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ボディビルと私 ~無名ビルダーの記録~

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月刊ボディビルディング1969年1月号
掲載日:2018.01.09
諸 熊 光 雄
ボディビル開始当時の私

ボディビル開始当時の私

井の中の蛙

私はまったく無名のボディビルダーである。


しかしボディビルを愛している点では有名選手にヒケはとらない。私は現在24才であるが、私がボディビルを始めたのはめたのは18才のときであるから、ボディビル歴は6年である。
最近の私

最近の私

高校を卒業後、就職してもらった最初のボーナスで、バーベルその他、ボディビル用具を一式そろえた。


私は学生時代から体は小さかったが力は強かった。懸垂は私の右に出る者はいなかった。体が小さいということ、力が強いということなどが理由でボディビルを始めたのである。5年間はもっぱら書物にたよって個人練習をやった。ただ好きというだけで2時間も3時間もバーベルを握った。


そんなある日、博多にボディビル・センターがあることを知った。私の住んでいる北九州から快速電車で40分の所である。往復1時間20分かかる。会社がひけてから通うとすれば、私の青春はただボディビルの時間だけに吸いとられてしまうことが予測できた。しかし私はボディビル・センターで練習がしたい一心で通うことにした。


博多のボディビル・センターとは小笹和俊氏のいる福岡ボディビル・センターであった。


5年間黙々と練習してきた私であったが、センターに行ってまったく驚いた。私は文字どおり“井の中の蛙”であったことを思い知らされたのである。私の大胸筋は彼らのそれとは比較にならぬほど貧弱であった。私の練習方法にも誤りの多いことを知った。


コーチの太田実氏からみっちり2カ月ほどコーチを受けた。個人練習のときと違って、日に日に大きくなるのを感じた。そのころ“ドブリル”というにがい牛のエキスを飲むと体が太ることも知った。そんなことで入会当時100cmしかなかった胸囲が、なんと驚くなかれ110cmになった。


私には信じられない数字であった。その年の夏は青春時代の最高のものであった。私は大いに女性にもてたのである。

試練をのりきった情熱

コンテスト出場の準備練習をしていたころ、私には耐えがたい事が起きた。急に腹が痛みだし、私は畳の上をころがりまわって苦しんだ。病名は尿管結石。私は腹から石を取り出す手術を受けた。そのころの私のボディビルに対する青春の情熱と病気に対する苦悶について、私のボディビル日記から拾ってみよう。


6月27日 ボディビル入門。この情熱はさめない。うそじゃない。オレには一番よくわかる。


7月2日 ただボディビルに明け暮れた1日であった。ゆっくり休んで10時ごろ起床した。午後から3時間みっちり鍛えた。オレは何かが生まれることを信じないわけにはいかない。


7月6日 オレは終生ボディビルをやり、ボディビル界にオレの名を残したい。その日その日がボディビルとの戦いであり、またその戦いが好きである。オレが1日中で一番楽しい日はその練習の時間なのである。
昭和43年夏海水浴場にてモデル嬢といっしょに。

昭和43年夏海水浴場にてモデル嬢といっしょに。

7月27日 ボディビルはいい。体の底に何か強いものを感じる。心の底に何か強いものを感じる。


8日18日 今日は“ミスター北九州”の田吹俊一さん宅を訪れた。38才という年はまったく感じさせない若々しい体の持ち主であった。若い僕が終始田吹さんにリードされて2時間ばかり練習をした。ボディビルには大変理解のある人であった。


練習が終わってから猛烈に左横腹が痛んだ。まったくやる気がなくなってしまうほどの痛みだった。しかし、オレは今日の痛さよりもこんごの事が恐ろしかった。


これだけ痛むのだから、いつか手術の必要があるのかも知れぬ。だとすると練習ができなくなる。それが何よりくやしかった。せっかくこれまで努力してきたのに、ここでやめると元にもどってしまい、今までの努力が水の泡になってしまう。


やみたくない。一時的にやめるのならそれでもあきらめがつくが、一生やめねばならぬかも知れぬというそんな不安が浮かんでくると、いても立ってもいられなくなり、横腹をさすりながら男泣きに泣いてしまった。しかしオレの心はきまった。やるぞ、死んでもいい。ボディビルで死ぬのなら悔いはない。死ぬほどボディビルがやれるのなら幸いだ。ボディビルはオレの生きがいだ。


8月22日 入院


9月12日 退院


以上が私のボディビルに対する情熱の記録である。

病んで知る愛着の強さ

退院後体調も回復し、入院以前よりも調子がよいことを、何よりも幸いに思う今日このごろである。


私はこの大病をして初めてボディビルの本質がつかめたような気がした。ボディビルの本質とは、最終的には、ボディビルを通して社会に貢献することに尽きると思う。コンテストで上位入賞することそのものが目的ではないのだと思う。ボディビルとはもっと深いものだと思うのである。


もちろんコンテストで入賞するような人たちには、人間的にもすぐれた人が多いのは事実なのである。それは私自身の経験で実感としてわかるが、苦しい練習の過程において、肉体の発達のみならず、勇気とか根性とか精神的な力がつくからだと思う。


私は先に経験6年と書いたが、この間に何度もブランクを迎え、今回の大病で私自身まったく再起不能かと思ったこともある。しかし、私がこの6年間のうちに得たボディビルへの愛着は非常に強く、こんな大病でも寄せつけなかった。そして現在私はボディビルをやったおかげで人一倍スタミナがあるので、仕事もバリバリやっているし精神的にも生活に活気がある。この大病も、体力があったればこそ回復が早かったのだと信じている。やはり、ボディビルと私は、夫婦以上に離れられないものなのかも知れない。


この文は、福岡県北九州市在住の読者、諸熊光雄氏(24才)から寄せられたものです。(編集部)
月刊ボディビルディング1969年1月号

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