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◇私の指導法◇
体づくりの過程において社会に役立つ人を養成したい

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月刊ボディビルディング1971年11月号
掲載日:2018.06.26
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三幸ボディビル・センター代表  長岡 昭四郎

"はじめに"

 私の体を見たらボディビルの指導者などというのは、おこがましいと言う人がいるかも知れない。が、あえてこの稿を引き受けたのには2つの理由がある。1つはオーナーとしての立場である。それ自体、啓蒙という大きな役割があるということである。もう1つは、体づくりの過程における会員たちの心がまえである。つまり、指導というのは肉体の創造だけではないということである。

"なぜジムをはじめたか"

 私は35才でボディビルをはじめた。このくらいの年令になると、運動を心がけなかった人は、必ずといっていいほど肉体に欠陥が出てくる。ボディビル歴15年のベテランだった三島由紀夫氏は、「私はこの危機をボディビルで乗り切った」と、玉利前理事長との対談で語っていたが、私の場合は、この危機がギックリ腰というかたちであらわれたのである。

 それまでは私自身、肉体の欠陥とか衰えについては、まったく自覚症状がなかった。秋になって気候もいいことではあるし、少しは戸外へ出て運動をしようと、気まぐれに縄とびをはじめた。ふだんはほとんど1日中椅子に腰かけて仕事をしており、脂肪ののりはじめた重たい体で、いきなりこれをやったのがいけなかった。100回くらいとんだときに、腰に少し鈍痛を感じたので、すぐ止めたのだが、家の中に入ってしばらくようすをみたがますますおかしい。そして、夜中になって寝返りをうとうとすると、はげしい痛みとなっていた。運動不足からくる肉体の衰えが、こういうかたちであらわれたのである。

 これと前後して、もう1つの肉体の衰えを感じていた。これは、下品なことのようであるが、実は一番大事なことかも知れないと思い、あえて書き加えることにする。つまり、朝マラが立たなくなったのである。"朝マラは小便までの寿命かな"と、若いときはそれが当然のことで、特別の意味など考えなかったが、この頃の私は、たとえ朝がたになって小便はハズんでも、マラの方は知らん顔でネンネしているではないか。これが健康のバロメーターであることを、この期になってしみじみ感じたのである。

 こうしたとき、ある遇然のきっかけでボディビルをはじめることになったのであるが、この遇然は本稿では関係ないのではぶくことにする。

"休養もトレーニングのうち"

 ボディビルをはじめてから半年くらいして私はボディビル・ジムをつくった。何事もはじめると夢中になる性質の私は、損得の勘定を忘れてジムづくりに猪突猛進した。そして、ようやく昭和42年2月1日オープンしたのであるが、それから3カ月目に最初の大きな事故に直面した。

 これより2.3年前であった。ある会社のボディビル・クラブ員が、登山のあとの疲労にもかかわらず、無理な練習をやって事故を起こしたという新聞記事を読んだ記憶があった。

 私のところで起きた事故も、連日仕事で夜おそくまで無理をしたあと、疲れた体でトレーニングをやって事故となった。この会員には、もともと体に欠陥があったのだが、やはり、直接の原因は無理をしたということにあった私はこのことがあってから、"絶対安全"こそ指導の根本原則であるという大きな教訓を得ることができた。

 先日も肩が痛いという会員の訴えを聞き、「今すぐ休めば1週間で治るがこのまま続ければ1カ月も2カ月もかかる」と教えた。彼は素直に休み、1週間後に完全に治りましたと元気な姿を見せてくれた。

 肩の痛みにもいろいろな原因があるが、技術的にまちがった運動をして痛める場合も案外多い。これらはコーチが適切な指導をすれば危険はさけられる。私が休ませた青年の場合は、そうした故障ではなく、ただの疲労であったが、いずれにしろ故障したときは、まず休養をとり、そのつぎに原因を究明するようにしなければならない。これも"絶対安全"の1つである。

 今や影の売れっ子、身長2メートル体重120キロのテレビ・スター大前均氏も、当センターの会員で、もう2年ほどトレーニングを続けている。大兵肥満の彼は、ボディビルをはじめる前は、糖尿病のケがあると医者の注意を受けていた。甘辛両党の大食漢であれば当然といえよう。ところが、いつの間にかこの難治といわれる糖尿病も治ってしまったと、彼はしきりにボディビルの効用を礼讃している。

 また、都交通局の練馬車庫では、3年ほど前にボディビル・クラブをつくり、当センターの斎藤コーチの指導を受けているが、その中で私が一番嬉しかったのは、力がついたとか、筋肉がついたということよりも、医者から高血圧と診断された人が、トレーニングをはじめてから血圧がさがり、正常になったということを聞いたことであった。これなどは、ボディビルは"絶対安全"に行なえば病気も克服できるという1つの教訓ではないだろうか。

"自彊不息"

 私がジムをつくる少し前に、ウエザヒル出版から「体道」というビルダーの写真集が出た。内容については、いろいろの議論はあったが、この本に冠せられた「体道」という名前については、私はボディビルを日本流にした大ヒットだと思っている。

 柔道・剣道と並べて体道という言葉があっても少しもおかしくはなく、むしろ、芸術家の孤独な作業に似て、精神においては柔道・剣道以上に、より透明なものを感ずるのである。

 本誌ボディビルディング創刊号が、昭和43年6月発行になったが、その号で私のジムが紹介された。その記事の中にこんなことが書いてある。

 −−事務所で会長の長岡昭四郎氏にお目にかかったとき、いささかとまどった。ほおからあごにかけてはやしたヒゲのせいではない。なにげなく見上げた正面の壁に、墨蹟もあざやかな三島由紀夫氏の額入りの書がかかっている。なるほどと思った。「お目にとまりましたね。三島氏とは面識はありませんが、人を介して手に入れました。私は‥‥」−−

 この三島由紀夫氏の書を手に入れたいきさつは次のようである。

 ジム開設後間もなくおとずれた大山雄将氏(昭和34年度ミスター日本5位当時19才)が、後楽園で練習しているころ三島氏と親しく、その後でも会えば「大山君に教わったレッグ・レイズあれはいいよ」といつも言っていたという。その大山君が、ずっと私のジムで練習するようになったのだが、43年の正月、三島邸の新年会に呼ばれた折私のためにもらってきてくれたものである。

 私の期待していたのは、文士として有名な三島由紀夫氏の書ではなく、15年のキャリアのあるビルダーであり、かつ文士としての三島氏の書であった。

 私の期待はうらぎられなかった。色紙には"自彊不息"と書いてあった。

 自ら彊(つと)めて息(やす)まず、この言葉の意味は辞書をひけばわかるのではぶくが、あらゆるスポーツ、すべての人の人生にあてはまる言葉であることはいうまでもない。

 20才も半ばを過ぎると、もはや運動不足をなげく人のいかに多いことか。それでいて、いざはじめると三日坊主もいいところである。一度でダウンしてしまう意志の弱い人もいる。こんなことで運動不足は解消するものではない。

 通勤・勤務等の勤という字はツトメルとも読む。サラリーマンの出勤をオツトメに行くという。生活のためのオツトメをするばかりでは、やがて体も参ってしまう。ついでに運動もオツトメをして健康を得ることも生活の一部ではないだろうか。しかも、この健康のためのオツトメは、仕事に比べれば金銭欲も栄達もなく、さらに一部の人を除けば競技性もない、あるのはただ自分だけの運動である体道=ボディビルは、あなたに最も理想的ではないかと思う。

 体道=ボディビルは、数カ月もやれば、その目指すところがどんなものであるか自然に会得することができようその過程をどう指導するかが、コーチやオーナーの仕事である。

 技術的な指導もさることながら、運動への志向を高める仕事は、それにも増して大切ではないかと思う。ましてや新人においては。
三島由紀夫氏から贈られた色紙。

三島由紀夫氏から贈られた色紙。

色紙の文字をほり込んだメダル

色紙の文字をほり込んだメダル

"恋人を失った青年"

 交通事故で恋人に死なれてしまった若い会員がいた。

 事故の連絡を受けて収容された病院にかけつけたとき、無惨にも顔は引き裂かれ、それが彼女であることさえ見わけがつかないほどだった。もし、青年の贈ったネックレスがなければ、彼は信じられなかったかも知れない。

 彼女とは数年におよぶ交際で、すでこ結婚の日どりまでも決っていた。スピードの出しすぎ、ガード・レールに激突!−−この一瞬の出来事によって1人の人間を、恋人を失ったショックは次第に大きく彼の心を占領していった。

 病院の帰途、おさえかねる悲しみを抱いて彼は久しぶりにジムに立寄った語る彼の煩には幾すじもの涙が流れたこれが腕囲40cm、胸囲120cm、10年のキャリアを誇る彼の姿とは思えないほどのやつれかただった。私はそのとき言った。

 「悲しいときは穴を堀れば悲しみはうすらぐ、というコトワザがあるけれども知っていますか」

 「‥‥‥」

 「悲しいときは体を動かしていればそれだけでもちがうものです。心を静め、精神を集中してトレーニングをやりなさい」

 それから数旬、彼はほとんど毎日ジムへきて練習に打ち込んだ。肩を落して見るも無惨だった彼は、次第にもとのように立ちなおっていった。半年して、この地を離れることになった彼は最後のあいさつに訪れたとき、「あのときの言葉は一生涯忘れません」といってたっていった。

"山本周五郎の言葉"

 「生きていることはたいしたことではない。いかに生きようとしたかが大事なのだ」これは"樅の木は残った"の原作者、山本周五郎氏の言葉である。

 "樅の木は残った"は、かって歴史上では伊達藩の乗っ取りを策した大悪人とされていた原田甲斐を、身をすてて藩を守った忠臣としてえがいた画期的な小説である。ここに、いかに生きようとしたかを証明する山本周五郎のさむらい魂をみるような気がする。

 この言葉をおきかえるならば、ボディビルをやるだけでは意味がない。ボディビルを日常の生活のどの位置におくかが大事なのである。暴飲、暴食等不摂生をしながらのボディビルはナンセンスである。ただ、私ははじめからあれもこれも禁止するようなことはしない。ボディビルをやっている過程で自覚してもらいたいのである。そして少しでも享楽へのブレーキがかけられるようになれば、その人はさらに一歩ボディビルを解した人といってよい。私はこのように指導している。
トレーニングに励む会員たち。中央がテレビ・スターの大前均氏

トレーニングに励む会員たち。中央がテレビ・スターの大前均氏

"自らを律した会員には"

 私のジムでは、こうして1年以上ボディビルを続けた人には、三島由紀夫氏の色紙"自彊不息"の四字をほり込んだ記念メダルを贈呈している。

 このメダルは、銅・銀・金の3種類があり、1年続けた人は銅、3年で銀5年が金となっている。ジム開設4年で、すでに銀メダルを贈呈した人が十数名にも達している。これらの会員は私がとくいかなる精神訓話よりも、はるかに自らを律した優れた会員たちである。

"おわりに"

 私のジムでは、ボディビルに関する技術的な指導は、有能な斎藤コーチや古い会員たちによってすべて行なわれている。それで充分その責は果されていると思う。だが、精神的な面の指導となるとそう簡単にはいかない。いままで私が書いたことは、ほんの一部にすぎない。といって、これ以上論じるのは私の柄ではない。

 私がジムのオーナーとして、いつも考えていることは、ボディビルをやる過程において、あすの社会に役立つ人間を1人でも多く養成するという使命感である。

 私はいままでに何回か、個人的な理由によりジムを閉鎖しようと思ったことがある。だが、その都度、私に思いとどまらせ。私をふるい立たせてくれたのは、ほかならぬ会員たちのボディビルを愛する情熱であった。その意味では、私が会員を指導したのではなく逆に私が指導されたといってもいい。

 ボディビルをはじめて4年有余、私はどんな困難にもうち克つ勇気をえたボディビルとはそのようなものであるかも知れない。

心あたたまるお話
"芸は人の身まで助ける"

 都内の某ジムでトレーニングに励んでいるI君、まだボディビルを始めて1年たらずだが、過日の全日本パワーリフティング大会では、重量級で軽く上位に入賞してしまった。

 デフィニションはもうひと息だがバルクだけならミスター日本コンテストに出たって、まず、彼の右に出る選手はちょっと見あたらない。

 そんなI君、いつものように近所の銭湯で気持よさそうに汗を流していた。たまたま、隣に居合わせた鉄材会社の社長さん、I君の逞しい体を見てひと目ボレ。さっそく彼を自分の会社にスカウトしようと考えた。

 「どうですか、私の会社で働く気はありませんか? 給料はうんとハズみますよ」

 I君、だいぶ気持が動揺したことは事実である。なんせ体重は90㌔以上もあり、食べ物は人1倍かかるし洋服にしたって既製服じゃあマに合わない。といって、いま勤めているところは、お堅い役所、大幅な昇給なんて望む方がムリというもんだ。いまもらっている給料じゃあ食っていくのがやっと。これ以上栄養をとろうと思えば足がでてしまう。

 しかしI君、いろいろ考えあぐんだ結果、やっぱり社長さんの勧誘を断わることにした。

 この話を聞いたのが、同じジムでトレーニングをしてるW君。近い将来、必ずミスター日本になってやるんだと、いま懸命にトレーニング中だが、なにぶん、I君と同じく、いまの給料では充分に栄養をとることができない。

 まだ年は若いし、思いきって、いっそここらで転職して、心いくまでボディビルに打ちこんでみようと、I君を通して、くだんの社長さんに面接を申し込んだのである。

 もちろん、その結果は合格。

 いまW君は、新しい職場で元気に働きながら、あすのミスター日本を目指してトレーニングを続けている。

 "芸は身を助ける"というコトワザがあるが、"芸は人の身まで助けた"という心あたたまるお話でした。
月刊ボディビルディング1971年11月号

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