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ボディビル風雲録8

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月刊ボディビルディング1969年9月号
掲載日:2018.05.23
田鶴浜 弘
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 前稿の末尾に書いた。八重州通りの運動具屋“タチカラ”の真田支配人が「玉利さん、中山バーベルのおやじの他にもう一人紹介したい人物がいますよ。あんたの先輩だーーきっとボディビルを広めるのに役に立ちますよ」といったのは筆者のこと。

 当時“ファイト誌”を主宰していた私の事務所が“タチカラ”の筋向かいにあった。玉利君との初出会いは、本稿②に書いたからここでは重複を避け、その結果だけを要約しておこう。

 ボディビル・ムーブメントに対する理想と姿勢は初対面から基本的には一致していたので“タチカラ”の真田支配人の見込み通り、約半年後には、日本ボディビル協会設立という、まことに急テンポのあわただしい歩みがはじまり、その間爆発的なボディビル・ブームをまきおこすことになる。

 だが、あわただしく、めまぐるしいその間の動きのなかにはいろいろな障害や明暗もあった。

 私は玉利君に会って間もなく協会設立をすすめたものである。

 「ボディビル協会の青写真だがネ、日本民族の体格改造ムーブメントの旗ふりの役目として協会を設立しようじゃないかーー丁度、事をおこすのに今おあつらえ向きの後循になってもらうのにいい人物がある。鳩山内閣で、若くて張り切っている厚生大臣の川崎秀二君だ。僕は彼にこういったんだ。「いま日本のスポーツ行政は文部省の学校体育がリードしているが、本筋はあなたの厚生省が国民全体の体格改造ムーブメントというラインに沿って引張っていってもらうことだと思うーー」と。これは実は川崎君自身のかねてからの持論とピッタリなんだ。だから川崎厚生大臣に協会々長になってもらい、日本ボディビル協会が実践面を担当する厚生省の外郭団体にしてもらえばいいんだ。

 この辺りまでの僕の青写真は玉利君たちの共感を充分によんだと思っている。

 協会を設立してひろく進出しようというムードはだんだんふくらんでいった“明”の部分である。

 だが、その後筆者は図に乗っていわゆる青写真を更に広げ出したのはまずかった。

「日本ボディビル協会を固めたら、その次に、アジア・ボディビル連盟の結成に持っていくんだよーーわれわれ有色人種が、白人の体格をしのがなくてはいかんーーさらにアジア連盟をステップに三段跳びーー日本を中心に世界のボディビル組織の統合だね。あらゆるスポーツ団体がI・Fーーつまり国際競技連盟組織をがっちり固めているのと同じ形をまとめあげるんだ」

 筆者は、世界のボディビル組織がどうなっているか正確な知識は無かったが、少なくともボディビル界の世界地図が、他の競技団体のI・Fのように強力な世界統一組織はできていないという点、世界スポーツ地図の知識からおおよそのことはハダで感じとったからである。

 いや、高名なボディビル雑誌を出しているジョー・ワイダーの弟のベン・ワイダーがやっているIFBB、それから重量挙げのホフマンが世界重量挙げ組織を中心にしたもの、さらにヨーロッパのNABBAなど、少なくとも三派ぐらいの流れのあることは漠然と知ってはいたが、どれも完全なI・Fではなさそうだと思った。

 なぜかというと、ボディビル雑誌で一番日本にも知られていて世界的に高名なジョー・ワイダーから、弟のベンが会長をしているIFBBのことはいろいろ宣伝され、大体この兄弟のお手の内は見当がついていた。

 その頃兄貴のジョー・ワイダーから筆者はこんな手紙をもらった。

「ファイト社長のミスター田鶴浜は、日本のジョー・ワイダーになって欲しい。貴君の雑誌と私の雑誌は兄弟雑誌になろうではないか。弟のベンのIFBBも喜んで手をつなぎたいといっている」

 その手紙をもらった私は、喜んで“ファイト誌上”にこの手紙を写真版にして載せたが、実は日本版の版権を私に引き受けさせようという下心ーーそれというのは、私の他に当時日本のある出版社と両天秤にかけていたからであった。

 それはともかくとして、たしかに弟のベンがやっているIFBBの実力は高く評価するが、同時に純粋のI・Fというよりコマーシャリズムの色が濃いと思った。

「ホフマンなんかボディビルが目的じゃあないーーあれは重量挙げの方が本気なんだよ」

 これはワイダーの日本の代理人だというフレ込みで“ファイト社”に出入りしていたH氏という人物がしきりに力説していたし、彼にいわせるとロンドンのNABBAは田舎者だというのである。

 そんなわけでボディビルのI・F組織はまだ整備されていないにちがいないという確信をもったーー日本ボディビルが順調に発展すれば、日本はあらゆる競技の実力と不均合いに、競技団体組織という点では、どこの国にも負けないほど高度化している実績から考えて、将来、I・F組織のリーダーシップに野心をもやす目標をかかげようというつもりの青写真なのだ。

 だが、日本の場合、まだ日本協会さえできてはいない。いや、それどころか、かんじんのボディビルのレベル自体が赤ン坊で、前途はまだ海のものとも山のものともわからないその時点でこの青写真は突飛すぎた。

 少なくとも、ナイーブな早大バーベル・クラブの諸君の神経には、この青写真はどうもふまじめに受けとられたのは無理もない。

「この先輩の話、うのみにできんぞ。要するにボディビルを“ファイト誌”の売り物にデッチあげる魂胆しかないのかも知らん」

 だから、一部では日本ボディビル協会作りにさえ、ちょっと警戒ムードがでたりしたようだ。

 もう一つ、ボディビル・ムーブメントの推進に抵抗があった。

 スポーツ界の一部では、余計な筋肉作りはスポーツ技能の邪魔になるとか、ウェイト・トレーニングの怒責作用の有害観などが反論された。

 いずれも科学的トレーニングの無理解が原因だが、その長所を啓蒙するためのP・Rと環境がためが必要だった。

 スポーツ医学の水町四郎博士、スポーツ評論家仲間の川本信正、戦前の文部省体育課長でJ・O・Cの一人、論客で行動派の北沢清などという人々にスポーツ界やマスコミへの影響力として、ムーブメントの仲間に加わってもらうのがいいと思ったから、玉利君などと彼等を座談会に招いたのを手はじめに、いろいろ水を向けて、やがて後にボディビル・ブームが爆発する頃にはいずれもわが渦中のメンバーに一応つらなってもらうことになる。

 何といっても、いわゆるボディビル・ブームの爆発は、昭和29年7月から8月にかけて、毎週金曜日午後1時から15分間日本テレビで“男性美の創造”というボディビル番組シリーズの放映が導火線の役目をはたした。そのいきさつはやはり本稿の③に書いたからここでは省略するが、反響がいかに大きかったかーーそのいくつかを捨ってみよう。

 その第一の徴候は、町の運動具屋の店頭に時ならぬ異変が起きた。

 例の“タチカラ”の真田支配人が真っ先に悲鳴をあげた。

 バーベルの注文殺到に山中バーベルだけではとても供給が追っつかない。

 東京中の運動具屋という運動具屋はバーベルに限って長期の予約制にするありさまで、やがて川口市周辺の鋳物屋さんが続々と運動具屋からのバーベル受注で活況を呈しはじめるのだ。

 渋谷宮益坂にボディビル・ジム第一号として小寺金四郎君による日本ボディビル・センターが創立され、たちまち100名以上の会員にふくれあがると、後続ジムが方々で名乗りをあげた。

 やがて卓球ホールだとか、あまり流行らないパチンコ屋の転業とか、ずっと後だが浅草で場外馬券売場のボディビル・ジム兼業などという異色も出現する。

 異色といえば、“35日間肉体改造”などといったキャッチ・フレーズで新聞広告による器具の通信販売(後には全盛をきわめる)が登場する。そのはしりは、この手でやがて億の財をなし、後年アメリカのタイム誌にベトナム反戦広告で巨額の大散財をやってのけ世間の話題を集めた奇人がいる。

 彼が後年の運命をたどる初の第一歩が、矢張りこのNTV番組を見たことだという。

 ある日ファイト社に電話をかけてきたときのことが非常に印象的だった。

 受話器から筆者の耳に伝わる先方の声にはどうも異様なナマリがあったーーつまり彼は韓国の出身だとわかる。

 テレビを見たし、ファイトも読んでいる。今日まで自分はパチンコ屋もやったし他にいろいろな仕事をやってきたが、今度は小鳥とケンネルの店に改造しようとしていたのをボディビル道場に方向転換するつもりだがどうだろうーーという相談であった。

 筆者はあまり気乗りはしなかったが賛成の返事をしたと記憶している。

 テレビの反響の範囲は意外に広かった。

 三島由紀夫が作家生活の一つの転機になったことは余りにも有名だし、前にも私は書いた。

 そのなりゆきは玉利君がはじめ手ほどきをして、彼は毎週玉利君を相手にトレーニングの鬼になる。

 ボディビル・トレーニングは玉利君が先生だが、三島の肉体求道は、彼一流の肉体と精神の掘り下げだとか、ボディビル理念の探求であり、これが後年の玉利君の情熱ゆたかな肥になったと思う。

 経済同友会からも御座敷がかかって出かけていったりしたが、この財界人の中で熱心だったのは当時興銀の重役で後に日興証巻社長の湊さんであった。

 兜町の証券界にマネー・ビルのキャチ・フレーズがあらわれたのは多分その湊さんあたりが火元ではないかと思っているし、筆者の身よりの同じ興銀出身で山一証券日高社長が、かつて「湊君はボディビルとマネービルだよ」といったのと思いあわせててっきりそうだと思っている。



 ボディビルがこうしてブームの様相をおびはじめると、急速に日本ボディビル協会設立の気運は盛り上り、まさに機が熟したという言葉がぴったりであった。

 川崎秀二厚生大臣の議員事務室のある第二議員会館が設立事務所のような形になって、昭和30年12月議員会館会議室で遂に創立総会の運びにこぎつけたのである。



 御愛読いただいたこの風雲録は一まず、敗戦日本の焼土 芽生えたボディビルが日本ボディビル協会設立にこぎつけるまでの足どりをえがいた。

 本稿の筆者の意図は、日本の近代ボディビルダーシップのバック・ボーンを解明し、近代日本ボディビルは敗戦に打ちひしがれた日本民族の復興の一つの象徴であったということを主張することにあった。

 洋の東西を問わず、単に怪力追求を目ざす幾多の豪勇怪傑を生んだウェイト・トレーニングの歴史は古くからあるのだが、日本民族の体格改良ムーブメントという新しい目的と意識に根ざすのは、われらの近代日本ボディビルであるーーということをあまねく日本ボディビルダー諸君の誇りにして欲しい。



 日本ボディビル協会設立以後のムーブメントの展開にも幾多の明暗があった。

 当時のボディビルブームが去ったあと、コマーシャリズムのジャングルこそ繁茂したが、かんじんの東京における日本ボディビル協会本部の沈滞ムードに対し、逞しく活発に行動した日本ボディビル協会関西支部が大阪を本拠にして全日本ボディビル協会として独立し、ボディビル界の東西二分時代を経て、やがて日本ボディビル協会の一本化は、八田一朗新会長のもと新執行部によってボルテージ高いムーブメントの飛躍的発展段階の歴史が始動しはじめる。

 今や、もう単なるかつての青写真でなく、現実の裏付けを備え、アジア連盟への連出、更に世界ボディビル機構への踏み出しは“ミスター・アジア・コンテスト”、“ミスタ・ユニバース・コンテスト”日本開催に国際的な光栄と期待が寄せられるまでになった。

 ここまでの歩みに、さらに16年の年輪を重ねる風雲録続編は、追って時期をみて新しく筆をおこしたいと思う。
月刊ボディビルディング1969年9月号

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