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世界の力豪 ―5―
ユーゼンサンドウ

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月刊ボディビルディング1968年10月号
掲載日:2017.12.05
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田鶴浜弘

まえがき

 明治時代の古ぼけた文献に「鉄亜鈴肉体改造術」という本があった。
 黒表紙で,大きな活字――いかにも明治のにおいがする原書は,こんにち〝ボディビルの父〟といわれるユーゼン・サンドウの著書なのだ。
 私の中学時代(つまり旧制の中学だから,こんにちの高校に相当する),神田神保町の交差点の角に一誠社という書店兼スポーツ出版社があった。かつての砲丸投げ,十種競技の日本記録保持者だった二村忠臣さんの経営。二村さんは高師(こんにちの文理大)の出身で,すぐれたコーチであるとともに体育者だったから,スポーツを志していた私らはいろいろ指導を受けた。
 その「鉄亜鈴肉体改造術」をはじめて見たのは,たしか二村さんの一誠社でだったと思う。
 ずっとのち,私が早稲田大学時代,関口町の山水館という下宿屋に,創生時代のアマレス関係者,山本千春(ベルリン・オリンピック監督),風間栄一(当時怪力無双の首固めで日本一のアマレス王,ベルリン・オリンピックでライト級5位),丹波幸次郎(ベルリン・オリンピック日本代表),その他大勢が,この下宿に立てこもっていて。上記の3人はタタミ敷きの自室にいつも鉄亜鈴やエキスパンダーをころがしていて,リーダー格の山本千春の部屋には,その「鉄亜鈴肉体改造術」の本があった。
 そのころだった――と思う。有名な日本一の怪力者といわれた若木竹丸氏の著書「怪力法」を贈られたが,その中に,「サンドウ亜鈴術」の文字がさかんに出てくる。
 さらにずっと後年,第2次大戦後だが,私が月刊雑誌〝ファイト〟を始めたころ,日本最初の早稲田大学ボディビル・クラブをひきいる玉利斉キャプテンが,たいへんな情熱を傾けて,私の雑誌〝ファイト〟に「近代ボディビルの父ユーゼン・サンドウ」を書いてくれた。
 ずいぶん長ったらしい奇妙なまえがきであるが――それも力豪史上における彼のキャラクターを象徴できると思ったから――つまり,ユーゼン・サンドウは,アメリカに渡ってから,ジーグフリートと組んで,第1次大戦前後のはなやかな劇場のフットライトを浴びたタレントであり,若き日も舞台上の怪力興行で名声を博したが,たんなるショウ・マンとは区別したいという意をこめて,あえてこうした前説を書いておくのだ。
 いや,たしかに同じ時代には,力豪は数多い――52枚のトランプを1組かさねた一端を,指先の怪力でつまみとった――という怪力べ一クマン(ドイツ)だとか,片腕で167kgを差し上げた力豪ザクソン(ドイツ),いかなる力技でもだれにも負けないと挑戦者を求めたサムソン(英国)等々が有名だが,それらはたんなる記録的トピックとして残るだけで,サンドウが残した
〝レジスタンス・エキサイズ〟という〝ウェイト・トレーニング〟が一世を風麗した影響力にはとても及ばない。

(見出し)人間サンドウのイメージ

 まず人間サンドウのイメージを冒頭にはっきり脳裏にえがいておいてほしい。
 彼は生まれつき頑丈で怪異な巨体の怪物ではなくて,普通の身体をきたえあげたハンサムな美男であった。
 力豪としては,中肉中背の部類といっていい――その全盛期の身体のスケールというと,身長は176cm,体重102kg,胸囲が158cm,上腕48.5cm,大腿66cm――こんにちのミスター日本では及ぶべくもない,すばらしい均整美が目に浮かぶ。
 男性肉体最高の美の極致――まさに生きているへラクレス像だったという。だから,20世紀のこんにちでも,いぜんとしてあまねくボディビルダーの目標であろう。
 しかも,たんなる見かけだけではなくて,巨大なライオンとの格闘にも勝ったし,プロ・レスラーとしてはヨーロッパ屈指の実力者,また山を抜くその怪力は,独力で大型自動車をやすやすと持ち上げたといわれているが,幼時から少年時代の前半にかけては,少なくとも強い小供ではなかったらしい。
 1867年東プロシャ(ドイツ)のケーニヒスベルヒで生まれた。
 ケーニヒスベルヒは,冬は流氷が浮かび,鉄色の寒流をたたえたバルト海をはるかに望むダンチヒ湾の奥の町である。
 少年時代の銅板の似顔絵を見ると,なんだかひどく童話的な美少年である。力豪として名を成してからの男ざかりの写真を見ても,やわらかそうな髪の毛,澄んだ張りのある美しい目はもっと淡いブルーにすんでいたにちがいないのが,やはり少年時代のおもかげを残している。
 絵がうまかった。紫色のスミレの花が好きだった――などと,女の児のような力豪の小供時代は,腕力の強い悪童にいじめられるほうの側だったはずである。
 かつて若木竹丸氏にインタビューしたとき,彼が力道修業に一念発起の動機が,ある雨の日(彼が中学1年生のとき)校庭で腕っぷしの強い上級生に真新しい学帽を足下の水ったまりにたたきまこれて,泥ぐつでフンづけられても手出しができなかったくやしさからで,学校一の腕力者になって,そやつをやっつけてやろう――という決心から出発したのだと聞いたが,私はその話を聞きながら,ふとユーゼン・サンドウの少年時代を連想させられた。
 おそらく,ボディビルダーの大半が肉体コンプレックスに対する反撥を力道修業の動機としているようである。
 ユーゼン・サンドウの故郷,北ドイツあたりの北国では,頑強な荒っぽい肉体の持ち主が多いから,肉体コンプレックスはたぶんおさない彼の脳裏に山積していたにちがいないが,若木氏のように反撥にふみきったのは,もっとあとになる。
 13才のとき,父親につれられて,イタリアの旅をした。
 古代ローマの遺跡で,すばらしいへラクレス像を見てひどく感動したという。南欧のあくまでも明るい太陽の下のギリシャ神話の神像には,たしかにたくましい力へのあこがれをかきたてられる。
 北欧の無感動な単純で粗野な乱暴者には,いささかもひかれなかったサンドウ少年の心に,へラクレス像は力と肉体美への強いあこがれを呼びさますのである。
 ルネッサンス思潮の発端になるギリシャ遺跡の発掘はドイツ人の手で行なわれたくらい,当時のドイツ人にはルネッサンス時流は新鮮な社会思潮だったから,サンドウ少年にも,古代ギリシャ・ローマへの好奇心は,この南欧旅行でしれつに燃えさかる。
〝クロトンのミロン〟は仔牛を持ちあげて怪力修行に成功し,地上に〝人間へラクレス〟を完成させた――ということを知ると,彼はハタとひざをたたいた。
 <ボクだってやってやる――大昔のミロンに負けてたまるもんか>と思った。
 ドイツは,人体医学では世界一を誇っているのだ。ギリシャの伝説を科学で分析しようじゃないか――と決意する。科学の英知と努力で不可能なものはないはずだ――いかにもドイツ人的な考え方である。
 まず解剖からとりくみはじめた。
 ユーゼン・サンドウの父親が医者であったというから,彼の科学には,たしかにいい相談相手だったにちがいない。
 2年かかってミロンの秘密をさぐりあてた――というのは,仔牛をかかえあげてなぜ怪力がやしなえたか――というのは,人間の筋肉は,重量に対する抵抗運動によって,筋肉量を増大させえられる――つまり。レジスタンス・エクササイズの原理である。
 最初は器具を使用しない――体操からヒントをつかんだ抵抗運動を何種類も考え出すのである。
 自分の両腕を組んで,右と左の反対方向につっぱる運動。
 腕立て伏せ運動。
 脚の屈伸運動――などなど。
 その次が,手近かに得られる器具を利用して,〝綱のぼり〟はもちろんのこと,彼がもっとも得意にしたのは,握力をやしなうための〝ロープのねじ切り〟である。
 後年,彼のプロ・レスラー時代になると,握力の強さではだれも及ばなかった――というのが有名で,その正体はこのロープ〝ねじ切り〟に秘密があった。
 1885年,彼が18才のときに,後年有名になったサンドウ創始の鉄亜鈴による鍛練法がいちおう完成するのである。この鉄亜鈴が,のちにダンベルに発展し,さらにバーベルを生むと見て
もいいのではなかろうか。
 そのころには,怪力美体のサンドウは,すでに無名の若者ではなくなった。
 当時のドイツはプロレス・ブームで,怪力を誇る腕力自慢がマットをめぐってひしめき,まずサンドウの怪力の舞台はマットからひらけてくるのだ。
月刊ボディビルディング1968年10月号

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