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片肺でつくりあげた第二の健康
大久保正春氏の場合

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月刊ボディビルディング1968年8月号
掲載日:2017.12.13
山田 豊
記事画像1

どん底の体カだった

 バーベルをあげている写真は,ごく最近のもの。ごらんのように,現在の大久保正春氏はだれが見てもりっぱなビルダーである。
 が,この人の体力,41年11月まではひどいものだった。大久保氏がボディビルをはじめたのは41年11月8日からだが,そのころの体力は,たとえばイスにかけて脚をのばした姿勢で上体を折りまげるという簡単な動作でも,3回も連続するともう疲労してしまう。ゴルフでいえば,ボールの飛距離10mがせいぜいだった,というのだから,ウソのような話だ。そのくせ体格は「18貫800(約74.25kg)もあって…………」
 自分で自分の体をもてあましていたというにいたっては,いよいよわからない。いかに肥満体であるにしても,あまりに体力がなさすぎた。だれが聞いてもおかしいと思うだろう。
 しかし,大久保氏の肉体条件を考えると,いちがいにそうとばかりもいえない。大久保氏は肉体的に大きなハンディキャップを負っているからだ。
 じつは,左の肋骨が8本ない。結核で昭和25年に手術した。8本も肋骨を削除したとは,しろうと目にも症状の重さは察しがつく。じじつ,5年間は寝ていてほしい,と退院のさいにいわれたそうである。
 それだけに,大久保氏としても,退院後まずとりかかったのは栄養の補給だった。左胸にポッカリあいた大きな空洞を思えば,それは当然の気持だろう。ひところ,昼食だけに500~600円を投じた時代もあったという。そうして
「帰るとすぐもうゴロン……なにしろ,立ってるよりすわれ,すわるより寝ろ,が病院の指導でしたからね」
 なるほど,それではふとるのも道理
 ところが,そのうちに胃を悪くしてしまった。運動不足からだが,しかしまだ,根本的な健康づくりには思いいたらなかった。一方で食い,一方で薬をのむという状態が十数年つづいた。
 いま大久保氏は,かつて10mそこそこしか飛ばせなかったゴルフで,なんとロング・ヒッターの称をかちえている。ゴルフばかりではない。野球もやれば,スポーツはたいがいかじっている。また,酒も飲めるようになった。タバコもすえるようになった。
 「酒はまあ,3合なら軽くいけますね」
 タバコは1日50~60本。酒といい,タバコといい,完全に胃は回復したわけである。逆にこんどは,喫煙量がいささか心配なくらいだ。
 体力もついた。キャリア1年半を経過したいまは,バーベルでは90kgをあげるまでになった。ゴルフ・ボールが10mしか飛ばなかった時代が,それこそウソのようだ。なんとすばらしいことか。大久保氏にとっては奇跡ともいいたいだろう。
 「ボディビルのおかげです」
 短かいが,その一言の中に,大久保氏はすべての感情をこめていた。

40才ではじめる

 埼玉県川口市領家町に川口ボディビル・センターが開場したのは,41年11月6日だが,大久保氏がはじめてそこをおとずれたのは,その2日後の8日だった。
 しかし大久保氏は,それまでまったくボディビルを知らなかったわけではない。
 「個人的にやっている友人がいましたし……26,7年ごろすでに日本にもボディビルがはいってきたことは知っていた人です。しかし,ああいうことは体の丈夫な人間のやることだと……」
 肋骨を8本も切った自分には無縁の存在,と横目でながめていたのだ。
 それが,41年11月7日ボディビルをやっている友人と会ったとき,その前日に川口ボディビル・センターが開場したことをきかされた。繊維商であり鉄工場を経営し,お好み焼き屋もやっているという大久保氏は,仕事の関係で川口市方面へ出かけることが多かったが,たまたま話を聞いた翌8日,偶然川口市へ出かけたのである。
 そのときジムをのぞく気になったのは,前の日に友人か聞いたことを思い出すともなく思い出して,そこからふと誘われた単なる好奇心からだったとか。
 見物していた大久保氏に,だれかが話しかけてきた。
 「あんた相当の重症だな……っていうんですね。なんのことかすぐにはピンとこないでいると,ほうっといたら早死にしますよっていうんです。それまでは,いつ死んでもしようがないって気持でしたが……」
 ズバリ見知らぬ他人から指摘されて大久保氏は動揺した。そこで
 「しかし,私には骨がありません」
 というと,その人は
 「骨のかわりに筋肉を発達させたらどうですか」
 「けど,40才にもなって大丈夫ですかね」
 「40の手習いのつもりではじめなさい」
 声をかけたのは,当時同センターのコーチだった竹本氏だった。骨のかわりに筋肉を開発しろという竹本氏の言葉に,大久保氏は心うたれた。また,40の手習いでも大丈夫ということにも興味をそそられた。聞いてみると,正午からならいつでもトレーニングできるという。大久保氏の家は東京の千住だから,そう遠くはない。それに昼間は比較的に時間のゆとりがあるところから,その場で入会を決心した。
 「1日2日は,そりゃあもう体じゅうが痛かったですよ。しかし,1週間したら,まず胃の痛みがなくなった。半月目くらいにはもう薬がいらなくなった。3カ月もたったころは,胃のことなんかすっかり忘れてしまいました。ですから,途中でいやになったなんてことはなかったですね」
 大久保氏のトレーニングは,1回が1時間半から2時間で,週に2ないし3日。このスケジュールは開始当初から現在も変わっていない。はじめはたとえばバーベルはシャフトだけからはじめたが,
 「コーチの指示を忠実に守ってやることですね。とくに中年からやるには……」
 それがよかった,とうちあける。川口ボディビル・センターの池田良作会長はそこにもう一つ
 「しかし,意志薄弱では,いくらコーチがよくてもダメです。大久保さんはとにかく熱心だから……」
 と,根気をあげている。
川口ボディビル・センターの池田良作会長とならんで。

川口ボディビル・センターの池田良作会長とならんで。

トレーニング中の大久保氏。

トレーニング中の大久保氏。

施政者にいいたい

 大久保氏は今年42才になる。ボディビルは文字どおり40の手習いだったがそれまで十数年苦しんできた暗たんとした健康状態を,たちまち追放してしまった。しかも左の肪骨を8本も失っているハンディを負いながら。
 こうした例もめったにあるまい。大久保氏自身も
 「全国に結核患者ざっと100万ですか。できるだけ早い機会に,ぼくの体験をみんなに知らせてやりたいと考えています」
 不幸な仲間にふたたびたくましい健康をあたえられたら,とそれがいま一つの念願になっているといっている。
また
 「よく体が資本といいますね。しかし,はたしてその意味をほんとうにつかんでいる人が何人いるかということですよ……ボディビルはぼくにとってもはや大事な仕事の一つです。遊びの気持ではとてもやれません」
 体が資本という言葉の意味を,何人がほんとうにつかんでいるかというこの問いに,ボディビルに対する大久保氏のぬきさしならない気持を感じずにはいられない。
池田氏も
 「そこまで会得するのが大事なんです」
 わが意を得たりといわんばかりに,そういって大きくうなずいていた。ちなみに,池田氏は〝ダイナミック・バーベル〟KKの社長でもあるが,
 「中年層はとくにボディビルをやるべきですよ。中年になるといろいろ忙しくなって,なかなか暇はないですがだからこそよけい考えなきゃあいけない」
 その意味でも,貴重な大久保氏の経験だと強調する。
 そうした経験を通して大久保氏の望むものは
 「何かやりたいと思っても,社会人には,場所がない,設備もない,そうかといってゴルフなんか,だれにでもやれるってもんじゃない。そこへいくと,ボディビルは月1,000円でやれる
んです。そういうところを政府はもっと考えるべきですよ。ジムの税金面なんかにしても,きめこまかな施策をしてほしい」
 ともあれ,第二の健康をつくりあげた大久保氏の努力はみごとである。要するに,それは
 「少しずつでもいいから,積み重ねですね」
 と大久保氏は断言する。
 ビルダーとしての大久保氏がこれからめざすところは
 「そりゃあ,なんてったって,ミスター・ワールドですよ」
 と,大笑い。
 いや結構。楽しきユメだ。ユメといっては失礼か。ぜひぜひ邁進してもらいたいものだ。
月刊ボディビルディング1968年8月号

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