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ボディビルと私
私の心臓ボディビル

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月刊ボディビルディング1969年4月号
掲載日:2018.02.17
国際プロレス社長 吉原 功
記事画像1
昭和43年日本ライト・へビー級チャンピオンとなる

昭和43年日本ライト・へビー級チャンピオンとなる

吉原 功氏(38才)

 早大出身、学生時代アマ・レスリング選手として活躍、常に上位に入賞、卒業後プロ・レスリングに転向。当時力道山傘下の日本プロレスで、唯一のアマレス出身者として俊敏な身のこなしと、優秀な技術を誇り、ライト・へビー級のチャンピオンとして君臨した。

 その後選手生活から引退、営業部長として手腕を発揮したが、既成のワクにあきたらず国際プロレスを創設。TBSとタイアップして「スピードと高度なテクニック」をモットーの、新しいプロレスを育て上げるべく努力中である。

 玉利理事長の大学の先輩にあたるのでレスリング、ボディビル両界の発展にたがいに助
け合っている。
 はじめにお断りしておくが、私はボディビルの専門家ではない。門外漢である。だから私の原稿を読んで、怒る方もいられるかもしれない。しかし私は私なりに、ボディビルを理解し、咀嚼しているつもりだ。こんな考え方をしているヤツもいる、と笑って読み流していただければ、幸いである。

 私が、はじめてバーベルを手にしたのは、22年、旧制早稲田大学第二高等学院に入学した年だった。それも、ボディビルのためではなく、レスリングのためのウェイト・トレーニングとしてだった。

 それ以来私はバーベル、ダンベルと親しんできているが、一度も、見事な肉体を作るため、と思ったことはない。観賞用の肉体美は、私には必要ではなかった。

 私に必要だったのは、レスリングのための筋肉と、丈夫で長持ちする心臓だった。レスリングをやめた今では、心臓のためにバーベルを握る。だから、私のボディビルは「心臓ボディビ
ル」だ。

 私の生まれたのは北海道夕張町(現在は市)で、父が炭鉱を経営していたため、小学校は転々と変り、樺太にも長くいたことがある。

 転校生というのはいじめられるものだが、幸い私は図体も大きく、おとなしかったので、そういう経験はない。大きいことはいいことだ。

 ケンカはしなかったが、腕力にも自信のあった私は、だから、他人の肉体に羨望を感じたこともなかった。この点は、大きく生んでくれた両親に感謝している。

 中学は埼玉県浦和中学。ここでからだをみこまれて柔道部に入った。途中、疎開で盛岡の北上中学に転校したが、終戦で浦和に帰り、卒業した時は三段だった。早稲田でも柔道を続けたかったが、当時は大学柔道は禁止されていたため、レスリング部に入った。

 部の大先輩風間栄一氏の、動くギリシャ像のような肉体美にひかれたのが、レス入門の直接の動機だから、私のボディビルに対する目は、この時に開かれたといってよい。

 部の道場におかれたバーベルに連日取り組んだのも、レスが強くなるためばかりでなく、風間先輩のような体になりたい、という意識が心の底にあったのだと思う。

 27年、早大第一法学部を卒業した私は、東洋製鋼に入社した。堀留支店の総務課勤務。人生は面白い。堀留支店でなかったら、私の一生も違ったものになっていたろう。

 25年から5回連続して、私は国体アマレスの埼玉代表として出場したが、会社にレスリング部はなく、練習は昼休みと勤務後に、1人でしなければならなかった。

 堀留支店のすぐ近く、日本橋浪花町にあったリキ・ジムに私は通った。相手はなく、もっぱらウェイト・トレーニングだった。

 そんな私に目をつけた力道山に誘われ、私はプロレスの世界にとびこんだのである。

 当時のリキ・ジムは、力道山をはじめ、東富士、遠藤、駿河海、阿部、金子、宮島、藤田山、豊登、芳の里と、力自慢がそろっていた。

 身長1・73㍍、体重79㌔、胸囲1・10㍍の私のライバルとなったのは、レスラーとしても小柄な芳の里だった。

 重量挙では、まず私が芳の里を抜き、途中で一度抜かれ、最後にまた抜きかえしている。

 いま芳の里は日本プロレス、私は国際プロレスの代表として、おたがいにしのぎをけずっている。淳ちゃん(芳の里)とはもっとも手の合う仲だっただけに、この競争にも負けられない。

 現役レスラー時代の私は、ウェイト・トレーニングのお陰で、体重96㌔、胸囲1・30㍍にまでなった。はじめてバーベルを握ったときより、体重が26㌔、胸囲が30㌢以上もふえている。

 だが私のトレーニングは、コンテスト用の肉体美を作ることではなかったから、レスに不必要な筋肉は一切つけなかった。だから、コンテストに出たら、あっさり落選するだろう。私は、それでいいのだと思う。

 私のところのストロング小林(省三)は、ボディビルダーあがりだ。入門時は、素晴らしい肉体美だった。だが、いまはちょっと変っている。動きに柔軟性とスピードをもたせることに重点をおいてシボッたため、レスに不必要な筋肉は落ちてしまったのである。

 しかしボディビルダーのレスラー転向は、成功する可能性が多い。すでに十分な肉がついていることと、なによりも、根性ができているからだ。

 ボディビルは地道な反覆練習の築きあげだ。派手さも、勝負の興奮もスリルもない。自分自身との戦いの連続である。この地味な努力をつづけられる人に浮わついた考えはない。努力だけが自分を向上させることをからだで知っている人は、プロに入れば、立派なプロ根性の持ち主として通用する。

 私は、若い人たちに、大いにボディビルをすすめたい。私はいまでも、ひまを見つけては「心臓ボディビル」に励んでいる。人間の最大の資本はからだだ。素晴らしい肉体美を作る前提として、健康とド根性が身につくボディビルが、現在以上に普及していくことを望んでやまない。
ダンベルを使ってトレーニングに励む筆者

ダンベルを使ってトレーニングに励む筆者

月刊ボディビルディング1969年4月号

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