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ボディビルと私 ~ 思い出すままに ~

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月刊ボディビルディング1969年2月号
掲載日:2017.12.08
中 大 路 和 彦(日本ボディビル協会理事・第1回ミスター日本)
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昭和31年1月丸ノ内警察にて初代ミスター日本として各所にコーチに出向いたころ(体重67kg)

思い出のころ

もう15年以上も前のことになる。神田のYMCA体育館の入口にあたたかい牛乳とサラダをはさんだサンドイッチを食べさせる小さな売店があった。当時高校生だった私は、わずかばかりのこづかいをほとんどこの売店で使っていた。寒い冬の日にフウフウと吹きながら飲んだ牛乳の味は今でも忘れることができない。


当時はバーベル人口も少なく、重量挙げとの区別もほとんど確立されていなかった。“ボディビル”という言葉が私たちの口にささやかれるようになったのは昭和29年の暮ごろのことと記憶している。その当時私たちを指導してくださった方々に誌面をかりてお礼申し上げるとともに、皆さまにご紹介したいと思う。


照井さんは、小柄で当時重量挙げの選手としても第一級で、私をはげましてくれた1人だった。柔道で有名だったドイツ人のジェフ・エー・ショルツさんは、一番長い時間私と練習をともにしていただいた先輩である。江戸前の日本語でボディビルの効用性を説き、ボディビルを柔道に生かした人として貴重な存在だった。重量挙協会で活躍なさっている野中さんもきびしく私たちを指導してくださったことが思い出される。


私の同僚には第2回のミスター日本になった広瀬さん。彼はあの当時としては第1級のスマートさときれいな体をしていた。私と蔵前工業高校で同窓だった金子総はいつも私より体が大きく、力も強かった。物のない時代だったから、彼はよく長靴をはいてディープ・ニー・ベンドをやっていた。あの当時記録会が開かれていれば、抜群の成績で優勝していただろうと思う。


あるとき、当の金子がニコニコしながら「中大路、ちょっとみていろ」といって、120kgのバーベルを背にかついだ。いつも170kgぐらい軽々とかついでいる金子のことだから。120kgのバーベルをかついでいることに何の意味があるのかわからず、見ていると、片足を横にひらき、宙に浮かし、片足でいきなりディープ・ニー・ベンドをやってのけたのだから、私も唖然として、金子の底知れぬ力の強さに恐れいったものだった。長い間コンプレックスをいだかされてはいたがいい奴だった。


古いビルダーならご存知の上野の陰山さんも、コンテストには出場しなかったが、なで背をした美男子で、ベンチ・プレスの強さでは最近記録会で優勝する現役の第1線の人たちにおとらない力をもっていた。


この人たちの流した汗も15年の月日の中で忘れ去られてしまうであろうが、ボディビルダーの草分けとして大きな役目をはたしたのではないかと思われてならない。

初代ミスター日本になって

昭和30年春、テレビの普及とともにプロ・レスリングのヒーロー力道山がブラウン管のスターになった。外国レスラーを空手チョップでなぎ倒すさまは、体力コンプレックスをもっていた日本人になにものかを感じさせたのである。30年夏には現在副会長で活躍されている田鶴浜さん、平松顧問、若き日の玉利理事長らをはじめとする早稲田バーベル・クラブの働きにより、ボディビルはマスコミの寵児におどりあがった。


社会人の唯一の練習場であったYMCAは、それまでやっと40人くらいだった会員がまたたくまにふくれあがった。ひどいときは1日に200人の申し込みがあったと聞いている。受入れ施設の充分でなかったYMCAでは、入会制限をしていたが、月、水、金の初心者指導日には50人くらいならべて教えたものである。街なかのバーやパチンコ屋を改造し、次々とボディビル・ジムが誕生したのもそのころのことである。このブームを支えたバーベルも、木のシャフトにコンクリートの輪をつけたものがほとんどで、竹槍でB29と本気で戦う気持でいた日本人に何か共通するものを見る思いがするのだった。


明けて昭和31年1月16日、日本ボディビル協会結成記念第1回ミスター日本コンテストが神田の共立講堂ではなばなしくくりひろげられた。その当時として目立ったビルダーには、前記したYMCAの広瀬、早稲田の杉浦、現在日劇で活躍している(九州本健)、横浜の土門、神戸の高野らがいた。なにぶんにも、はじめてのコンテストなので、前評判などはなく、誰が優勝するかはまったくわからなかった。とにかく私は選ばれて第1回ミスター日本となった。

ボディビルの停滞期

ボディビル・ブームも33年にはいると落ちつき、また静かな練習場にかえった。私は仕事の都合で北海道や九州で長い間過ごしたため、局外者としてボディビルを眺めることが多かった。特に九州でのボディビル関係者の情熱には胸をうたれた。福岡の太田稔さん(この人を支える直田さん、安武さん)、熊本の桃山さん、佐世保の田川さんらが、九州中をかけまわってボディビルの普及につとめておられた。


私がこの人たちと将来のボディビルの姿について話をするとき、いつも問題になったのは日本ボディビル協会の指導性のことだった。


昭和33年以降停滞期にはいった協会活動は、協力者も少なくなり、組織的な指導性を発揮できなかったのも当然のことだった。


しかし地方の関係者としては、中央の協会役員にもうすこし努力してもらわなければ、ボディビルの大きな発展はないと私にせまり、私に義務感をいだかせたのだった。

ボディビル協会の再出発

私が九州から東京に転勤になったのは、東京オリンピックのあった年だった。その年に三越の屋上で開かれたミスター日本コンテストに10年ぶりで招かれた私は、立派になった選手の体に感嘆する一方、会場のふんいきがあまりにも見せ物的で、選手がかわいそうでならなかった。


そのころ協会の理事長として一人でがんばっておられた平松先生のところにたびたび伺って、私の意見を聞いてもらった。第一に協会機関紙を発刊すること、第二に選手をまとめ協会の力にすること、第三に記録会を開催し選手の層を広げることなどであった。


それから10日ほどして現理事長の玉利さんから電話があり、報知新聞の遠藤英男さんをまじえて、これからのボディビルはどうあるべきか、どのようにして理想を現実のものにしていくかについて話し合った。そのころから選手としての立場からはなれてのボディビル観が私の胸に芽ばえはじめたのである。


オリンピックのあとでもあり、ボディビルによる基礎体力強化が再認識された時期でもあり、ボディビル協会にもボディビルに情熱をもった新しい人たちが集まり、少しずつ前向きに動きはじめた。


協会の事務所が京橋の1角にできたのは39年の暮ごろと記憶している。


その後、スポーツ・ジャーナルの一部をかりていたボディビル機関紙が“強くたくましく”に発展し、現在は機関誌として“ボディビルディング”の発行に協力している。
現在の私(43年8月発電所にて)体重は90kg

現在の私(43年8月発電所にて)体重は90kg

私の生活とボディビル

私は何のためにいつまでもボディビルをやっているのだろう、と自分自身に問うてみる。最近は健康を維持するためという答えが出る。あるときはターザンにあこがれ、ミスター日本をめざし、あるときはボディビルをさかんにしたい、と年令や環境によってその目的が変わってくる。


私は現在横浜市磯子で火力発電所の建設に従事している。工事が最盛期になったので、あまり練習時間にはめぐまれない。腹の皮は練習不足と過食のせいかますます厚くなる。時々減食などしてみるが、目方はあまりへらず、気力ばかりへるので、減食はやめて自然にまかせている。健康を維持するのが目的であるから、少々腹の皮が厚くても問題はないと自分をなぐさめているが、靴のひもを結ぶときに目玉がとび出しそうになるので、ひものない靴にすればよいと思ったりする。


私がこんなことを書くのは、これからのボディビルに要求されるのは、筋肉をふやすことよりもむしろ、うまいものを食べても筋肉やぜい肉がつかない方法に重点がおかれるようになるのではないかと思うからである。私は自分のうちの風呂が小さいので、広々とした銭湯や関内の11階にあるサウナに出かける。サウナには30才以上の人たちが多く、ほとんどの人が特に運動などしているようにも思えないが、立派な体をしている。15年もボディビルできたえた私のほうがすこし腕が太いくらいのもので、私の15年の努力は裸になってみるかぎり、あまり価値のあるものではない。むしろジャンパー一つ買うにしても、なかなか体に合うのがみつからないときは、もっとすんなりした体だったらと、90キロに近いからだをうらめしく思うこともある。


それでも近ごろはYシャツ、下着類の大型のものが一般に売り出されているので助かる。Yシャツは首まわり44cm、そでたけ79cmのものを買えば私にピッタリである。先日もレインコートの合うものがあれば買いたいと思い、伊勢崎町に出かけ、洋服屋さがしのはしごをしたが、なかなか合うものがなく、7軒目でようやくB体の95というのが見つかり、700円値切って買うことにした。

これからのボディビル界に対する期待

ボディビルの練習をすれば筋肉が発達するという事実は、大衆の間に広く知られるようになった。私たちが長い間努力した結果がようやく実をつけはじめたのである。しかし、まだまだボディビルの本質を理解してくれる人は少ない。胸や背の筋肉が若干発達して力がついたとしても、男としての行動や真の健康が身につかないとしたら、単なるバーベル遊戯にすぎないと思う。均勢のとれた発達した体をつくることは楽しいことであるが、それだけがボディビルの最終目的なのではちょっとさびしい気がする。男と生まれた以上、その立派にきたえた体で何事かにせいいっぱいぶつかってゆく気力や行動力をいっしょに身につけるようにしたいものである。


私たちはボディビルと各種スポーツの連けいをのぞんでいるが、1、2の例をのぞいてはボディビルが運動競技に生かされていない。私が知っている範囲のボディビルダーの中にも、レスリングや重量挙げをやったら一流になれるのではないかと思われる人は多い。今年はそういう潜在能力をもった人をアマチュア・スポーツの舞台におくり、活躍させたいものである。特にレスリングへの進出は八田会長も望まれていらっしやるので、ぜひ実現したいものである。


これらを実現するためには、練習への参加が問題であり、今後ボディビルダーが大学等の練習に参加しやすいような配慮も必要であろう。
月刊ボディビルディング1969年2月号

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