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日本ボディビル界の過去〜現在〜未来(下)
くジム運営の観点から問題を提起>

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月刊ボディビルディング1972年8月号
掲載日:2018.07.09
JBBA事務局長
'68ミスター日本
吉田 実
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 日本ボディビル界の第1期黄金時代を30年〜31年とするならば、現在を第2期黄金時代の突入期といえるのではないか?
 しかし、第1期黄金時代は、ボディビルが日本で始めて知られるようになり、爆発的なブームを呼び起こしたものであるのに比べ、第2期黄金時代はボディ・コンテストやパワーリフティングなどの大会が全国各地で盛んに行われ、選手のレベルも飛躍的に向上したと同時に、ボディビルの運動効果を十分に認識した一般人が、これを実践するようになったという、両者の態様の差は著しいものがある。
 日本でボディビルが行われるようになってから僅か20年ほどで、ボディビルがなぜここまで国民の間に浸透したかを考えてみたい。

普及の原動力はコンテスト

 短期間でここまでボディビルが普及した原動力は、コンテスト開催によるものだったと思われる。
 ボディ・コンテストは、決してボディビルの理想を追究するものでもなければ、練習者に不可欠のものでもない。むしろ、現代の練習者の90%以上はコンテストには無縁で、ただ健康保持、体力増進のために行なっているといっても過言ではない。
 これは、昭和30年に創設された日本ボディビル協会が、日本国民の体位向上、体格改善、健康増進を最大の目的として、設立時から旗印を掲げていたことに一致し、その目的にそってボディビルが実践されていることは喜びの極みともいえるものだ。
 ボディビル協会が、前記の目的を、ただ念仏として唱えていただけなら、国民の間に広くボディビルが認識され実践されるまでには、もっと長い年月がかかったと考えられる。
 人間だれしも健康を願わない者はない。その積極的な健康管理法は、自らの体を用いてスポーツを行うことだ、ということは皆んなが知っている。
 しかし、ひと口にスポーツといっても何十種類、いや何百種類あるか見当がつかない。その数多いスポーツのなかから、ボディビルに白羽の矢を立てさせ、実践させるためには、よほどポピュラーにしないことには実現不可能だ。そのアピールの方法としてボディコンテストを開催したのだ。
 人間の極限に近く発達した筋肉の造形美は、ただそれだけで絵になり易くまた巻の話題も集め易い。テレビ、新聞、雑誌などマスコミも競って報道してくれたものだ。報道されれば人々に知れわたるのが当りまえだ。
 日本ボディビル協会は、その効果を狙い、見事それが効を奏した。

コンテストの副作用と効用

 しかし、あちら立てればこちらが立たず、世の中なかなか自分に都合よくばかりは進展してくれないものだ。
 コンテストを開催したことにより、確かにボディビルが世間に知れわたり練習者を増加させたが、反面、ボディビルを誤って認識させてしまった。
 ボディビルは筋肉隆々をつくるだけのものだ。自分たち一般人がやったら体がガタガタになってしまう。女性はゴツゴツの体になるからやめたほうがよい etc……。ボディビルにまつわる誤解を数えあげたらきりがない。
 それらの誤解を生じた原因が、すべてコンテストにあるとは思わないが、それを助長したことは事実だ。
 裏面から皮肉の見方をするならば、短期間でボディビルが有名になり過ぎたので、世間ないしは他種スポーツ界からヒガまれたともいえる。そこまでいわないまでも、短期間にコンテストを媒体とした副作用が、最近になって目立ってきたことは否めない事実だ。
 現在は、むしろコンテストを廃止したほうが、ボディビルの正しい普及には好結果を招来するとも考えられる。事実、JBBA理事会をはじめ、公式の席上でこのことが真剣に討議されている。
 これと同様に、近年とみに盛んになってきたパワーリフティングについても懸念がないわけではない。コンテストと異なり、100%競技性のスポーツであるパワーリフティングも、ボディビルが健康管理、体力増進のための社会体育の運動方法として一般人に普及を目指す以上、それに逆行し、ブレーキをかける要素を多分に包含しているともいえる。
 しかし、いかに副作用となり得る要素があったとしても、コンテストもパワーリフティングも、現状ではこれを廃止する考えをJBBAでは持っていない。
 ピラミッドの底辺である一般練習者と、頂点の選手とは、お互に不即不離の関係にあり、頂点が高くなれば底辺も幅広くなり、逆に、底辺が拡大されれば頂点も高まるものだ。
 他のスポーツを例にとっても、スターが現われればそのスポーツが盛んになり、愛好者が急速に増加するが、スターのいないスポーツは普及が難しいのが実情だ。
 ボディビル界もその例外ではないはずだ。しかし、パワーリフティングには問題がまったくないが、コンテストのショー的要素をいかにして封殺し、競技性を前面に打出すかが、ボディ・コンテストが直面している最大の問題だ。

コンテストの使命は終った?

 日本におけるコンテストは、すでにその使命を一応は終ったといってもよいのではないか。コンテストを通じて国民の大多数がボディビルを知ったはずだが、その副作用のために最近では普及にブレーキがかかっている。
 過日、札幌で開催された冬期オリンピックの際に、IOC(国際オリンピック委員会)会長のブランデージ氏が「冬期オリンピックの使命は終った。これを今のような形で続行するなら、開催地の環境を破壊し、選手のアマチュアリズムを失なわせ、むしろ冬期スポーツを本来の目的とは逆方向に進展させる」と語っていた。
 この言葉は、オリンピック主催者であるIOC会長としては、よほどの決断をもってしなければ口外できないことだが、一面の真理を鋭く表現した勇気ある言葉だ。
 日本のボディビル界およびJBBAが現在、冬期オリンピックと同様の重大な岐路に立っていることを卒直に認め、原点に立ちかえって考えなければならないときだ。
 このことを既存のジム・オーナーや指導者諸氏が、本当に理解しているなら、どんなに大資本がこのボディビル界に進出してきても、恐れるところは少ないはずだ。いやむしろ、それらの進出を利用して、自分たちのジムに利益になるよう適切な処置が講じられるはずだ。だが現実には、口先あるいは頭の中では一応わかっているようだが本当に理解している人が何とすくないことか……。
 このことは、ジムの運営方法、指導方法をひと目見れば即座にわかることだ。旧態依然としてひと昔まえのジム運営と指導から脱皮できない人があまりにも多い。あるいは、いい過ぎているところもあるとは思うが、歯に衣を着せていたのでは、何のために本稿を発表したのかわからないので、一部の人たちに反発されることを覚悟のうえで直言したい。

ボディビルに対する時代の要請

 現在、世間から求められているボディビル・ジムは、コンテストやパワーリフティングを目指す一部の選手たちや、その亜流の者を対象にしたものではない。あくまでも一般人の社会体育の場としてのトレーニング・センターであるはずだ。
 これを単に、「最近は練習者層と練習目的が変わってきたなァ……」と漢然と感じているだけでは、経営者として、また指導者として失格の烙印を押されるだけだ。
 ジム運営と指導に、発想と行動の転換がなければ何にもならない。口先だけでわかっている者がいちばん始末におえない。むしろ、まったく知らないほうが、アドバイスを受け入れて素直にものごとに対処できるので救いようがある。
 このことは、何もジムの設備を全面的に取り替えたりしなければできないことではない。ごく簡単には、練習者に対する運動種目、使用重量、レピティションなどの抜本的な変更により解決されることが多い。さらに、一歩進めてジム内の雰囲気を一新すればいうことはない。
 もちろん、ビルダー向けのものではない一般練習者に必要とされている運動器具を何点か補充しなければならないところもあるだろう。しかし、根本的な問題はそれ以前にある。
 現在の多様化した刺激の多い社会では、アクションとレジャー性に富んだスポーツが愛好される風潮がある。この時代に、その要素に欠けるボディビルを普及させるためには、それに替わり得る別の魅力をつくり出さなければならない。
 しかし現実には、いうは易く行うは難しで、なかなか難しい。練習方法に限っていえば、変化をつける程度しか方法はなく、この面ではすぐ限界に達してしまう。しかし諦めてはいけないそれぞれのスポーツにない持ち味で勝負しようとしても無理な話。ボディビルには他のスポーツに勝る点がいくつもあるではないか。相手もいらず短時間で、自分の体力と目的に合った運動ができてしかも効果は抜群。
 要するに、練習を継続させることができれば、否が応でも効果があらわれる。体育効果だけを考えれば、ボディビルは最も手近な運動方法なのだ。
 そうとわかれば話は簡単、練習を継続させればすべてが解決するではないか。

練習者の要求を満たせ

 現在、ボディビル・ジムに入会して1週間〜10日程度のうちに止めてしまう原因の最大のものは、練習者が求めているものがそのジムにない、ということだ。
 これは2つの面についていえる。その1つは練習方法の面であり、もう1つはジムの雰囲気だ。
 前者では、指導者がひとりよがりの練習を押しつけて、練習者がついていけなくなる場合が多い。長期的展望に立つなら、それでも十分な効果があらわれるのだが、練習者にとってはそれが理解できない。いまが大切なのだ。
 後者では、筋肉隆々のビルダーたちが、我が物顔にハバをきかせていて、カボソイ初心者が解け込める雰囲気ではない。極論すれば特殊部落の雰囲気に近い。
 強制的にやらされる学校の体育ならいざ知らず、自分の自由意志で、お金を払って行うボディビル・ジムでは、会員が気に入らない場合には、次の日からきてくれない。
 会員が欲しがっているものを満たしてやれば、くるなといっても通ってくるものだ。

体育だけでは練習継続は難しい

 ここで興味ある資料を参考に供したい。このほど発表された総理府の「青少年団体加入状況調査」と「青少年施設に関する調査」だ。
 前者の、団体への現在加入率は18.4%。加入団体で最も多いのは「体育レクリエーション団体」と「文化・芸術・趣味団体」だ。
 団体活動に期待する最大のものは、“みんなと楽しく過ごしたい”で、現代の働く青少年の孤独と不安を物語っている。
 後者の、青少年施設に関しては、スポーツ施設を望む者が88%と最も高い数値がでている。
 この調査結果に歴然とあらわれているように、現代の若者が求めているトレーニング・センターは、単なる練習場、体育場としてのものではない。一種の社交場としてのものだ。
 これは若者だけの問題ではなく、中高年者にとっても、まったく同様のことがいえる。
 人間疎外、没交渉に象徴される現代社会に生活する者にとって、人間同志が裸になりあって、胸襟を開いて付き合いができる場が、いかに貴重で、いかに強く求められているかを理解しなければだめだ。
 確かに、ボディビル・ジムの門を叩いて入会する動機は、95%以上が健康管理と体力増進に関するものだが、何カ月〜何年ものあいだ継続して練習させるのには、ただ運動だけでは引っ張っていかれない。会員が求めている運動以外の要素がなければ、継続してトレーニング・センターに足を運んではくれない。
 結論すれば、入会ないしは練習開始の動機は体育だが、それが決定的な継続の要素とはなり難い、ということだ。
 ここが、強制的に行わせる学校体育と、自発的に行う社会体育の最大の相違点ではなかろうか。
 もちろん、最近では学校体育も研究が進んで、いかにして児童・生徒に興味をもたせて、積極的に行わせることができるかが、重要な教育のポイントとなってはきたが、根本的な立脚点が社会体育とは大きく異なる。
 スポーツという英語を辞書でひいてみると、意外にも遊び、遊戯、娯楽といったことが本来の意味であることに気がつく。これを意外と感じるほうがむしろ変なくらいなのだが、スポーツを苦痛、ないしは専門競技と同義語のように長年にわたって教え込んできた学校と社会に責任があった。
 ごく最近までは、スポーツとは競技スポーツのみを指していい、レジャースポーツなどは継子扱いにされていた。
 これからの社会体育としてのスポーツは、この娯楽、遊びの要素を多くもったものでなければならない。
 とはいっても、ボディビルの運動方法を180度転換することは不可能なので、いかにしてこの要素を織り込んで練習を継続させるかということが、今後のボディビル界の課題であろう。

  × × ×

 以上のようにスペースを多くさいてボディビルの普及とコンテスト、コンテストの効用と副作用、時代が要請しているボディビル、これからのボディビル・ジムのありかた、ボディビルの進路などについて述べた。
 このへんで本稿の論旨に立ち戻って結論を出さねばなるまい。
 先月号で筆者は次のように結んだ。既存の弱少ジムが、今後、社会体育の嵐の中で生き残り、主導権を握る方法はただ1つしかない。つまり、ボディビル界が一丸となって、いままでどおり社会体育の先達としての指導力を発揮して、ボディビル界全体のレベル・アップにより、社会体育そのものをリードする道だ。
 それ以外では、社会体育という大きな気流に乗り遅れ、現在のボディビル界の存立基盤が全面的に失なわれ、新しく参加する大資本の前に、枕を並べて討ち死にすることは目に見えている。

個々のジムの努力が大切

 大資本がただ恐いのだ、と感違いされては迷惑だ。金さえあれば、すべて解決されるというのではない。今月号で筆者がくどくど述べたことを理解くださった方々には蛇足と思うが、金さえあれば世の中すべて思いどおり、と考えるご仁のために興味ある言葉を紹介しよう。
 話す人、伊原隆全国地方銀行協会々長。――カネの洪水のなかで、中小金融機関は溺れかけている。都市銀行と地方銀行は、同じ土俵上では勝負できない――。
 ついでに、既存の中小ジムのありかたの参考のために、もう1つ紹介しよう。4月7日の閣議で了承された、昭和46年度中小企業白書の結びの“試練の時代に立つ中小企業”の大意だ。
 ――中小企業の発展は、基本的には中小企業みずからの努力にかかっている。円切上げと不況のなかの、現実と高福祉社会への過程の渦のなかで、中小企業は危機に立ちつつ、みずからの能力と役割を発見する必要がある。このなかで、みずからの短所を克服し、長所を伸ばし、企業の個性を創造していくことが、今後新しい時代を生き抜くために必要であり、中小企業にとって“困難は大きいが可能性も大きい”時代に挑んでいくことが望まれる――
 この中小企業白書にも結論されているように、ボディビル・ジムに限らず日本、いや世界の中小企業が同じ悩みと危機を抱えているのだ。
 ボディビル・ジムより数倍〜数十倍儲かっている企業でも、これからの時代にどのように対処するか、真剣に取組み、努力を積み重ねている。極端な場合には、業種の転向をすら考慮している。
 マンモス企業の富士製鉄と八幡製鉄が合併して新日本製鉄に、第一銀行と勧業銀行が合併して第一勧業銀行に再編成した事実を、どのように受けとってもらえたことであろうか?
 これほどの大企業でも、新しい時代に対応するためには、なり振りかまわず、面子を捨てて新体制をとっている。いわんやボディビル・ジムにおいておや。
 ボディビル・ジムは、発想と行動の転換を図り、新しい時代が要請するジムに変身しなければならない。しかるのちに、全国のジムが一致団結すれば恐いものはない。
 ボディビル界が一丸となるといっても、没個性的に寄り集まったのでは鳥合の衆で、強力なチーム・ワークはできない。チーム・ワークとは、お互いの個性を殺し合って1つにまとまるのではなく、お互いの個性を生かし合ったうえで1つにまとまることだ。
 そうすれば、6月号の本稿の冒頭で逆説的に表現したような事態には至らずにすむ。つまり、ボディビルがより普及した場合には、既存のジム・オーナーのみが損をして、他はすべて得をするのではなく、ボディビル界の全員が利益を享受できるということだ。
 “一部の心ないジム・オーナーたちよ目を覚ませ”
 地方協会の運営やコンテストの主導権争いのために、ボディビル界が内部分裂しているときではない。スクラム組んで一致団結のときだ。 (完)
月刊ボディビルディング1972年8月号

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