体の技術面の訓練の場合と,それを合理的に推進させるため,すなわち主運動(スポーツ)をよりよく伸ばすための補強運動等をも含めて見る場合とによって,指導者の知識なり技術なりが内容的に違ってくる。
 一般にスポーツの指導者といわれている人々は,そのたずさわる面により「トレーナー」「コーチ」「監督」と分けて行われており,各々その担当内容も異なる。
「トレーナー」は,主運動の能率を高めるための,スポーツマンの基本的体力の調整に当る者で,陰になって地道な仕事をする役目である。実際には選手の疲労回復等に重点を置き,マッサージ等による疲労回復,または故障防止等が多いようである。
「コーチ」は「トレーナー」がつねに選手の体力の補強調整を行うのに対しスポーツの技術面を合理的に段階を追って教え込む技術面の担当者である。同一スポーツでも,その技術面をいくつかの部門に分けて担当している。たとえば,野球においては「投手コーチ」「打撃コーチ」「守備コーチ」のように分担して行なっている。
「監督」とは,集団的なチームに対しての職制の称で,個人選手をチーム全体的に訓練したり,試合において綜合した判断をもって,個人やチームを統率運営し,勝利に導く仕事をなす一面チームの最高責任者として対外的な面にも当るもので,監督如何でそのチームの性格が左右される。
 スポーツ関係では,以上三者が専門家された分野で選手の技術や記録をよりよく育てあげるための協力作用であり,選手づくりの仕事である。
 体育関係では,教育的立場を主体とした指導内容をもっており,選手づくりの指導者とは異質のものであると考える。
 指導に当っては,基本的な体力や,いろいろの技術面のすべてを理解して行うことが必要で,その理解や技術の幅が広くなければならない。すなわち各種スポーツの技術向上のための体力づくりや,各スポーツの個別的,具体的な補強補償等,さらに,準整備運動の方法など,複合的な知識と技術が要求される。
 換言すれば,「肉体形成訓練」「運動形成訓練」および「能力増進訓練」等の綜合的な知識とこれの応用が必要で,たんなる個別的,具体的な動作や運動のコーチであってはならない。
 指導者は,人間の健康管理の成否に直接的な責任を有するものである。
 健康管理のうち,明らかにライセンスを必要とする医療行為を行なったり補助したりするものとは区別されることはもちろんである。すなわち,医師看護婦,薬剤師,保健婦,指圧マッサージ師等,法に決められた有資格者でない限り,従事できない健康管理面とは異なるものである。
「日本体育協会公認スポーツ・トレーナー」「日本体育施設協会認定指導士」等あるも,なんら法で決められたものではなく,ただ,学校体育においては教員免許証が必要であるが,その他の場合は,必ずしも特殊な資格を必要としないので,誰でも多少の経験で指導者を名乗り,指導を行なっても制限はない。その人自身の内容により評価が異なるだけである。
 しかしながら,個人が持っているすべての身体的能力を,日常生活に生かし得るよう,いま,何を,どの程度,どのように,実施すべきかを考えて指導するのが指導者の最大の仕事(役目)であることを考えると,自己の功名心や功利心だけしか意識にないような者や,不勉強な,経験の浅い,ー面しか知らないような者は,もはやそれだけで指導者失格と認めざるを得ない。
 短い一瞬の見かけのうえだけの現象に,あらわし,つくし得ない潜在的能力をつけることの方が,たんなる表面的なことよりも,体育的には大切であるが,しかしこのことは仲々困難なことである。なぜならば,自らは一応健康だという意識のもとに練習に来る者が多く,速効を望むあまり適量適度ではもの足りなく感じ,オーバー・ワーク気味になるためで,規則正しく適当な刺激を与えるのに苦労するものである。また1人でも不測の事故のないように注意することが大切であり,効果的な運動刺激を理解さすことが容易でないことを知るべきである。
 また,優れた能力をもった一部の人々が,その点では水準の低い多くの人たちを指導するときには,指導者の自意識過剰になり易いので注意が必要である。たとえば,力のある者は,力のない者が不思議に見えたり,器用な者は不器用な者の運動神経の鈍さが理解困難で,蔑視する傾向や,無理な「ついてこい」式の指導になり易いので充分自戒を要する。
 選手づくりと,一般の健康づくり,体カづくりとは,本質的に異なることを銘記すべきである。選手づくりの過程では,たとえ脱落者があっても,素質のあるものを集めて優秀な選手を養成すればよいが,体育指導者の場合は1人の脱落者をも出さないように考慮すべきである。

<11>総論むすび

 従来の体力づくりの理論や,運動の解説は,選手づくりのための体力づくりであったり,たんなる運動動作の解説や,効果面の紹介が多く,一般にあてはめるための綜合的な見解のもとに記されたものが少なかった。このため断片的で普通人にあてはめるには無思慮すぎたり,危険を伴う要因があるので,これらの理解を深めるとともに,ボディビルに対する誤った観念(関節の可動範囲が制限されるとか,柔軟性が失われるとか,スピードが劣る等)を正す意味を含め,指導者のために最少限必要と考えられる事項の知識と,その対象の概要を述べてきた。説明不充分の点や,記述洩れの事項は機会をみて補足したい。
 総論をむすぶに当り,お互いの反省自覚を促す意味で,論語より2~3の文を引用し所感を述べたい。
 孔子の言う学問とは,ただたんに書物を読む(知識を得る)ことばかりを意味するものではなく,広く知識を学ぶとともに,心を正しく行を修めることを意味するものである。すなわち。たんなる知識だけを磨くことを目標とするものではなく,立派な人としての修養を目標としている。したがって学を修むとは学問をし修養をする意味で,たんなる知識のみを得ることではないことを強調したい。
 つまり知と行の一致が大切である。知ではなく智でなければならない。「知」とはしることで,認識,理解,知識等を意味し,「智」とは事理を明らかにする能力を意味する。
「知ることは行うことであり,知って行わないのは知らないのと同じである」と,明の王陽明がその倫理観で説くごとく,知と行とは本来同一のものであり,知行ー致が本来の姿ではなかろうか。われわれが基礎学を学ぶのも以上のような意味でなければならないと考える。
 子曰く「学んで時に之を習う,また悦ばしからずや。朋,遠方より来る有り,また楽しからずや。人知らずして根みず,また君子ならずや」と学而第一にて述べているが,論語開巻の第一章で三節に分けて学問を身につける根本姿勢を淡々と率直に語られている。これは「いろいろの知識をまねたり,おぼえたりして,復習し,習熟して身につけていくことは,なんと悦ばしいことではないか。また,同じ志のものが遠方よりたずねてくれたりするのはなんと楽しいことではないか。人が認めてくれなくても,不満に思わないのは,なんと立派な人ではないだろうか」という意味で,純粋な心で,孔子の学問論でもあり,また幸福論でもある心境を,なんの飾ることもなく述べられているもので,よくこの真意を熟読含味すべきである。
 また,子曰く「人の己を知らざるを患えず,人を知らざるを患う」(学而第一)と述べられ,学問の目的は,まず自己完成を第一義とすべきで,人に認められるか否かを苦にする必要はない。ただ人の素質(才能)を知らなければ仕事をすることはできない。よく人の素質等を見抜くことが大切であるという意味のことで,これと同一の趣旨の言葉が「衛霊篇」「憲問篇」にもあり,自己反省を説いている。われわれが各人にあった適切な指導をするためには,ぜひ必要な態度ではあるまいか。また勉強する態度についても,子曰く「古の学者は己のためにし,いまの学者は人のためにす」(憲問第十四)と,学問をする目的と現在学生の通弊を対句の形で最も鋭く言いきっている言葉である。
 "古の学者とは,たんに古い時代の学者ということではなく,理想的な学者とか,学問を志す理想的な人とかいう意味を指したものと解釈したい。「学開を志す理想的な人は,自分自身を立派にしようとするために勉強をしたがいまの人たちは,人から評判されたいためや,学歴等,なんらかの利用価値を望んで学問をしている」という意味だが,孔子の時代と現在とでは二千年以上ものへだたりはあっても,学者や学生の心構えを論じた言葉の中で,この言葉ほど適切肝要なものは現在においてもないのではあるまいか。この学問という字句を,ボディビル,あるいは身体づくり,体育等の字句におきかえてみればよくわかるだろう。
 また,学ぶということと,思索するということに関して次のように述べている。子曰く「学びて思わざれば則ちくらし,思いて学ばざれば則ち殆し」(為政第二)と対句で述べている。
 すなわち「博く学んで知識を得ても自分の頭の中で良く思索しなければ道理にくらく,ものにならない。それと反対に,良く思索しても(先人の説について)博く学ぶことをしなければ,独断に陥って危険である」との意味で知識学問と思索行為との知行一致を端的に意味しており,いずれに偏するも危険であり幣害が起こってくるといましめられている。これらの意味することが,言葉を換えて「子張篇」や「子空篇」にも述べられている。
 近世儒学に,朱子学派と陽明学派があるが,朱子学派は博学に重点を置いたものであり,陽明学派は思索を重んじているが,いずれに偏しているのも不可である。これは,われわれ指導者を志すもののつねに心掛けるべきことで,経験と知識,思索と行動等,いずれに偏することなく,知行一致を心掛けるべきであろう。
 また,勉強していく(努力していく)段階について,子曰く,「之を知る者は之を好む者に如かず,之を好む者は之を楽しむ者に如かず」と述べているが「之」の意味は何にでもあてはまるもので,各自の現在の目指している事項をあてはめればよい。
 普通,論語を解釈するときには「之」を「道」と解し,一般的に訳している。すなわち,「道を学ぶべきことを知っている人は,道を学ぶことを知らない人より上だが,道を学ぶことを好んで努力する人には及ばない。また,道を学ぶことを好んで努力する人も,道を身につけて,これを実行し楽しんでいる人には及ばない」と,道や学問に志した後にも,その深さに段階があることを述べたものである。
 また,子曰く「君子は諸を己に求め小人は諸を人に求む」(衛霊公第十五)とか,「賢を見ては斎からんことを思い,不賢を見ては内に自ら省みる」(里仁第四)というようにつねに反省すべきことを述べており,修養の方法は決してむずかしいものでなく,日常切実身近な間題に注意し,反省するところにあることを示している。
 なにも論語を講義するつもりではないが,プロにしろ,アマチュアにしろ人を指導しようとする場合,その人の人格的要素が大きな影響を及ぼすものと考え,これら論語の言葉の中に,つねにわれわれが充分に留意し実行しなければならない基本的考え方や姿勢が示されているので,「温古知新」私流の解説引用をした。
 たんにウェイト・トレーニングの実施方法,たとえば,プレスはどうするとか,カールはこうするとかの説明だけであれば,市販の入門書を覚え,2年程度の経験があればこと足りるであろう。しかし,指導者とはそのようにたんにカールはこうすればよいとか,プレスはどうであるとかのコーチ面だけではないはずであることを自覚していただきたい。指導者自身の知的,精神的向上こそ最大の要素ではあるまいか。
 いろいろのことをたんなる知識としてでなく,充分に自分自身のものとして理解咀嚼して活用できるよう「知行一致」を目指してもらいたい。かくすることによって,始めてボディビルディングの正しい発展や普及を望めるものと信ずるものである。
 真理は洋の東西,古今を問わず,不朽不滅のものであろう。たんなる表面的な一時的現象にとらわれず,真の姿を見出すことに努力すべきであろう。われわれは体育を通じて真理の探究を心掛け,体育哲学の片鱗,否,真髄をつかむべく努力したいものである。
 次回より各論として,基礎学の中から必要事項を遂次解説していく。具体的な運動実技に関しては,いままでいろいろと紹介解説されたものも多いので,基礎学を終わって後に解説したい
 各論終結の後に再び本章を読み返していただくと,本章の意のあるところをよく理解していただけるものと信ずる。

(総論完)
◇◇◇

<参考文献>(総論,各論を通じて)
△猪飼道夫他「体育の生理学」第一出版
△猪飼道夫他「運動の生理」(スポーツ科学講座)大修館
△名取礼二「筋生理学」丸善株式会社
△鈴木正夫「人体の機能」岩波書店
△福田邦三,小川鼎三「人体の解剖生理学」南山堂
△佐藤友久他「スポーツの基礎的トレーニング」大修館
△小野三嗣「健康と体力の科学」大修館
△浜田靖一「図説徒手体操」小川書房
△宫畑虎彦,高木公三郎「身体運動学」学芸出版社
△A・Dコロブコフ著,岡本正己,常塚秀次共訳「0歳から100歳迄の身体づくり」講談社
△ケネス・H・クーパー著,広田公一,石川旦共訳「エアロビクス」ベースボール・マガジン社
△エドワード・オーレリ著,斯波五郎訳「セックス体操」池田書店
△高橋賢一他「図解体力づくり」家の光協会
△小田俊郎「運動医学」診断と治療社
△黒田善雄「スポーツの効用」時事通信社
△木村邦彥編「人体解剖学」(現代保健体育学大系18)大修館
△大礒敏雄編「栄養学」(現代保健体育字大系19)大修館
△豬飼道夫編「人体生理学」(現代保健休育学大系13)大修館
△野崎幸久,杉山二六佑「肥満の食事療法」保健同人社
△桑原丙子生「健康をつくる栄養」成美堂出版
△紺野義雄「スポーツ・トレーニング」万有社
△ロバート・キッパス著,松延博,春山国広共訳「体力づくりの運動」ベースボール・マガジン社
△アグニ・クライン著,野間軌訳「美しくなるために」ベースボール・マガジン社
△ジーン・フックス著,窪田登,中村誠共訳「ウェイト・トレーニング」ベースボール・マガジン社
△松延博「改訂休操」山海堂
△高橋長雄「からだの手帖」講談社
△笹川久吾他「保健体育概論」蘭書房
△福田篤郎「疲労―本態とその対策」体育の科学社
△ニクソン・カズンズ著,大谷武一訳「体育序説」同学社
△M・G・スコット著,宮畑虎彦訳「身体運動の力学」不昧堂
△ルネ・シュオドー著,杉浦正輝訳「体育の新しい方法」白水社
△文部省「身体虚弱児童生徒の健康指導の手びき」明治図書出版
△文部省「中学高校学習指導要領・保健体育科」(体育編試案)明治図書出版
[ 月刊ボディビルディング 1973年12月号 ]

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