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バーベル放談⑨
悪をはね返す力

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月刊ボディビルディング1969年4月号
掲載日:2018.01.30
アサヒ太郎
 息子に、1億円もする飛行船を買ってやったご仁がいる。笹川良一という競艇界の大ボスである。週刊誌でお読みになった方もあろうが、笹川さんは政商と呼ばれる元右翼系の人物である。ちなみに、モーターボート・レースの年間売上げは昨年たしか2,400億円、中央競馬界の売上げとほぼ同じである。公営3トバクといわれる競輪、競艇、オートレースのなかでも、大モノの部類である。

 さて、この競艇界の〝親分〟と若いころ、いっしょに暴れ回った人に「ピストルの黒田」と呼ばれる人がいた。本名は、たしか黒田重政。西日本ボクシング協会の会長を長年勤めた好々爺であった。ピストルの黒田といわれたのは、若いころカッとするとすぐにピストルを抜いてぶっ放した経歴があるからだ。

 なにしろ30数歳までは刑務所にいた方が長いという暴れん坊。周囲の人たちは、この鉄火男を敬遠し、恐れた。うっかりきげんを損ずると、たちまちパン、パンとなるのだから、まともな社会生活を営む人たちが、蛇カツの如く嫌うのも、当然だった。ピストルの黒田は、長年の刑務所暮しを続けているうち、ほん然と悟った。こんなことで、オレはどうなる。みんな、オレをこわがり、嫌うのもこのオレの無鉄砲な気性とピストルが原因だ。この世に生まれた以上、こんな一生を送っていたら親にも申訳ない。

 悪にも強い男は、善にも強い、といわれる。黒田さんは、その一人だった。やがて、黒田さんは、全国の侠客を集めて、一大引退披露を催し、きっぱりヤクザの世界から足を洗った。

 この黒田さんを知ったのは、ボクシングの会長さん当時である。腰が低く、私のような若僧にも言葉ていねいに口を利いた。

 当時、私は大阪でボクシングを担当する記者だったが、ボクシング界にはびこる悪習を無くすため、会合があるたびに歯に衣着せぬ調子で業者のだらしなさを鋭く批判した。

「余り、きついことをいうと危ないゾ」と注意する仲間の記者もいたが、私はボクシングが世間に受入れられるためにも、批判しなければならないと、この世界に横行する理不尽な行為を攻め続けた。

 たとえば、こんな事があった。

 リングサイドには、みなさんテレビでご存じのように、報道席が用意されている。専門記者が、ここに頑張って、その夜の試合ぶりを詳細に報道する席である。この報道席に、しばしば「○○組」と書いたフダが立てられた。現在、警察庁の特別取締りの対象になっている暴力団山口組翼下のある暴力団の組名である。この組の幹部連中が、その名フダが立てられた場所に陣取ってさかんにヤジを飛ばしたり、試合ぶりをからかうのである。

 私は、怪しからんと思った。報道席は、いわば国連みたいな場所である。ここでは何者にもさまたげられず、自由自在に、そして忠実に数万、数十万、あるいは数百万の読者のために記事を書き、事実を伝える貴重なニュース報道の席なのである。その神聖な場所に、ヤクザが入り込み、ヤジを飛ばす。こんなことではテレビでボクシングを楽しんでいる茶の間の人たちは、なんと思うだろう。

 私は、口をすっぱくして、ジムの関係者に説明した。

「四角いジャングルといわれるリングが、画面いっばいに映るのはまことに結構だが、ジャングルのまわりに〝猛獣〟がうろうろしているような場面は見せないでほしい」

 元日本ライト級チャンピオンの肩書を持つ、あるジムのマネジャーは、私が社会記者として大阪府警本部を担当していたころ、捜査四課の暴力団リストに「○○組幹部」としてリスト・アップされていた。これは、後日判ったことだが、彼の経営するジムの会長が、当時関西に荒れ狂っていた大規模な暴力団の組長だったため、その組関係の一人とみられていたようだった。その人物をとらえて、私はしきりに説教した。

「元チャンピオンともあろう者が、暴力団のメンバーに名をつらねて、若いボクサーを指導できると思うかね。人柄ともに好かれてこそ、後進の指導ができるんじゃないか」

 ほぼ私と年格好が同じ彼は、腰低く答えた。

「おっしゃる通りです。会長がああいった方なので、誤解を受けますが、私自身としては真っすぐ生きて、一人でも多くいいボクサーを育てるつもりです」

〝素人衆〟である私に対する応待の仕方でもあったろうが、私の言い分に耳を傾けるその姿はいまも心に残る。

 こうした書生っぽい社会正義を訴える私の姿を、会長としていつも会合に列席していた黒田さんがみとめ、たいへん好感を持ってくれた。

「よくおっしゃって下さった。私がいつも考えている事とまったく同じです。今後も、気がついたことがあったら、どしどし申しのべて下さい」

 70をすでに越えておられたはずだがボクシング界の浄化のためには、どんな事をしても、の気概が感じられた。

 しばらく経って、さっそく黒田さんに相談する事ができた。南海電鉄の沿線にある浜寺の自宅にお邪魔して種々申上げると、こんな返事だった。

「よくわかりました。私が顔を出しますと、血の雨が降ります。ですから、私の孫みたいな関係にある若いのを使って二度とそんな事はさせんように致します。本当に、わざわざお越し下さって感謝に耐えません」

 相談した事柄はこういう事だった。

 滋賀県大津市のある会場で、東洋フライ級のタイトルマッチが行われたときのことだ。
 ぞくぞく詰めかける観衆が入口でうろうろしている。ひょいと見ると、当日売りの切符売場がどこにも見当らないのだ。殺しスタイルのにいさん連が、黒だかりの客をつかまえ「さぁ、切符は売切れだよ。リングサイド券いらんか」と売りつけている。車で乗りつけてくる客は「オイ、ここは有料駐車場だ」と200円、300円をチンピラにたかられている。これは、ひどいと思った。

 場内に入ると、あちこちに〝切られ与三〟の生まれ変りみたいなヤクザ風がわんさといる。

 さっそく、主催のテレビ会社の責任者である友人をつかまえ、これは一体何事だ。こんな調子で試合をやっていいと思っているのかとかみついた。友人は弱り切った表情で答えた。

「判っているんだが、どうにもならんのだよ。なんでも京都の組関係の連中が興行権をにぎって、こんな具合いになってしまったんだ」

 その夜の試合はどうやら無事に終った。しかし私は承服できなかった。

 場内警備に当る地元警察の警部補に「外の様子は知っているはずだ。なんで取締らないんだ」と食いつくと「われわれは場内だけの警備係だ」とそ知らぬ顔をする始末。こん畜生奴、と怒鳴りつけたいところだった。

 支局に帰ると、すぐに県警本部詰めの若い仲間に連絡し「警察署長はじめ幹部連中にキュウをすえるよう本部長に報告してくれ」と頼んだ。あとの事は知らないが、おそらくだいぶ痛い目にあったはずだ。

 そもそも、この東洋タイトルマッチを、こんな大津くんだりで催したのには理由があった。

 この試合前、大阪でノンタイトル戦があった。そのとき場内に配られたプログラムのなかに、前にのべた暴力団会長のあいさつの言葉が出ていた。この会長殿は指名手配で逃亡中なのである。しかもその会長のあいさつの下に制服制帽の警官がこれまた麗々しく、友人の形で祝辞をのべているのだ。

 私はすぐに府警本部に問題のプログラムを送り届け、善処方を要望した。

 当の警官は〝マル監〟と呼ばれる本部の監察官室に出頭を命ぜられ、さんざん油をしぼられた。

 黒田さんに、相談したというのは、こうした一連の事である。

 黒田さんは、浜寺で大きな質屋さんを営み、釜ケ崎で昔鳴らしたというお年寄りを番頭さんに使っていた。この番頭さんも、黒田さんと同じようにヤクザ者として暴れ回っていたが、黒田さんが「いつまでそんな事をしていてどうなる」と足を洗わせ、いまでは実直な番頭として仕えているということだった。

 その黒田さん宅には、いまでは解散しているが、ミナミの繁華街を押えていた組関係の幹部連が盆、暮れになるとよくあいさつに来ていた。

「オヤジさん、ご無沙汰致しております」と台所で頭を下げている男たちをよく見たが、そのなかには終戦後、刑務所を出るなり第三国人がわがもの顔に心斉橋筋をねり歩く様子を見て奮起し、仲間のヤクザ連と結束して外人暴力団をたたきつぶしたという剛の者もいた。

 その日、黒田さんはしんみりした調子で昔物語りをした。

 大阪府立八尾中学生のころ、余り暴れるんで、とうとう退学を命ぜられてしまった黒田さんは、オヤジさんにわずかのカネをもらって一人アメリカに渡った。15、6歳の少年時代である。

 ところが、アメリカに着いても、言葉がわからず働らくこともできない。やむを得ず、アラスカ行きの出かせぎ漁夫になった。

 世界じゅうから集まったあらくれ男どもが集まり、アラスカへ向う船中ではバクチに目を血走らせる毎日だったという。なかには、せっかくもらった前借金を使い果し、なんのために出かせぎに行くのかわからんような者も現われた。日本人、中国人、フィリピン人、ギリシャ人、イタリア人、さまざまな人種のルツボのなかにあって黒田少年は世にもまれな体験を積んだ。

 現地では、ろくすっぽ眠る時間も与えられず、こき使われた。体力との勝負である。

 とろとろと眠りこけたところへ〝ゲラップ〟の大声。5人、10人が丸太棒をマクラに着のみ着のままで寝ているので、その丸太棒の端をハンマーでたたかれると。どんなに熟睡していても、頭をぐわんとなぐりつけられたような状態になり、いっペんに目が覚めてしまったという。そんなひどい生活を送って黒田さんはやがて帰国した。このとき持帰ったボクシングのグローブ、これがはじめて日本人の目に触れたものだということだ。いわば、黒田さんは、ボクシング界の根をわが国に植えつけた人である。

 その後は、持前の根性でヤクザの世界に名を売った。刑務所―シャバ―刑務所のあけくれである。キモっ玉の太さとピストルの早さでは相手がいない存在になった。そうした生活が30余歳まで続いたのである。が、いまは違う。
 心斉橋筋にある坪500万円もの土地を何百坪も持って他人に貸し、大きな質屋さんも営むご隠居暮し。夏はアクアラングを背中につけて水中にもぐり冬は猟銃をかついで狩りを楽しむ、といったのどかな毎日である。

 その黒田さんもさきごろ病気で亡くなられたのを新聞で知った。

 ボクシング界には惜しい人をなくしたものと思う。

 不良少年→ヤクザ→刑務所→社会復帰、そして後年は社会正義を信じて誠実に生き抜いた人。波乱に富んだ黒田さんの一生だが、老境を楽しむその表情はまことに柔和で、美しかった。

 人は若いころどんな苦労を積んでも精神さえしっかり持直せば、決して不幸に終るものではないことを知った。
月刊ボディビルディング1969年4月号

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