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ボディビルと私
柔道・レスリング そして、ボディビル
ジム建設の一番の理解者だった父が上棟式の前夜に急死

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月刊ボディビルディング1979年11月号
掲載日:2018.06.25
ファイティング・ボディビル・センター 会長 温井国昭
記事画像1

自己流のトレーニングで効果なし

 私が始めてボディビルを知ったのはたしか昭和30年だったと記憶しているちょうど第1次のボディビル・ブームのときである。

 その当時、私は日大二高に通っており、柔道に夢中だった。体格はどちらかといえば小さいほうであったが、運動神経は発達していて、2年生のときは2段になっていた(現在は3段)。そして、将来は自分の人生を、この柔道に賭けてみようなどと考えていたものである。

 ところがある日、書店でなにげなく見た1冊の本で、私のいままでの考えは大きなショックを受け
てグラツキ始めた。その本とは、当時プロレスやボクシングなどの格斗競技やボディビルなどを専門に載せていた"ファイト"誌である。

 私はこの本を見るまで、こんな素晴らしい肉体美を見たことがなかった。「どんな練習をすれば、このような見事な体になれるのだろうか?」、「私も練習すれば、こんな逞しい肉体美になれるのだろうか?」。私はしばらくの間そのことばかり考えていた。

 体が小さく、体力もなかったので、あれほど夢中になって練習しても、柔道の力はある程度の限界までくると、それ以上はほとんど伸びなかった。いつも自分の体にコンプレックスをもっており、何とかして体力をつける方法はないものかと、常日頃考えていた私は、ちゅうちょなくボディビルにとびついた。

 しかし、当時は練習したくても近くにジムもなく、また運動具店にもバーベルなどの専門器具は置いてなかったそこで、やむなく竹の両端に石を縛りつけた手製のバーベルをつくり、さっそくこれで練習を開始した。

 ところが、いくら練習をしても、私の体には何の変化も起こらなかった。そして、「自分には素質がないのだろうか?」などと考えたりした。しかしいまになって考えてみると、まったく幼稚な方法で、これでは効果を望む方が無理だった。トレーニングといっても、せいぜいカールとツー・ハンズ・プレスのような方法を自己流で繰り返しているに過ぎなかった。

 「ファイト」誌で見た逞しい体にあこがれて、あれほど意気込んで始めたボディビルではあったが、3カ月後にはついに断念してしまった。そして、体は小さくても、神技とも思えるような切れ味で大の男を投げとばした三船十段を夢見て、再び柔道にはげむことになった。
高校時代、トリ(投げている方)が私

高校時代、トリ(投げている方)が私

大学時代、スマートな方が私

大学時代、スマートな方が私

柔道からレスリングに転向

 高校を卒業し、日大に入学して間もなく、私は柔道からレスリングに転向することにした。と、いうのは、高校時代とは段違いに、体の大きい連中が大学の柔道部にはウヨウヨしていた。これではいくら猛練習をしても、一流選手になることは不可能と考え、体重制のあるレスリングをやることにした。

 いま、88kgもある私からは想像できないかもしれないが、当時は63kgしかなくフェザー級であった。ものごとに熱中する性格の私は、それからというものは、レスリングの練習と試合に明け暮れる日が続いた。

ボディビルの効果を再発見

 それはたしか大学3年生のときのことである。やはり私と同じように体の小さかったレスリング部の同僚が、少しずつではあるが、体が大きく逞しくなり始めたのに気がついた。不思議に思ってわけを聞いたが、彼はどうしても教えてくれなかった。

 そのころ私は、彼の行動に不審を抱いた。いままではレスリングの練習が終わると、いつも一緒に帰途についたものであるが、最近の彼は、ときどき別行動をするのだった。

 この別行動に何か原因があるのではないかと直感した私は、しつこく彼をつけ廻した。そして、彼がひそかにボディビル・ジムに通って、トレーニングをしているのをつきとめた。

 しかし、考えてみれば、私も自己流ではあったが、すでにボディビルを経験しており、そのときはほとんど効果がなかったのだが・・。あるいは私の練習方法がまちがっていたのではない
か? 私は意を決して同僚に頼んだ。

 そこはさすがスポーツマン。彼は気持よく私を世田谷区の日本ボディビル会館に連れていってくれた。入会当時の私の体格は、身長164cm、体重63kg、胸囲105cm、腕囲33cmであった。

 こうして本格的にボディビルの練習を始めたのであるが、やはり自己流の練習とは違って、間もなく私の体にその効果があらわれはじめた。そして、1年後には体重75kg、胸囲117cm、腕囲38cmとなり、フェザー級からウエルター級に2クラスも大きくなった。その結果、当然レスリングの力もつき、ボディビルとレスリングに熱中した最も楽しい学生時代であった。

 そして、昭和36年、私は全日本レスリング大会にウエルター級で出場。グレコローマン型で6位に入賞の栄誉を得ることができた。
TBSテレビ、プロフェショナルに出演したときのひとコマ。中央ハジキを持っている二枚目(?)が私。これは私の悪役ぶりが買われてのアルバイト。

TBSテレビ、プロフェショナルに出演したときのひとコマ。中央ハジキを持っている二枚目(?)が私。これは私の悪役ぶりが買われてのアルバイト。

当時の練習方法

 ここで当時の私の練習方法についてちょっとふれてみたい。

 初心者が誰でも考えるように、私も「少しでも早く逞しくなろう」と考えまったくムチャクチャな練習をしたものだった。

 連日、15種目、しかも1種目につき5〜6セット。とくに、ベンチ・プレスにおいては20セットも消化していた。しかも、それを毎週6日、ひどいときは休みなしで7日間連続というハード・トレーニングであった。

 こんな私を見て、いつもジムの会長は「オーバー・ワークだ。そんなムチャな練習をしていては、体も大きくならないし、力もつかないよ」といって注意してくれたが、当時の私は、少しでも早く効果をあげたい一心で、会長の注意などには、まったく耳をかそうとしなかった。

 しかし、しばらくすると私の体も力も、ほとんど発達しなくなってしまった。やはり会長のいうとおりであった無理なハード・トレーニングは、一時的には効果があるようにみえるが、長い目でみれば、適当な休養をとった規則正しいトレーニングにかなわないことがやっとわかった。

 こうして本格的にボディビルを始めてから約1年半、大学を卒業するころにはベンチ・プレスで110kgをあげられるまでになった。

 当時、一緒にトレーニングしていた人には、後に'68ミスター日本になった吉田実氏や、テレビや映画に活躍中のジプシー・ザンバなどがいた。とくにザンバとは当時上映されていたスチーブ・リーブス主演のへラクレス映画などを見に行っては、その素晴らしさに感激したものだった。

ストーブのかわりにトレーニング

 大学を卒業し、神田・小川町のトヨタ自動車に入社してからは、学生時代と違って自由がきかなくなり、練習時間をつくるのが大へんだった。

 ちょうど会社の近くにYMCAがあったので、時間のゆるす限りそこで練習することにした。ここでのトレーニングは、一般のボディビル・ジムの練習方法とは少し違い、いわゆるウェイト・トレーニングに属するものであった。力もだいぶ強くなり、ベンチ・プレス130kg、スクワット140kgをあげられるようになった。

 4年後、千葉県船橋市に勤めを変えた。近所にジムもなく、しばらくトレーニングは中断していたが、どうしてもボディビルの魅力が忘れられず、下宿先にベンチやバーベル、ダンベルを買い込み、1人で練習を再開した。

 そのころはまだ、一般の人にはボディビルというものがよく理解されていなかった。私の練習するのを見て、隣り近所、下宿先の人たちはみんな驚いたらしく「何もあんな重いものを無理して持ち上げなくてもいいのに」と、まるで気違いあつかいするしまつだった。

 そのころはすでに私の体もだいぶビルダーらしくなってきたので、さっそく裸になって見せ「この運動はボディビルといって、体の弱い人や内蔵の弱い人によくきくんだ」と得意げに説明してやった。

 また、冬の夜など下宿に帰っても暖房器具もなく、寒くてなかなか寝つかれなかった。そんなときは、ストーブがわりにトレーニングをして、体を暖めてからフトンにもぐりこんだものである。
万国ビックリショーに出演したときの場面。右側でブリッジしているのが私

万国ビックリショーに出演したときの場面。右側でブリッジしているのが私

念願の夢 ボディビル・ジム開設

 こうしてボディビルの虜となってしまった私は、いつの日か必ず自分でジムを開き、多くの人にボディビルを教え、少しでも日本人の体力の向上に寄与することに生甲斐を感ずるようになった。

 都合のよいことには、父が京王線柴崎駅のすぐ前に30坪ほどの土地をもっていた。ここにボディビル・センターを建設したいと、私の長年の夢を打ち明けたところ、スポーツ好きの父は快よく賛成してくれた。

 私の夢は着々として進んでいった。ところが、このとき私にとって最も悲しいできごとが起こってしまった。それは、明日、上棟式という日に、私のボディビル・センター造りの一番の理解者であった父が他界してしまったのである。

 人1倍スポーツを好み、全面的に私の計画をバック・アップしてくれた父であったのに。私は心の支えを失い、心細さと不安を感じながらも、父の期待にそうような立派なジムをつくり、その恩に報いようと心に誓った。

 42年9月末、2階建のジムは完成した。そして「ファイティング・ボディビル・センター」と命名して、10月1日オープン。ついに私の夢は実現した。

 当日は、日本ボディビル協会の玉利前理事長をはじめ、市会議員、市体育協会々長など大ぜいの方々から、祝辞と激励の言葉をいただいた。しかし、この感激すべき席に、父の姿を見ることができないのが何よりも残念であった。
会員にコーチしている私

会員にコーチしている私

会員の親睦と明るいムードづくりに苦心

 私の心配をよそに、会員はしだいに増えていった。なかでも、会員第1号の次山亘氏は、父なきあとの私のよき理解者であり、相談相手となって、ジムの運営に何かと助言してくれた。

 44年には3階を増築し、ここにマットを敷いて、柔軟性をつけるためのトレーニング場とした。

 一般によくビルダーには柔軟性と機能性がないといわれている。しかし、それはボディビルそのものが悪いのではなく、ほとんどのジムで、それらを練習するスペースがないからだと思う狭い場所に、足の踏み場もないくらいトレーニング器具が並んでいる現状では、柔軟性とか機能性をトレーニングすることは不可能に近い。

 私のジムもまさにそのとおりだったこうして一歩一歩、私の理想とするジムに近づきつつある。

 ジムの運営については、まず、"明るいムードづくり"と、"トレーニングへの励み"に苦心した。それがため毎年2回、会員の親睦と、自己の記録更新を目指して、記録挑戦会を開き、そのあと反省会をかねてパーティーを催している。

 その他、月例として、腹筋連続運動(腹筋台3段目、いままでの最高記録1110回)、スクワット連続運動(重量は自己の体重以上、最高記録66回)を行ない、3位までの入賞者には循を贈ることにしている。
記録挑戦会のあとで会員と記念撮影

記録挑戦会のあとで会員と記念撮影

市民体育祭に積極的に参加

 ボディビルを広く一般の人たちに理解してもらう手段として、毎年秋に行なわれる市民体育祭には、会員とともに積極的に参加している。そして、砲丸投げ、円盤投げには常に上位に入賞をしている。

 いままで"見せかけだけの筋肉づくりだ"というような偏見をもっていた人たちも、体育祭における私たちの活躍ぶりに目を見張り、いまでは市体育連盟の関係者もボディビルの効果に驚いているという。とくに、スキー連盟の人たちは、毎年10月ごろから基礎体力をつけるために10数人がみえ、会員たちと一緒にトレーニングに汗を流している。なかでも、50才を過ぎた杉浦スキー連盟会長は、ボディビルで鍛えたお陰で、昨年は壮年の部で念願の優勝を果すことができたと大よろこびだった。

ベンチ・プレス170kgに成功 東京パワー・コンテスト優勝

 去る5月16日、東京・新宿のスポーツ会館で行なわれた。第2回東京パワー選手権大会に、私はへビー級で出場した。私の目標は必ずベンチ・プレスに優勝することだった。

 なんといってもこのクラスには常勝宮本彰君がおり、しかも、最近はますます好調と聞き、練習にもいちだんと熱が入った。へこたれそうになると会員がみんなで声を出してはげましてくれる。まさ
に練習につぐ練習だった。

 大会当日、日本スポーツ会館に着いたとき、練習のときと同じ気持で実力を出しきり、悔いのない試合をやろうと心に誓った。

 いよいよ試合開始。選手宣誓をおおせつかっていたので、力強く宣誓(本人はそう思っている)。大会の幕は切って落とされた。

 160kg。いよいよ第1回目の試技が近づいた。やるだけの練習はすべてやり、あとは運を天にまかせるだけだ、と、冷静だった私の胸は、いつか高鳴りを始めていた。

 第1回目成功。第2回目165kg、これも成功。選手の数も4〜5名になってしまった。

 170kg。選手は宮本君と私だけである。まず私が挑戦。やや緊張したが、応援にきてくれた会員たちの「会長ガンバレ!!」の声に、ありったけの力をふりしぼった。ついに成功。

 続いて宮本君。私は勝敗を別として「ガンバレ、ソレいけ!!」と声援した成功である。さらに彼は3回目の試技175kgに挑戦。しかし、175kgは残念ながら失敗に終った。

 この結果、ベンチ・プレスの最高記録は170kgとなり、優勝は体重の軽い私のうえに輝いた。これで念願の目標達成である。

 スクワットでの私の成績は180kg。総合では3位に入賞することができた。
会員第1号で、私のよきアドバイザーの次山亘氏

会員第1号で、私のよきアドバイザーの次山亘氏

月刊ボディビルディング1979年11月号

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