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バーベル放談 ③
オニと虫

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月刊ボディビルディング1968年8月号
掲載日:2017.12.02
アサヒ太郎
 面壁10年――ダルマ大師は,カベに向かって沈思黙考,10年の歳月をかけて悟りをひらいたという。〝石の上にも3年〟なんてことばもある。世の職業は,10年でどうやら1人前,といわれるのはですにご存じの話。
 そこで,今回の〝バーベル放談〟は「何事も虫,いやオニになれ」といった一席をぶって,みなさんの闘志をかきたてることにした。

柔道の虫,松田5段

「オイ,松田君,あした会社へこいよ。いっしょに車で天理へ行こう」
 どんぐり目が,ギョロリとこちらを向いて,「ヘイッ」と折り目正しい返事がはねかえってきた。
 柔道5段,松田博文。この道愛好の方なら,名前を1度ぐらいは耳にされたはず。
 身長163cm,体重62~63kg前後のチビさんだが,関西大学在学中は東京オリンピック柔道の軽量級候補,世界選手権軽量級優勝者,そして卒業後はフランスへ渡って約1年の柔道師範,と輝かしい経歴をもつ青年だ。たしか東洋レーヨンに入社しているはずだが,この松田が卒業直前,フランス渡航について,日ごろ指導を仰ぐ天理大教授の松本安市8段のところへ相談に行くことになった。
 たまたま私も,松本さんに会う用事があったので,こんな会話をかわしたわけだが,翌日約束の時間をかなりおくれてやってきた本人の話を聞いてびっくりした。当時私が勤務する朝日新聞大阪本社は,大阪駅から約10分,大阪人ならたいていの人がご存じの場所だが,松田はその所在地がわからず,空を見上げながら,やっとさがしあててきたというのだ。新聞社なら,きっと高い塔があって,カンバンが出ているだろう,と思ったという。
 「あきれたね。うちの社を知らんのかい」
 「知りません」
 「キミ,大阪にきて何年になるんだい」
 「4年です。でも,学校と合宿をゆききするだけですから,どこも知らんのです」
 ――ざっと,こんな調子だ。
 ケイコに明け暮れた4年間,パチンコ屋も知らず,映画館も知らず,ひたすら柔道の精進に心身をつぎこんだ松田は,まさに〝オニ〟の1人なのである。
 九州は福岡の生れ。小学校5,6年から柔道を習いはじめた松田は,県立嘉穂高校から関大へと進学した。小柄な体だが,天性のカンに加え,鋭い技の持ち主だったので,東京の早稲田大学あたりからも勧誘があったが,家庭の事情もあって関西の大学を選んだ。
 学資1万円。福岡で飲み屋をいとなむ兄から毎月送られてくるこのわずかなカネで,生活費から通学費,昼めしまでのいっさいをまかなってきたというのだから,柔道以外に遊ぶゆとりがなかったのも当然。しかし,かりに多少の小づかいがあったとしても,松田は柔道以外は見向きもしなかったろう。それほど柔道を愛していた。
 九州の高校を出て関西へやってくるとき,仲間から「おまえみたいなチビが,いくら柔道をやったって,大きいヤツにはひねられる。やめといたほうがいいんじゃないか」といわれたという。負けん気が,この一言でさらにわき立ったようだ。大学にはいって以来宝塚にある寮で柔道部の仲間と寝泊りし,連日数時間にわたる猛ゲイコをつづけた。
 野菜以外何も食べず,肉もきらい,魚もあまり好かん,という偏食型だがケイコできたえあげた体は,まるでハガネのように堅く,そしてゴムのように柔軟だった。学生服を着ている姿は普通の小柄な学生と変わりなかったが首スジは太く,肩から胸へかけて小山のような分厚い筋肉がびっしりついていた。最終学年は主将。身も心も十二分に円熟し,大学対抗の試合では90余kgの巨漢選手を左変形の内マタで宙に舞わせる大技をふるっていた。
 長年,松田の試合を見守ってきた私は,その好調時の戦いぶりがよくわかった。左足を1歩前へ出し,極端な左自然体に構えたあと,チャンスと見ると,相手の胸下にとびこんで,両腰を相手の下腹部にピッタリつけ,その一瞬を見はからって左足を猛烈にはねあげる。これで相手の体は大きく浮き上がって回転した。見上げるような大男を向こうにまわして,こうした美技を発揮する松田に人気が集まるのは当然だった。
 しかし,160余cmの小男である松田が,ここまで技をみがきあげるには,それこそ〝石の上にも3年〟の忍耐と苦労,ひたむきな情熱があった。

何事も努力,努力

 ボディビル界には,少年時代から病弱に苦しみ,何をやっても体力的に劣等感をもつといった青年の入門者も多いと思うが,何事も努力,そして努力である。10年歯をくいしばってやってごらんなさい。40kgの体は50kgになり60kgになる。そして筋肉隆々の持ち主になって,70kg,80kg,はては90kg台もの美丈夫になることも可能なのだ。
 現在,大阪でナニワ・ボディビル・ジムを経営する荻原氏は,関西学院大の学生時分,柔道をやっていたが,目方は50余kgだったという。そこで,ひとりこつこつバーベルに取り組み,練習を重ねるうちに,みるみる大きくなり,いまでは目をみはるような筋骨の持ち主になっている。夏など半袖シャツを着て歩いている氏を見ると,通行人はそのウデの太さや,胸のぶ厚さにびっくりしたようすで見送っている。ピンク色のホオはいつもつやつやし,オツムのほうこそやや薄いが,まるで昭和の〝桃太郎〟さんといった感じである。それも,これも,人知れぬ努力を重ねて,今日の地位を築いたのである。
 当時,私は柔道とあわせて,学生の重量あげにも関係していたが,選手の1人に,1日7~8時間ぶっとおしでバーベルをあげているという者がいた。大相撲で75kgそこそこの新弟子が,いつのまにか130,140kgの力士になってゆく,といった肉体的な発達に特別興味を感じていた私は,重量あげの選手権や試合のたびに,選手の腕や胸囲を参考に測ったりしていたものだが,その学生はりっぱな体をしているにもかかわらず,どうも記録的にふるわなかった。
 話を聞くと,科学的なインターバル法も用いず,くたくたになるまで,しゃにむにバーベルをあげているのだという。
 「そんなムチャな練習をやってなんになる」
 と,あまり深くもない知識をさずけてアドバイスしたところ,彼の記録はみるみる上がった。翌年は関西ナンバー・ワンのリフターにのしあがり,記録も他の選手をよせつけなかった。方法こそ誤まっていたが,これも精進の結果である。

天下にきこえたオニ2ひき

 押しつけがましい説教調の話がつづいて恐縮だが,スポーツ界には,どの競技にもかならず〝虫〟〝オニ〟といった存在の人がいる。バスケットボールしかり,バレーボールしかりである。ボディビル界では,さしずめ協会の玉利理事長あたりがその1人であろう。柔道界なら,前にのべた木村政彦7段,バレーボールは,こんど参院選挙に出馬,みごとに当選した大松博文氏である。
 あの人が,ニチボー貝塚のチームをひきいて連戦連勝しているころ,練習はまるで〝オニ〟の大松と選手たちの壮絶な戦いだった。五体がくたくたにつかれ,目がくらむ状態になっている選手たちは〝チキショウ,チキショウ〟とわめきながら,非情の球を投げつける大松に向かっていく。その様子をひややかにながめながら,オニは休む間もあたえずに,鋭い球を彼女らの体に投げつけていた。
 きわどい話で恐れ入るが,選手の1人が生理日で,パンツから血をしたたらせている姿を見て,取材中の新聞記者の1人が
 「大松さん,いかになんでもきつすぎる。休ませてやったらどうです」
 と,いったところ,オニはこわい顔をして,
 「メンスぐらいで休んで金メダルがとれるか」
 と,一言のもとにはねつけたことがあった。〝世界一〟が生まれるカゲには,こんなエピソードがごろごろあるのである。
 もう1ぴき,オニを登場させて,この稿を結ぼう。
 レスリングの八田一朗会長である。あまりにも知られた人物だが,早大の柔道選手時代,アメリカのレスリング選手に仲間がつぎつぎに破れるのを見て〝これだっ〟とレスリングに転向して以来,この道ひとすじに一生を送ってきた。「試合に負けた」といっては自分を先頭に選手全員の下腹部の毛をそりおとし,「いかなる困苦にも耐えねば,試合に勝てん」と,こうこうと光る電灯の下に選手の熟睡を要求する。
 ドアのあけしめは,ことさら大きくバタン,バタンと音を立てさせて,夜中のトイレ通いを要求する。
 世間の人はあきれはて,「なんたるヤバン」と目をみはるが,これがレスリングを愛し,レスリングの発展をねがう八田さんのオニの姿なのである。
 その八田さんは、現在参院議員でもあるが,選挙運動中は,小便する間も「八田一朗をどうぞ」と念じて,票数確保にすべてを傾けたという。
 オニにふさわしい裏ばなしではないか。
月刊ボディビルディング1968年8月号

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