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ボディビルと私
バーベルと共に十八年

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月刊ボディビルディング1972年8月号
掲載日:2018.03.08
大学入試失敗がキッ力ケで
ボディビルの虫に
石川県ボディビル協会理事長
永江トレーニング・センター会長
永江孝嗣

18年前の思い出

 昭和28年、希望に胸をふくらませて高校に入学した頃から、私の長いボディビル人生がスタートした。
 当時、胸囲78cmの“骨皮筋衛門”と呼ばれていた私の体格と人生を、これほどまでに変えてしまったボディビルも、ふりかえってみればなんと長い道だったことか。いったい18年間に何千トンのバーベルを上げ下げしただろうか。よくぞここ迄きたものだと自分ながら感心せずにはいられない。
 入学して間もなく、少しでもいい体になりたいと思いテニス部に入った。部員も少なく、まったく非合理的な練習をしながら、それでも地方大会に入賞したこともあった。当時リスト・カールとかジャンピング・スクワットでもやっていれば、国体ぐらいに入賞できたのではないかと残念でならない。
 その頃の基礎体力づくりといえば、プッシュ・アップと兎とびが関の山。腕の力を強くする器具も方法も知らなかったが、なんとか腕を鍛えようと、厚さ10cmほどの将棋盤を古道具屋から買ってきて、盤の脚を持ってダンベル・プレスのような運動を考え出した。そのほか、いま考えても名前の付けられないような自己流の種目を5種目ほどやっていた。
 こうして半年ぐらい続けてみたが、テニスの向上にはあまり効果はなかった。しかし、体のところどころに筋肉らしいものが現われはじめた。これに気をよくした私は、それからはなお一層将棋盤の上げ下げに熱中した。

ミスター・ゴリラ氏から近代ボディビルの手ほどき

 その当時、県内の高校に”ゴリラ”というニック・ネームの先生がいて、長さ2m、直径5cmのシャフトに砲丸を取り付けた60kgの鉄棒を軽く20〜30回挙上できるという噂を耳にし、将棋盤で鍛えた体をひっさげ、ミスター・ゴリラ先生を訪問した。
 ゴリラ先生は、すでにマッスル・ビルダー誌や、そのほかの外国専問誌を愛読され、それを見ながら1人でボディビルを実践していたのだった。
 私は初めて見る外人ビルダーの異様な体に、ドギモを抜かれると同時に,ボディビルの魅力にとりつかれてしまった。そして、ゴリラ先生から近代ボディビルの手ほどきを受け、これを契期として、私の人生はいつかバーベルと切っても切れない仲になっていった
 そのときゴリラ先生は「終戦後間もなくのことですが、私のつくったダンベルのオバケの話をどこで聞いたのか金沢に駐留していた米軍の兵隊が、チョコレートやタバコを持って来て、ぜひ交換してくれ、と何度も頼まれた」という話をしてくれた。
 今でこそ外国でのボディビルに対する認識の高さは、誰でも良く知っているが、終戦直後の駐屯地ででもボディビルをやろうとするアメリカ人の意識の高いのに驚かされた。
 私は早速、当時流行のラビット・スクーターの中古タイヤを手に入れ、山中式ならぬ永江式バーベルをつくった。そして、この30kg一式を頼りに、カール、スクワット、ベンチ・プレス、ベント・ロー等に励んだ。励むといっても、このバーベルは調節ができない。チーティングでカール1回、ベンチ・プレス15回、スクワット30回といつもほとんど同じことを繰りかえすだけである。しかも、その運動がどこに効くのかもわからないで、ただ夢中でやっていたにすぎない。初期の頃のビルダー諸氏ならば、ほとんど私と同じような経験をされたことと思う。

大学入試に失敗
上京してバーベルの虫に

 それでも私の体は徐々に発達してきて、胸囲も目標の1m近くになった。腕も34.5cmに達し、大いに気をよくしていた。
 ところが、大学入試が近づき、受験勉強に追われ、永江式バーベルも次第に庭の片隅にひまをもてあます時間が多くなっていった。
 それと同時に、私の何百万という筋肉細胞も衰えはじめ、大脳組織の血行まで悪くなり、受験は見事に失敗。そして、予備校に通うために上京することになったが、これが私の人生を大きくかえるキッカケともなった。
 東京はボディビルのメッカ。居ても立っても居られず、受験勉強もそっちのけで、ジムさがしに奔走した。しかし、なにぶん初めての東京、どこを探していいのやら、しかたなく下宿でプッシュ・アップ等で不本意なトレーニングに明け暮れていた。
 そのころ、プロレスがマスコミに紹介され、世はまさに力道山ブーム。あのすごいレスラーたちの体を目のあたりに見るにつけ、かつてミスター・ゴリラ先生に見せてもらった外国誌の、異様なまでに発達したビルダーたちの秘密の源を知りたくなった。
 そして、プロレスラーたちの通うジムをやっと見つけ出し、恐る恐る見学を申し込んだ。
 そこには、ゴリラのようなすごいレスラーがゴロゴロ。玉のような汗がとび散り、鉄の魂が上がったり下がったり。今でも私はその時の興奮ぶりを忘れることができない。
 練習生は会費500円と書いた貼紙が目にとまり、すぐに入会した。
 そこで、田中未太郎というレスラー兼コーチから2時間あまりの指導を受けた。このレスラー兼コーチは、どういうわけか広背筋のことをカッパン、大胸筋はダイチョーなどと、聞きなれない名称で筋肉の説明をされ、どぎまぎしてしまった。
 現在、アメリカでフリーのプロレスラーとして活躍しているミスター鈴木氏も、当時、練習生として一緒にトレーニングした仲間である。

本格的ボディビル運動へ拍車

 カッパン、ダイチョーを鍛えたお陰で、大脳組織の血行もよくなったのか1年間の浪人生活の後、日大医学部に合格。医学博士を夢見て大いに(?)勉強したつもりだったが、途中からボディビルに熱中してしまい、2年後に単位不足により獣医学部に編入。獣医学生として再出発することになった。
 この頃から、私のボディビル・ムーブメントに一層拍車がかけられることとなっていく。
 まず、現在、一宮ボディビル・センター代表である安藤氏と相談して、日大で始めてのクラブを設立し、これを指導することになった。やがてこのクラブは部員50名を有する立派なクラブとして成長し、現在に引つがれている。また、ボディビル運動は日大体育の正課にもとり入れられ、自分の夢が一歩一歩着実に実りつつあることを感じ、1人で悦に入っていた。
 ちょうどその頃、渋谷に日本ボディビル・センター(現日本ボディビル協会理事長小寺金四郎氏創設)が開設され、そこで日本で始めての本格的指導をしておられた平松氏(現日本ボディビル協会技術顧問)から、理論と技術の指導を受けることになった。
 小笠原、名塚、土門、村上等多くのビルダーたちとの交友を深めたのもこの頃で、私のバーベル人生の中でも、最も楽しい時期だった。
 獣医学部に在学中、たまたま帰省した折、先輩の依頼で中学生の体力づくりの指導をすることになった。目に見えて効果があがるのに気をよくした私は、その後、帰省するたびにすすんで中学生を指導したり、また、体育協会の競技力向上委員のスタッフに加わったりして、1人でも多くの人にバーベル運動の効果を知ってもらおうと努力した。

県民の体カづくりに奔走

 昭和38年、大学を卒業すると同時に故郷金沢に帰り、獣医の免許もそっちのけで、バーベルいちずに県内を奔走し、県民の体力づくりに精出した。
 翌年、県協育協会の協力を得て、金沢ウェイト・トレーニング研究会というクラブを設立し、ここで3年ほどスポーツ選手の体力づくりを一手に引き受けることになった。
 現在、大相撲で活躍している輪島関も、この研究会で汗を流していた。また、国体やインターハイにはいつも同行し、選手の活躍に一喜一憂していた
 東京オリンピックを契機として、日本体育協会は、社会体育、一億総スポーツを打ち出した。そして、私も体協の推せんを受け、トレーナーの資格を修得、昭和40年9月、現在の永江トレーニング・センターを設立した。
 過去、18年にわたるバーベル人生の間に、体力づくりに関するすべての面を経験できたことは、私のジム運営において大きな自信となって生きている

社会体育と我々のつとめ

 近年、社会体育、健康管理という言葉をよく耳にするようになった。このことは、これからますますボディビルがクローズ・アップされてくることが予想される。
 体力づくりの指導的役割を果してきた我々は、これらの要請にどうこたえたらいいか。また、社会は我々に何を求めているか。このことを考えるにつけ、現状では我々自身に何かが欠けているような気がしてならない。
 それは、いま求められている体力づくり、健康管理、美容体操……等の言葉と、ボディビルが、果してイコールとして受取られているだろうか。あるいは、ボディビルは異質の単なる筋肉づくりの手段として認識されてはいないだろうか。
 社会がボディビルを正しく評価・認識してくれた時こそ、無限の資源に恵まれ、多くの潜在的需要者を堀り起こす契機になると思う。
 さらに、社会体育、健康管理といっても、実際問題として我々がこれを受け入れるのはなかなか容易ではない。現在のジム形態では、人的、物的、管理的条件において、相当な困難な問題が伴うからである。
 しかし、この豊富な資源を、いかに堀り起こすかに努力しなければならないし、それが我々の使命でもある。
 そのためには、これ迄のジム指導者にあり勝ちな、銭湯の番台にじっとただ座っているようなやり方は、すでに過去のものとして、時代の要請にマッチした進歩がなければならない。

これからのジムのあり方

 私見ですが、ジムの運営を今迄よりもっと間口の広いものにしなければいけないと思う。
 私のジムでも、時代の流れに乗り遅れないように、トレーニングの多様化たとえば、午前中は一般女性、午後は小・中学生、夜は一般男性というように区分し、それぞれの目的に合った指導をしている。
 その他、婦人のクラス、幼児のクラスでは、昨年からスキーや水泳による体力づくりや、バドミントン、バレー、卓球などをどしどし取り入れている。もちろん、当センターにはこれらの設備がないので、公営の施設を借りて行う。
 このようにして、競技性のある運動を併用することによって、とかくマンネリがちなジム内での運動にも変化があり、会員たちも一層熱が入るように見受けられる。
 人間も生物である以上、睡眠から休養を、食事から栄養を、運動から肉体に刺激を与える、ということをモットーに、バーベルだけにこだわらないトレーニング・スケジュールを作成している。
 いままでに数多くのビルダーを指導してきたが、近年、とくに実質的な体づくりをしたいという希望者が多くなってきた。最初は、ビルダーに対するヒガミからこのような言葉が出るのかと思っていたが、対外活動を活発に行うようになってから、社会体育、健康管理という意味がほんとうに理解されてきた結果、このような要求が生まれてきたように思われる。
 各種スポーツマンとの交流を盛んにして、ジム自体の閉鎖性を打破し、広く社会に目を向け、いま何が求められているかを理解して、少なくとも我々の発想の外側に起こっている自発的な運動を妨害しないことから始め、これらを妨げている諸条件と積極的に闘うことが大切だと思う。
 私は以上のことがらを肝に命じて、社会の多様化に遅れることのないようバーベルのみならず、あらゆるスポーツと親しみ、もっと身近なものにするために、ジムの増設を計画している。とくに、全身運動として最適な水泳を取り入れるべく、室内プールの建設はぜひ実現させたいと考えている。
 人おのおの顔も違えば考えも違うように、それぞれ抱負やご意見もあると思うが、ボディビルの将来のあり方について、私なりの考えを述べさせていただいた。
 いつの日か、ボディビルの実践者が社会体育の頂点に立つ日を希望してやまない。
 私のボディビル人生18年間に、いろいろとご指導くださった諸先輩方に、誌面をお借りしてお礼を申し上げます
月刊ボディビルディング1972年8月号

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