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ボディビルと私 〈その9〉
"根性人生"

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月刊ボディビルディング1974年1月号
掲載日:2018.07.26
東大阪ボディビル・センター会長 元プロレスラー 月影四郎

本格的ビルダーの出現

 前回に紹介した第3回(昭和34年)浜寺コンテストあたりから、日本でも本格的なボディビルダーが出現してきたといってもいい。この年に東京で行われたミスター日本コンテストでは竹内威氏がチャンピオンになつた。それまでのチャンピオンたちは、どちらかというとスポーツマン・タイプで、機能的な均斉美を備えてはいたが、いまのような、筋肉隆々とした、一見してボディビルダーというような感じはなかった。したがって、金沢氏や竹内氏の出現はボディビル関係者や一般大衆にとっては大きなおどろきであり、今日のように世界に通用するようになった日本のボディビルダーのレベル・アップに大きな役割を果たした。

 第3回浜寺コンテストに優勝した金沢氏は、昭和35年の第4回コンテストでも文句なしの圧勝だった。昨年までの体格とは見違えるほど、一段と磨きがかかり、その逞しさはまるで仁王様のように見えた。

 私と一緒に行った部員たちは、このときの金沢氏を見て「われわれとは素質が違うんだ。いくらトレーニングしたからといって、あそこまでなれるわけがない」と、口をそろえていうのである。「なにをいってるんだ。彼も人間だ。彼にできてわれわれにできないはずはない。人間の体は鍛え方によっては無限の可能性を秘めているんだ」私は部員たちの精神力の弱さを知って人前もはばからずに叱ったのを覚えている。

 そのころ、私の道場もやっと軌道にのり、それまではただガムシャラにハード・トレーニングしていたのが、きちんとしたスケジュールにしたがった規則正しい練習になっていた。そして技はもちろん、体格的にも逞しく成長し、なかにはボディ・コンテストへ出たいという希望者さえ出てきた。

 そんなとき、さらに逞しくなった金沢氏を目のあたりに見て、あまりのすごさと、自分との差を見せつけられて前記の落胆となったのである。

 それほど成長した金沢氏は、2年連続してミスター浜寺となるや、余勢をかって日本ボディビル協会主催のミスター日本コンテストをも制覇し、文字どおり名実ともに日本一の座についたのであった。

豹の皮のパンツとサングラスで登場した河啓一氏のファイト

 優等生ぞろいの日本人ビルダーの中で、私の印象に強く残っている河啓一氏のファイトぶりにふれてみたい。

 河氏は先月号でも述べたように、昭和34年のミスター浜寺コンテストで2位となり、その後、ジムを創設してボディビルの普及に貢献するとともに、実業界でも大いに活躍しているが、当時からそのファイトはすごかった。

 現在、全国各地で数多くのコンテストが行われているが、出場する選手たちは一様におとなしく、態度や言葉づかいもすべて優等生である。もちろん審査対象に知性とか教養といったものがあるからかも知れないが、もっとスポーツマンらしいファイトがあってもいいと思う。その点、この河氏のライバル意識むき出しのファイトは日本コンテスト界の逸話の1つといってもいいのではないだろうか。

 よくプロボクシングやプロレスリングの試合前のリング上で、選手同志が大きな声でやり合い、いやがうえにもファイトをかきたてているのを頭に浮べていただきたい。ちょうどそんな雰囲気で河氏は「ことしの大会でどうしても金沢氏を破りたい。もし私が負けたらこの大会を最後に引退する」と声明して出場したのである。

 昨年度は惜しくも金沢氏に破れたものの、1年間研究し、精進し、練習に打込んだ体は一段と逞しくなり、必勝を期しての出場であった。そして、舞台に登場した河氏を見て観衆はア然としたのである。 
 パンツは自分でデザインした豹の毛皮、それに濃いサングラスという、目をみはる奇抜スタイルである。これはすべて河氏が自分をアピールするために苦心して考え出したものであろう。現在ではコンテスト規程が確立されていて、とても許されないことであるが規程のなかった当時でも、これはまさに前代未聞といってもよかった。

コンテストの結果は、この少々キザッポイ点が大きくひびいて、またしても金沢氏を破ることはできなかった。そして河氏は試合前に宣言したとおりいさぎよく第一線を退いたのだった。当時の役員や審査員たちは、何としても引退は早いと河氏の翻意を促したのであるが、その固い意志をくつがえすことはできなかった。

 さてこうして、いよいよ金沢氏の全盛時代到来か、と誰もが考えていたのであるが、意外にも1961年度、つまり翌年の大会(この年からミスター全日本コンテストとなった)には神奈川県横浜市出身の大久保智司氏がタイトルを手中におさめ、金沢氏は2位に甘んじたのである。勝負の世界はここでも冷酷な存在であった。当分金沢氏を破るものは出ないと思われていたのに、わずか1年で早くもわれわれの予想はくつがえされたのである。この結果をみて、私の道場の団員たちは驚くと同時に、金沢氏が特別すぐれた素質をもっていたのではなく、努力次第では誰にでもこの栄光の座につくチャンスがあることに気がついた。
私の道場を訪ねてきた親友のキング・コング

私の道場を訪ねてきた親友のキング・コング

"バーベル受け"のみかん箱がこわれて、あわや大ケガ

 私がトレーニング道場を開設してから早くも3年が経過し、部員たちもすべての面で順調に成長してきた。柔道の乱取りやレスリングの技もだんだんと高度になってくるとともに、ボディビルの練習においても使用重量がびっくりするくらい重くなってきた。

 ある日、辻部員が"ウォー!"という大声をあげながらベンチからころげ落ちた。みんなでとんでいってみると運よく辻部員は難を逃がれて青白い顔をして立っていたが、"ベンチ受け"のみかん箱がこわれて、バーベルがころがっていた。現在の進歩した器具を使っているビルダーには考えられないことであろうが、当時のおそまつな器具では充分考えられることであった。

 つまり、部員の中でもとくに筋力を誇っていた辻部員がベンチ・プレスで最高重量の150kgに挑戦。見事成功したまではよかったのであるが、挙上後にバーベルをみかん箱の上に載せたとたん、グシャとつぶれてしまったというわけである。辻部員は間一髪、身をすくめて横に逃がれて難をまぬがれたのである。

 スクワット台とか鉄製のバーベル・ラックのついたベンチはその後に開発されたもので、当時はどこでもみかん箱などを積んでバーベル受けにしていたものである。したがって、重量の軽いうちはいいが、だんだん重くなってくると、みかん箱では支えきれなくなって思わぬ事故のもとになる。したがって現在のようにスクワット200kgとか、ベンチ・プレス160kgというような練習はほとんど行われなかったのではないかと思う。

 余談になるが、たとえばスクワットをやる場合、現在ではスクワット台にかけてあるバーベルをいきなり肩にかついで行えばよいが、スクワット台がない当時では、床にあるバーベルをいったんプレスして肩にかつぎ、それからスクワットをして、終わればまたバック・プレスして頭の上をとおして床に下ろすという方法であった。これではとても200kgのスクワットをやるのはたいへんである。

 さて、話が大きく脱線したが、前述したように、この年のチャンピオンは大久保氏、2位 金沢氏、3位に三重県の東勝氏が選ばれた。大久保氏はその後プロのショー・ダンサーとして活躍しており、1昨年、シュワルツェネガーとコロンボをゲストに招いて京都で行われたIFBBのミスター・オリンピア(プロの部)に10数年ぶりに出場し、見事栄冠を獲得している。プロとはいえ、その洗練されたポージングと均育のとれたプロポーションは以前と少しも変らず、長い年月にわたる精進がしのばれた。
昭和36年第1回ミスター全日本コンテスト。左から2位・金沢選手、1位・大久保選手、3位・東選手

昭和36年第1回ミスター全日本コンテスト。左から2位・金沢選手、1位・大久保選手、3位・東選手

しごきトレーニング

 ではここで私が考案したしごきトレーニングを2〜3紹介しよう。現在、国際ボディビル・センターのコーチで大阪ボディビル協会の理事もしている門屋君が親友の滝川部員を訪ねて、ある日私の道場にやってきた。たしか27才か28才だったと思う。見れば下腹が少し出っ張り、首や手にはボッテリと脂肪がついた精彩のないオッサンのような感じだった。

 このみにくい中年肥りをさんざんこきおろされた門屋君は、さすが九州男子らしく、その日のうちに入門し、ついにボディビルが本職になったという変わり種である。もちろん最初はシット・アップは5〜6回、ベンチ・プレスは30kgでアゴを出す始末。しかし根性だけはものすごかった。何年ぶりかの運動で、関節といわず筋肉といわずからだ全体が痛いはずなのに弱音だけは絶対にはかなかった。そして、とくに腹筋と脚の弱かった彼のために考えたトレーニングが、これから述べる宙づりシット・アップと肩にバーベルを結わえ付けたスクワットである。これは筋肉はもちろん、スタミナや根性を養うのにも非常に効果があった。

〈宙づりシット・アップ〉

 これは鉄棒に両足を結わえてさかさにぶら下げ、それで指示した回数だけシット・アップをするのである。苦しくなって上半身があがらなくなると、血が下がってさらに苦しくなる。ふつうのシット・アップなら、苦しくなればそれでおしまいである。ところが、この宙づりシット・アップは決めた回数をやるまでは絶対に足をほどいてやらないので、いくら苦しくても続けるほかはない。しかも、からだがゆれてふつうのシット・アップよりもずっとやりにくい。もちろん、こんな手荒なやり方のときは、コーチがそばについていて、一瞬も目を離せない。大きな事故につながることもあるから、いくら根性といっても、そこには練習者の体力の限界を充分に把握していなければならない。

〈肩にバーベルを結わえつけたヒンズー・スクワット〉

 最初はふつうのヒンズー・スクワット(負荷をかけないでから身のまま行うスクワット)を何百回というやり方だったが、スタミナと脚を鍛えるために考えたのがこのスクワットである。30kgのバーベルを肩にかつぎ、それをひもでタスキがけのように結わえつけてしまう。このとき両手は自由になるから、要領はヒンズー・スクワットとまったく同じである。これを100回ぐらいから始めて500回〜600回と増やしていって、指示した回数をこなすまではバーベルをほどいてやらない。最後にはひっくりかえることもしばしばあった。

 ここにあげたのはほんの1例であるが、当時の私の道場は、現在のボディビル・ジムと少し違い、映画のアトラクションとしてレスリング、空手などを見せていたので、とくにこのようなきびしいトレーニングを果していたのであるが、健康管理を主目的とした現在のジムのやり方としては適切ではないかも知れない。(つづく)
月刊ボディビルディング1974年1月号

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