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ボディビル風雲録 3

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月刊ボディビルディング1969年3月号
掲載日:2017.12.15
田鶴浜 弘
 〝日本民族の体格改良運動〟――ボディビルディング普及に乗り出す理想の旗印は高々とかかげられる。

 月刊ファイト昭和30年6月号から、玉利斉の〝ボディビル講座〟の連載がはじまった。

 それから半年後に日本ボディビル協会が生まれるのだが、その間にボディビル・ブームといッていい表面の賑やかな盛りあがりはまことに急テンポで、経過を拾うだけで文字通り序盤の風雲録である。

協会以前の主な登場人物

 次にあげるのは、協会設立以前、このムーブメント進行に欠かせない役割をになわれた人達――だからボディビル風雲録には今後話の進展に伴ッて登場されるが、その前に先づボディビルに関連して私が対面した順序を追って一応簡単に紹介しておいた方がいい。

 玉利君の次にボディビルの話を聞かされたのが平松俊男君と山中経雄君だった。

 その頃の早大バーベル・クラブは、玉利キャプテンのもとに部員が200名近く、それに先輩の平松俊男、人見太郎両先輩が監督格で、バーベル技術専門の重量あげ出身で後に体育学を専攻することになる窪田登君がコーチだった。(人見、窪田両君にも間もなくお会いする)。

 平松君は、アマレスが早大に生まれて間もなくの時代――ベルリン・オリンピックを前にして、彼はアマレス初期の数少ない選手で、その時代からの旧知である。

 私の記憶だと、その頃からアメリカのテキストなどを取りよせて鉄亜鈴だのエキスパンダーを愛用していた先覚の1人だッた。

 玉利君の来訪後数日して彼が、ファィト社の編集室に、コンクリート製のバーベルを1本かついだ山中経雄君を伴ってあらわれた。

 「山中バーベルの山中経雄さんです。戦後の資材不足の中で、鉄の代りにセメントで苦心してコンクリート・バーベルの優秀品を作りあげたンです。お陰で、安い値段でバーベルが普及できるから、ボディビルを盛んにするのに有難いと思ッてます。

 平松君から、そういッて紹介されたのが山中バーベルの社長だった。

 彼もまた明大ボクシング部創設時代の選手出身で、戦後に復員してコンクリート・バーベル作りの鬼になったという――これにはやはり信念の裏付けがあった。ずい分苦労しながら打ち込んできたのである。

「はじめは商売のつもりじゃあなく、自分が練習用に終戦直後にこしらえた――それを昭和25年頃ある学校でぜひ作って欲しい――そういわれて3本作っておさめたのがきっかけでした。商売にするだけだったら、あの頃もっと他にいい商売がいくらもあったが、戦後タガのゆるんだ若いものにはせめてボディビルをひろめなくちゃアいけない――これが私の信念だったンですヨ。

 それには安くて優秀な道具が必要だ。そう思ってこの道にとッ組んできたンです。だからあれからこいつを自分でかついで今日までに1000校近くも学校を歩きましたョ。ずい分苦労しましたネ。時に気違いあつかいされた事もあるがボディビルを拡めるのは私の信念なンだから仕方が無いンでさア」

 初代の日本ボディビル協会会長だッた川崎秀二衆議院議員は、ずい分私の旧い友人で、私は学生時代早大競走部選手だったが、彼もまた数年後に同じ競走部選手――いわば同じ陸上競技の親しい後輩だが、彼はすッかり出世して、昭和30年、鳩山内閣で厚生大臣になった。

 厚生大臣就任はボディビル・ムーブメントに取り組む前だったが私の主宰する月刊ファイトで、スポーツマン大臣とスポーツ対談をやっている。

 その中で、日本のスポーツ行政は文部省の所管だから学校体育が軸になるのではないか。だが理想の姿はむしろ、スポーツは日本民族の体格改良及び主な生活運動の一端であり、むしろ厚生省の領分におくのが望ましい――などという話をした。

 だから私が、玉利君から早大バーベル・クラブでの話をはじめて聞いたとき、「早稲田大学のボディビル・クラブだけじゃアいかンネ――国民的ムーブメントを起そうじゃアないか、もっと広く日本ボディビル協会にまで持って行く可きだ」といきなり口走ッたのは、その2カ月ほど前の川崎厚生大臣との対談が、フト頭の中にひらめいたからであッた。

 あのとき、私は心の中で〝こいつはあの話にピッタリじゃアないか〟そう思ったのである。しかも、今や四等国民におちぶれたコンプレックスをハネのけろという欲求が皆の胸の中にフクレあがってきているではないか。

 ボディビルをひッさげて厚生大臣室に乗り込んだのは6月の中頃だッた。

 ボディビルという国民的ムーブメントの提案に、若いスポーツマン大臣は上気嫌であッたし、おまけに大ムーブメントを起こすには、組織が必要だヨ」といッた。

「厚生省の外郭団体としての日本ボディビル協会――」

 私がズバリそういうと、彼は、ニヤリッと笑ッて、それからこういッた。「とりあえず、ボディビルの啓蒙が必要だネ」

 その後川崎厚生大臣は、例の山中製コンクリート・バーベルを座右に置き自ら卒先して国会を背景にボディビルに精進した。

 大臣自らの啓蒙は、国会議員の中から追随者が続出し、単に自民党のみならず、国会ボディビル・クラブに発展する――そのメンバーを拾ッてみると、浅沼稲次郎、柳田秀一、田原春次(以上社会党)、桜内義雄、山中貞則、薩摩雄次、須磨弥一郎、森清、白井荘一、荒船清十郎、福永健司(以上自民党)となかなか賑やかな超党派であッた。

 体育行政の所管構想もおそらく、このときの川崎厚生大臣の胸中にはからまッていたかも知れない――とあとで忖度できるフシがある。

 マスコミ関係で最も重要な役割りを果たしたのが日本テレビであッた。

 初代報道局長だッた藤岡端君は、力道山プロレスの成功で、同じジャンルのボディビルの話を私が持ちかけると乗ッてきてくれた。

「ハロルド坂田が、ハワイでミスター・ワイキキだッたそうだネ――あちらじャア大変な人気らしい、身体中の筋肉を自由自在に動かして見せて、これバディ・ビルダーの芸当だヨ――ッて片眼つぶッて得意になッたッけ、だが日本じゃアあンな美事なのは無いだろう?」

「ところがネ、日本でもやッてるンだヨ」

「そいつは面白いナ」

「君ンとこでミスター・日本コンテストの実況中継をやッてくれンか」

 こんなやりとりの末、この話がモノになッて、8月22日に日比谷公会堂で第1回ミスター日本コンテストをファイト社主催、日本テレビ後援の下に開催することになッた。

 その前に啓蒙のPRが必要だ――という事で、7月22日の金曜日以来、毎週金曜日の午後1時5分から、15分番組で〝男性美の創造〟というボディビル番組の放映が決まッた。

 担当プロデューサーは加賀昌三君だッた。

 この番組のことは、あとで書くが、ここまでに名前をあげた連中は全部出演している。

 視聴者の中から、当時は青白きインテリの代表だッた恥美派作家の三島由紀夫がボディビルにつかれて名乗りをあげる。

 文豪三島由紀夫のその後の作家生活にボディビルが大きな1つの転機になッたし、ボディビルがブームと化すほど社会的反響の火つけ役になッた。

 おまけに開局以来日の浅い日本テレビ教養番組としても、記録破りの大きな反響を呼ぶのであッた。

 だがこの番組がもともと、ファイト社主催、日本テレビ後援で開催する予定だッた第1回ミスター日本コンテストの啓蒙という意味でスタートしたわけなのに、かんじんのミスター日本コンテストの方は、公募したコンテスト出場申込みが、意外にはかばかしくなくて、東京周辺から17名の他は、阪神地方からわずかに2名、仙台から2名で、ミスター日本のタイトルに不均衡な状態だッたから、切角の意気込みも期待外れで、コンテストの開催は延期ということになッてしまう。

 やがて町のボディビル・ジムが全国に氾濫するのだが、ボディビル・ジムの第1号として名乗りをあげたのが、渋谷宮益坂下で運動具店を経営する小寺金四郎君である。

 彼の日本ボディビル・センターはその年の10月、平松俊男君を指導者として華々しく開場した。

 そして日本ボディビル協会設立までの3カ月足らずで忽ち会員が1000名を越える――という盛況ぶりでマスコミの寵児になッてしまッた。

(つづく)
月刊ボディビルディング1969年3月号

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