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ボディビルと私 ~ ボディビルと共に15年 ~

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月刊ボディビルディング1969年7月号
掲載日:2018.03.03
日本ボディビル協会副会長 松 山 巌
(大阪ボディビルセンター代表)
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 生まれた時から今日まで、私は、人から“趣味として何が一番好きか”と問われると、躊躇なく“スポーツ”と答える。学生時代を考えてみても、勉強した記憶よりもスポーツに熱中した記憶の方が遥かに鮮明である。スポーツの盛んな和歌山で青少年期を過したというせいもあって、あらゆるスポーツに熱中した。

 野球が得意だったし、遠泳(当時はクロールの競泳などなく、水泳の花形は浜寺での10マイル遠泳だった)ではゆうゆう15キロを泳ぎ水練場で教師をしたこともある。柔道は少年時代から武徳会に通い中学時代すでに2段であり、相撲は、堺大浜での毎日新聞社主催の全国学生相撲(今の大阪府立体育館で行なわれている大会の前身)に学校代表として出場したこともある。

 そんな私であったから、社会に出てからも、何より体を動かして働くのが好きで、一日としてじっとしていたことはない。机に向っての仕事がしばらく続くと、戸外に出てキャッチボールなどをして肩の凝りをほぐすのが常だった。そういう私が、今こうしてボディビルと共にあることは決して偶然の結果とは思えない。

 昭和12年、日本は国を挙げての戦に入り、私も2度出征した。終戦で復員して来ると、私の住んでいた大阪は、数度の激しい爆撃で見るもむざんな瓦礫の街となっていた。そして、敗戦で過去のすべてがご破算となった日本の揺れ動く世相の中で、人々は茫然自失し、そのあとに来た混乱の中で、何かを見付け何かにとりつこうともがいていた。私もまた例外ではなかった。

 当時私は、海軍の監理工場である一軍需会社の専務取締役であったが、180度転身して、見渡す限りの焼野原であった心斉橋で昭和20年暮に“ビフテキととんかつの店”を開いた。すべての物資が欠乏していた時ではあり、私の店はしろうとの経営ながら面白いほど繁昌した。

 しかし、私の腹の中はそれで満足はしていなかった。何かもっと自分に似つかわしい仕事がある筈という気持が絶えず心の底に流れていたのである。

 折しも昭和29年、新しく台頭したボディビルの波が日本に上陸した。スポーツへの帰心やみがたかった私の関心を強く引いた。敗戦の影響で意気上らぬ日本の青年達に、このボディビルで体を鍛えることを覚えさせ、そこから生まれる自信によって、精神的に立直らせるにはこれだ、と思った。

 畏友葉室鉄夫氏(ベルリンオリンピック平泳ゴールドメダリスト、現毎日新聞編集委員)、谷口勝久氏(現毎日新聞大阪本社運動部長、日本ボディビル協会副会長)に相談した結果、両氏から鼓舞されて、昭和30年12月“大阪ボディビルセンター”を開設した。大阪では勿論、西日本でも一番早かった。こうして私のうまいものづくりは、青年の人間づくりに変ったのであった。

 やがて、関西にもあちらこちらにジムができはじめ、間もなく、前記の谷口勝久氏の肝入りで関西ボディビル協会(後の全日本ボディビル協会)が設立され、会長には大日本相撲協会東西会々長中村広三氏(現日本ボディビル協会最高顧問)を迎え、理事長には不肖私が就任した。

 それ以後の私は、自分のジム運営は二の次となり、文字通り“よろこびも苦しみも協会と共に”の生活であった。だから、私が“ボディビルと私”の文を書くに当っては、私と切っても切れぬ因縁の関西のボディビル協会のことを書かなければ全く書く意味がない。

 さて、その頃は「ボディビル?それはいったい全体何ですか」と大方の人が云う時代であった。だから私の仕事は何よりも“ボディビル”の何たるかを周知させることに集中した。周知させる方法としてコンテスト其他色々の行事を行なった。
大阪ボディビル・センター練習場内

大阪ボディビル・センター練習場内

 今から思えば実に隔世の感のある第一回コンテストであったが、私は、第一回のコンテストで“ボディビル”に対する人々の好奇心のまじった関心の手ごたえをはっきり感じることができた。

 それからは明けてもくれても“ボディビル”を知ってもらうことに専念した。そしてその効果は徐々にではあるが確実に現れつつあった。

 しかし、コンテストその他の仕事をするには常にいろいろの苦労がつきまとった。金集めがむずかしかった。“ボディビルとはどんなことですか”と云われる時代にスポンサーは容易につく筈はなかった。

 今のボディビル界とは、隔世の感のあるボディビルの、日本に於ける創世記の時代の話である。こういう時に毎日新聞の変らぬ後援と、中村会長の社会での実績が大きくものを云った。この二つと理事諸君の熱意と協力が協会の推進力の源であった。

 コンテストは年々困難の中に引続いて行なわれた。全国のビルダー達からの反響は徐々に大きくなり、私を勇気づけた。年を追ってコンテストの規模は大きくなり、出場者の層は充実し、数も質も上昇していった。

 1966年(昭和41年)初めて日本から外国のコンテストへ代表を送った。1965年ミスター全日本のタイトルを得た小笹和俊君(福岡)をニューヨークでのミスター・ユニバース・コンテストへ送り、小笹君はショートマンクラスの2位を獲得したのである。

1967年(昭和42年)今まで併立してボディビルの普及に努力してきた二つの協会ーー日本ボディビル協会と全日本ボディビル協会ーーの一本化が行なわれ、私は新しい日本ボディビル協会の副会長になった。

 以上は、私とボディビルとの因縁の極めてラフなアウトラインである。いろいろなエピソードや裏話は山ほどあり、とても限られた紙面では書きつくせない。別の機会があったら書いて見たいと思っている。

 二つの協会が競い合っていた頃には、それはそれなりの意義もあり、よさもあったが、こうして一つの協会となり、東京と大阪で交互に日本コンテストが行なわれている現在は、また、すっきりとしたよさがある。

 只、私が心中深く考えていることは日本で一つの協会となって、競争相手がなくなると共に、協会が“眠れる獅子”となってはならないということである。スタッフ(勿論私も含めて)は須らく今まで以上の努力をして実のある活動をせねばならぬと考える。

 最後に、私のジムのことを少しく書き加えたい。開設以来15年約6500名の入会者があり、現在も熱心な会員達が毎日トレーニングにはげんでいる。私自身はもう自分でトレーニングをする年歳でもないので、専ら育成が仕事である。

 至らぬ乍らもボディビルを通じて数多くの青年達に、身体の鍛錬と共に精神の鍛錬をも教えたつもりである。ボディビルを通じて、私のジムの素朴で純真な会員達とは勿論のこと、全国諸々方々のビルダー諸君と私の間に折にふれ時にふれ、温い心のふれ合いがあることは私にとってこの上ない喜びである。

 男らしくたくましくなった彼らが、人間らしい誠実さを示してくれる時が私の一番仕合せな時である。15年前をふり返り、私の貧しい努力が無駄でなかったと思うのはこういう時である。15年前の私の希望は美事に実現した。最早“ボディビルとは何ですか”と尋ねる人はない。街では、たくましい若者を見ることが珍らしくない。終りに、私の心の中の一つの願いを述べてこの文を終ることにする。

 ビルダー諸君よ、身体を鍛えるときは心も鍛え磨くことを忘れないでほしい。立派な肉体は、立派な精神を包むための衣である。鍛え上げられた身体の上に、青年らしい清潔な知的(必ずしも学校教育の所産を意味しない)な顔があってこそビルダーは初めて立派なのであるから
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月刊ボディビルディング1969年7月号

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