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今月の主張
三島由紀夫氏のボディビル観について

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月刊ボディビルディング1971年3月号
掲載日:2018.02.06
JBBA理事長 玉利斉
私は先月号の主張で、三島氏の追求したボディビルについて私感を述べたが、今回は生前三島氏が、一番率直に自分が表現されているとして、自分を理解したいのなら、この書を読むべきであるとした〝太陽と鉄〟から三島氏の文章を引用して、さらに三島氏のボディビル観を述べてみたい。
――ずっとあとになって、私は他ならぬ鉄と太陽のおかげで、一つの外国語を学ぶようにして、肉体の言葉を学んだ。それは私のセカンド・ランゲッジであり、形成された教養であったが私は今こそその教養形成について語ろうと思うのである。それは多分、比類のない教養史になるであろうし、同時にまた、もっとも難解なものになるであろう――
つまり、言葉の世界だけに生きていた三島氏が、現実のまばゆい太陽と、肉体形成のためのボディビルによって如何に生命の実在感を獲得していったかを語っているわけだ。

――鉄塊は、その微妙な変化にとんだ操作によって、肉体のうちに失われかかっていた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべき姿に押し戻す働きをした
近代生活においては、ほとんど不要になった筋肉群は、まだ、われわれ男の肉体の主要な構成要素であるが、その非実用性は明らかで、大多数のプラクティカルな人々にとって古典的教養が必要でないように、隆々たる筋肉は必要でない。筋肉は次第次第に、古代ギリシャ語のようなものになっていた
その死語を蘇らすには、鉄による教養が要り、その死の沈黙をいきいきとした饒舌に変えるには、鉄の助力がいるのだった。

鉄が私の精神と肉体との照応を如実に教えた。すなわち柔弱な情緒は、柔弱な筋肉と照応しており、感傷は弛緩した胃と、感受性は過敏な白い皮膚とそれぞれ照応していると考えられたから、隆々たる筋肉は果敢な闘志と、張り切った胃は冷静な知的判断と、強靭な皮膚は剛毅な気性と照応している筈であった。
念のために言っておくのが、私は一般に人間がそういうものだと言おうとしているのではない。私の乏しい観察によっても隆々たる筋肉が、弱気な心を内に蔵している例は枚挙にいとまがなかった。
ただ前述したように、私にとっては肉体よりも先に言葉がきたのであるから、果敢、冷静、剛毅などの言語の呼びおこす諸徳性の表象は、どうしても肉体的表象として現われねばならず、そのためには自分の上に、一つの教養形成として、そのような肉体的特性を賦与すればよかったのである――

この文章によって、如何に三島氏が精神の理想と一体になった姿としての逞しい肉体を求めていたかが理解される。三島氏は生前よく〝青白い頭でっかちは大嫌いだけど、頭のない体でっかちはもっと嫌いだ〟といっていたがそこに、精神性の豊かさと、行動性に満ちた逞しい肉体の二つを、さながら車の両輪のように求めぬいていたわけだ。
さらに、次の文章は高い精神と逞しい肉体を具えた三島氏のあの壮絶な死を暗示していると思うのは私一人ではあるまい。

――私にとって、時が回収不能だということは、直ちに、かって遂げられなかった美しい死が不能になったことを意味していた。あまつさえ私はこの10年間に力を学び、受苦を学び、戦いを学び、克己を学び、それらすべてを喜びを以て受け入れる勇気を学んでいた――
私はなにも三島氏と同じ生き方をしろといっているのではない。三島氏の生き方や、あの行為は、三島氏の天才や環境があって始めて無限の意味を持つものだと思う。
しかし、1人の男性が、あくまで誠実に、しかも真剣に自分の内的熱情を追い求め、そして、現実にその内面性を確立しようと必死の努力を続けたことは、全ての人に否定することのできない説得力をもつものと信ずるものだ。
精神の輝やきと、力に満ちた肉体を二つながら具えたボディビルダー群の誕生を心から期待したい。
月刊ボディビルディング1971年3月号

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