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ボディビルと私
不毛の地”北海道”に花を

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月刊ボディビルディング1971年9月号
掲載日:2018.02.09
札幌トレーニング・センター
山田 清治
記事画像1

名前すら知らなかったボディビル

 昭和39年、上京間もない頃、学校の帰りみち、偶然通りかかった後楽園ジムをのぞいて、はじめは一体何という名のスポーツなのかと不思議に思った。なにしろ、それまではボディビルという名前すら知らなかった。
 そのとき私が入門するのは、かなり決心のいることだった。なぜなら、目の前にいる筋肉隆々とした人達を見て私の身体はガタガタにされはしまいかと……(今でもこのときのことを思い出して苦笑している)心配したものだった。
 そんな私も数ヵ月後には、最初の不安もどこへやら、すっかりボディビルの虜となってしまった。しかし、今から考えると、私の練習方法は無茶苦茶だった。学校の帰りは連日ジムに出かけ、ときには5時間、6時間をこし、手には血マメができるほどだった。インクライン・ベンチで100キロを上げることができるようになったものの、自分では、大胸筋を発達させようとしているのに、上腕三頭筋ばかり発達してしまうというありさまだった。
 それでもまだもの足りず、三畳のアパートのー室にバーベルを持ち込み、家主を驚かせた。

札幌で1人トレーニング

 しかし、2年後には、それほどまでに私を夢中にさせたボディビルと一時離れなければならなかった。学校を卒業して郷里である札幌に帰ることになったからだ。そのころ札幌にはボディビルのための施設がまだなかった。私は使いなれた70キロのバーベルを札幌に持ち帰った。
 仕事を終って自宅でバーベル1本相手に単調なトレーニングをすることは設備と仲間のあった在京中ほど熱がはいらなくなった。
 こんなとき、毎月送られてくる機関紙「強く逞しく」は、私にとってどんなに大きな励みになったことか。とくに、在京中一緒に練習した先輩や仲間たちが載っているのは大いに刺激となった。そして、給料の大部分を器具につぎこむようになった。(この頃集めた器具が、後に札幌トレーニング・センターに使うことになるとは考えてもいなかった)
 昭和41年、私は始めて全日本ボディビル・コンテストに出場した。ボディビル歴2年半の私は、長年鍛えた人たちにはとても及ばず、予選で敗れた。

ボディビルの仲間を知る

また札幌にかえって1人練習を始めた。仕事のあとで、ワザワザ重いものを持ち上げて、汗を流している私をみて、家族や近所の人は、初めはなかなか理解できなかったらしい。
 やがて、私にとって非常にうれしいことが起った。それは、市内に総合体育館が完成し、そこの重量拳教室で、器具と場所を使うことができるようになったからだ。もともと重量拳が目的であるから、ボディビル専門とはいかなかったが、何より自分と同じボディビルの愛好者と知り合うことができたのは心強いかぎりだった。
 自宅の片隅で、1人でトレーニングするのとちがい、ボディビルを愛し、理解する人と話し合うだけでも楽しい。
 しかし、私達にとって共通の悩みはボディビル専門の施設がないことだった。あるときは倉庫の片隅で、あるときはスポーツ・サウナで、まるで渡り鳥のように転々としてトレーニングを続けた。
 人口も百万となった札幌に、いままでボディビル・ジムが1つもなかったのは、冬が長く、夏が短い北海道の地理的条件が影響しているのではないかと思う。
 秋から冬、春にかけて鍛えた身体を夏、海に出かけて太陽をいっぱい浴びながら、力一杯泳ぐことは本当に楽しい。だが北海道の場合は、この楽しい夏も1ヵ月たらずで、せっかく鍛えた身体も、間もなく寒風の前に、ぶ厚い防寒服でおおってしまう季節がきてしまう。こんなことがボディビルの発展を遅らせている原因ではないかと思う。
 しかし、雪におおわれ、家にとじこもり、運動不足になりがちな冬の道民にとって、室内で簡単にできるボディビルこそ最適なスポーツではないだろうか。

札幌トレーニング・センター誕生のキッカケ

 昭和44年、私に一つの朗報がまいこんだ。私たちが自宅の横でトレーニングをしているのを見て近所の人が、1、2年だったら空いている倉庫を使ってもよいというのである。そして、これが北海道で最初の本格的ボディビル・ジム誕生のキッカケとなったのである。
 しかし、倉庫を見に行って、これがジムになるだろうかと、極めて前途多難であることが一見してわかった。倉庫とは名ばかりで、電気もなければ、水道もない。それだけならまだなんとかなるが、天井も壁も、そして床までもひどい荒れかたで、私が想像していた以上にひどいものだった。
 幸いにボディビルの器具は帰郷以来少しずつ集め、一応一通りそろっていたからそれを使うとして、差し当り倉庫の補修費用が問題であった。会員の応募可能性を考えると、果して収支成り立つのであろうか。ボディビル仲間もみんな相談にのってくれた。
 そして結論は、できるだけ仲間でやり、どうしても素人にできないところだけ本職に頼むことにした。ペンキ塗り、看板づくり、器具の取り付け、はては少しでも工事費を安くしようと、便所の穴掘りまでした。私をはじめ、みんなそれぞれ職業をもっているのでこれはすベて夜の作業であった。
 しかし、工事の途中で予想もしなかった問題も生じた。隣の住人からの苦情である。工事がすすむにつれて、器具が運びこまれるのをみたのだろう。
 彼らは何事が始まるのかと目を白黒させて驚いたにちがいない。
 鉄の輪(プレートも彼らにはそう見えたであろう)や鉄棒を見て、鉄工場でもつくると思ったらしい。私はていねいに説明したが、どうやら重量挙げと感ちがいしているらしかった。テレビでバーベルをドスンと落とすのを見ているらしく、あれを毎日やられてはかなわないという。いやごもっともである。
 私は彼らを納得させるには、目のあたりにボディビルを見せるのが一番早いと思い、さっそく、実際にやって、この通り静かなものであることを示した。それでやっと納得したらしく、それ以後今日まで何もいってこない。

ついに念願かなう!

 こうして昭和44年8月1日、待望のボディビルのための本格的施設が、道内で初めてここに誕生したのである。
 しかし、会員は今まで倉庫でやってきた8人の仲間以外は、すぐには集まらなかった。それは、この場所が市の繁華街から離れた場所にあり、しかも大工場の構内路に面していて人目につかなかったからだ。
 そこで私のとった唯一の宣伝は、ポスターだった。それも仲間がそれぞれの自宅や、勤務先や、電柱や街頭にはってくれた。だが、このわずかなポスターも少しずつ人目にとまり、1人、2人と新入会員も入ってきた。
 北海道ボディビル協会が設立されたのは、私の札幌トレーニング・センターの会員が50〜60人に達した昨年6月であった。北海道ではいまだにボディビルについての正しい理解が欠けている。いや、むしろ名前さえ知られていないといった方がよい。広く正しいボディビルを普及させるためには、どうしても協会という大さな組織が必要だった。

北海道協会設立のメンバー

 ここで、私の仲間や、先輩で北海道協会の創立者たちをご紹介しなければならない。本稿は「ボディビルと私」となっているが、むしろその内容は「ボディビルと私たち」とした方がふさわしいと思う。
 理事長の伊藤さんは、すばらしいプロポーションの持ち主です。理事の阿部さんは、腹筋のデフィニションでは道内No.1です。谷口さん、この人は重いものを持って行なうバー・ディップスでは彼の右に出る者はいません。また、西田さんは、北海道のレッグ・ルイスといわれる人です。最後に斎藤さん、このまま発達していくと、顔といい体つきといい、フランク・ゼーンそっくりになることでしょう。
 この方々のご協力によって、北海道協会が設立され、現在、小樽・江別・士別・名寄・函館等の各地でも、着々と正しいボディビルの普及が行なわれている。協会としての初めての活動は、第1回北海道ボディビル記録会の開催だった。昨年8月、道内各地から多数の選手が参加し、日頃鍛えた体力を互いに競い合った。道内から数多くの優れたスポーツ選手が輩出していることを考えると、やがて、この中からミスター日本が生まれるものと確信している。
(昭和46年1月寄稿)
ジムの会員と筆者(前列左から2人目)

ジムの会員と筆者(前列左から2人目)

月刊ボディビルディング1971年9月号

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