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世界ビルダーへの躍進
ビル・パール物語<5>

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月刊ボディビルディング1974年2月号
掲載日:2018.07.07
高山 勝一郎
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ー新しいジム経営ー

 明けて1962年、ビルにとって新しい人生の一転換が待ち受けていた。
 1961年、NABBAミスター・ユニバースに再び優勝してダブル・タイトル・ホルダーになってからというもの彼の身辺は前にも増して忙しくなっていた。サクラメントの彼のジムには、”大ビル・パール”の名を慕って毎日のように練習生志願が相つぎ、もともと手狭まだったジムは、今やパンク寸前のところまできていた。
 
 ここに、ジョージ・レッドパスという男がいる。
 彼は南カリフォルニアはパサデナ地区に大きなヘルス・ジムを経営していたが、こちらは逆に人が集まらずに、そのジムを手離そうとしていた。
「ビル、これは買いものだよ。だいいちこのパサデナなら、私のジムからも車で1時間チョットだ。是非こっちへ移ってきたまえ」
 レオ・スターンはこういって熱心にビルのジム移転をすすめた。
「しかし、あんまりあなたのジム近くへ進出すると・・・・・・」
「私のところの練習生が減るというのか。ビル、そんな心配なら無用だよ。君と私とは強いパートナー・シップで結ばれているんだ。練習生がどっちへ行こうと、そんなことは問題じゃないさ」
「それならば・・・・・・」ということで、ビルはジョージ・レッドパスとジム売買の交渉をはじめた。
 ジョージも相手がビル・パールならと、割安の条件でジムをゆずってくれることになった。
 かくして1962年夏、ジムごと引越したビルはこのパサデナに落ちつくことになったのである。
 サクラメントのジム経営は7年つづいたわけだが、ここの多くの練習生がビルを慕ってパサデナのジムへ移ってきたという。
「パサデナ・ヘルス・クラブ」、ビル・パールの生涯の拠点は、この時からスタートするのである。

ー鉄スパイク事件ー

 パサデナは南カルフォルニアの気候温暖なところにあり、一年中太陽の光がふりそそぐ恵まれた土地だった。
 ビルはジムの経営を一応のレールに乗せると再び自分自身のための猛烈なトレーニングに入った。新しいジム、太陽の恵み、熱心な練習生・・・・・・すべてがビルの心を明るくさせていた。

 この頃から、ビルにはやれゲスト・ポーザーだの、エキシビションだのといろんな声がうるさくかかってくるようになった。
 人のいいビルは、”ことわる”ことを知らないかのように、この依頼を引き受けては全米を歩き廻るハメにおちいったが、苦情もいわず「ボディビルの普及に役立つなら」と、舞台をつとめるのであった。
”水まくら破り” ”鉄スパイク曲げ” ”車プレート裂き” ”電話帳やぶり”等々の力技も披露した。
 旅というものは何もしないでも疲れるもの、まして旅先でこんな力技のステージをつとめることは大変なことだった。しかも、ビルは旅行不眠症で、旅のすきな方ではない。

 ある日、こんなことがあった。
 ケンタッキーのステージで、電話帳を破り、水まくらに息を吹きこんで破りすてたまではよかったが、連日の疲労が重なって足がフラリとしてきた。
 次は太い鉄スパイクを曲げる番だ。
 これを両手に握ってグッと力を入れたが、いつもなら徐々に曲がる筈のスパイクがビクともしないのだ。
「オカシイ。こんなはずはない」
 観客に失望を与えたくない気持が、ビルをあせらせた。
 顔面から汗が吹き出し、必死になって手に力を込める。会場はシーンとなってそのビルをみつめている。
 5分、10分・・・・・・観衆はどよめいた。ビルの左手から血がしたたり落ち、彼の足を染め床に散ったからだ。
 だが鉄は曲がらない。そのとき会場に嵐のような拍手が舞い上った。
「会場の皆さん。疲れているから鉄が曲らない、とはビルダーとしていえません。ステージを血で汚さないために今日はこれで許してください」
 ビルはスパイクから右手を離した。しかし、彼の左手からスパイクは離れなかった。手のひらの皮を破り、肉にくいこんで密着したままなのだ。
 その時の会場の拍手は、力技の成功に与えられたどの拍手よりも大きかった。
 かけつけた医者が、無理にこのスパイクをビルの左手から抜きとったが、肉がはじけた左手は、人々の顔をそむけさせた。
「ビルならそうしたでしょう」
 この話を聞いたレオ・スターンは苦笑しながら声をつまらせたという。

ーアジアへの旅ー

 左手の傷がようやくなおってきたある日、ビルの往年の師ジョン・グリメックから電話がかかってきた。
「ビル、東南アジアへ一度でかけてみないか」
「東南アジアへ?」
「そうだ。インドのボディビル関係者から私へ招待が来ているんだが、忙しくてどうしても行けない。かわりに君を推薦しておいたんだよ」
 旅行ぎらいの彼も、まだ見ぬアジアには興味が十二分にあった。ビルは心よくこれを引受けた。
 かくして1963年4月、彼は空路ボンベイへ向った。
 ちなみに彼がアメリカを発った時のウェイトが240ポンドで、ビルのベスト・コンディション。インドから帰国した時のウェイトは198ポンド。アジアで20キロも体重をおとしてしまった原因は何であったろうか。
 インドで何が起ったのか。
 
 ボンベイの空港には、アイアン・クラブとクリケット・クラブの役員が待ち受けていて、ビルは彼らに暖かく迎えられた。
 ホテルはボンベイで超一級であった。
 ビルが驚いたのは、街々に、ホテルに、レストランにはられているビル自身の超大型ポスターである。一辺がおよそ2メートル、アメリカでもこんな大きなポスターは見たことはない。
アメリカの誇る世界のビルダー ビル・パール来印!
神かヘラクレスか
すべての道は当市ブラボルン・スタディアムへ通ず!来りて見よ!
 ポスターにはこう大書されてある。
 ”神かヘラクレスか”にはさすがの彼も参ってしまった。
 
 当日4月26日、このメイン・スタディアムへつめかけた観衆の数はなんと25,000人。ビルの一挙手一投足に、会場われんばかりの拍手である。
 世界の国々の中でも、インドほどボディ・カルチュアに熱心な国はない。
 大きなクラブがアチコチにあり、ウェイト・トレーニング、ウェイトリフティング、レスリング、それにヨガを指導・普及させている。
 だが、インド人の、とくに男性の身体は非常に貧弱でやせている。平均45~48キロの体重である。こういう人たちが生まれて初めて、体重110キロのビル・パールを見たのだから、その反響は大変なものであった。
 ニューデリーのスタディアムには、30,000人の観衆が押し寄せた。
 そこでもビルは、”生きている神”として扱われたのも不思議ではない。
 ただ一つ、ビルが辟易したのはインドの食事であった。
 お米と野菜、それにカラい香辛料だけでは110キロの体重を維持していくわけにはいかない。牛は神聖なるものとして牛肉が食事には出てこない。
 困りはてたビルは、アメリカ大使館員に頼んでビーフとポークの缶詰をわけてもらい、これでようやくウエをしのいだ。
 帰国する時に体重を著しく失っていたのはそのためである。

ー早朝トレーニングと日誌ー

 アジアから帰国して体調をととのえたビルは、あらためて自分のトレーニングにとりかかった。
 といっても仕事もあれば、多くの練習生の指導もある。好きな時にトレーニングできる時刻は、いつもとっくに過ぎていた。
 彼は朝、4時半に起床し、5時半からトレーニングを始めることにした。
 トレーニング時間はおよそ3時間。
 こうすれば、日中にトレーニングにやってくる練習生の指導に十分打ち込めるし、夜、ジムの経営を考えたり、ポージング・エキジビションに顔を出すことも可能だった。
 この時から、10年以上もの間、現在に至るまで、彼はこの早朝トレーニングを励行しているのである。
 また、ビルは本格的にボディビルにとり組んだ17才の頃から、詳細なトレーニング日記をつけてきており、20有余年の間、これを1日も欠かしていない。
 この日記はいざという時、大きな役割をはたす。たとえば、「急いで10キロ体重を増加させバルク・アップをはかる」必要が生じた時、あるいは「5キロ体重をおとしてデフィニションをつける」必要があるとき、この以前の日記を見て、その時どのようなトレーニング方法をとって、どのような効果があったか、調べることによって新しい練習方法を考えだせるのである。
 効果の多かった方法が判った時は、もう一度それを採用して効果を上げる・・・・・・ビルはそうやって自分の体を向上させてきたわけだ。
「この方法を多くの人々にすすめて練習効果を上げています」とビル・パールは語っている。

ーグリメック・パーク・パールー

 1960年代は、いろんなボディビル雑誌がアメリカで刊行されはじめたころである。
 とくにワイダー系の雑誌には、そこで扱っているボディビル器具や薬・食品の宣伝をかねて、いろんな試みがなされはじめていた。
 たとえば「ビルダー人気投票」というのがある。IFBB系の限られた範囲のコンテストを行い、ミスターアメリカとかユニバースとかのタイトルを乱発していたが、そういうタイトルを得たビルダーたちがよく人気投票の上位に名を並べていた。
 ここでは、かのジョン・グリメックも、レジ・パークも、そしてビル・パークさえずっと下位にしか名が出なかった。
 いや下位にでも名が出るのならともかく、この世界の偉大なビルダー3名が全く名も載らないことがしばしばあったのである。
 心ある人々はこういった雑誌のあり方をにがにがしく思っていたようだが当の3ビルダーはただもくもくと自分の道を歩んでいた。
 グリメックはヨークの重役として、パークは南阿のジムのオーナーとしてパールもまたカルフォルニア有数のジムのオーナーとして、その偉大な業績とともに着実な経営の道を歩んでいたのである。
 ただ、おさまらないのはレオ・スターンだった。
「ビル、誰が偉大なビルダーで、誰が世界で最も人気があるか、これを決めてくれるのはロンドンのコンテストをおいてほかにない。もう一度、NABBAミスター・ユニバースのコンテストに出る気はないか」
 レオの熱意に動かされて、ビルは翌1967年のコンテストに出場する決意をかため、一層のハード・トレーニングに突入した。
 時に1966年も暮れんとする初冬であった。

ーシュワルツェネガーの出現ー

 ビル・パールはすでに37才の年を数えるに至っていた。
 しかし、その体調と筋肉は、今までのビルの最高の状態にあったといってよい。
”ビル・パール、再びロンドンに!”
この報はいち早くヨーロッパ一円に流れ、ロンドンにおける前景気も大変なものだった。 
 レオ・スターンは9月に入るとソワソワ落ち着かず、ついに、ビル・パールにくっついて一緒にロンドン入りした。ビルもこの名トレーナーについてきてもらうことに安心して、よく出る旅行ノイローゼにかからなかったのは幸いであった。
 ロンドンのホテルには、コンテストの5日前に入ってまず体を休めた。
 翌日、2人はレストランに行こうとして、ロビーでバッタリ若いビルダーとおぼしき逞しい青年に出会った。
「やあ、ビル・パールさんですね」
 青年はニッコリ破顔すると、ドイツ語なまりの英語で話しかけてきた。
「君は?」
 ビルは何となくその青年に親近感を覚えて聞いた。
「シュワルツェネガーです。アーノルド・シュワルツェネガー。オーストリアから来ました。今度のコンテストではご一緒できますね」
「ホー、君も出場するのか。して、アマ?それともプロの部に?」
 レオがせきこんで口をはさんだが、彼は相当この青年の巨大さに驚いたらしい。
「もちろんアマですよ。まだ20才ですから・・・・・・」彼はそういって、テレたように笑った。
 ビルは”この男ならアマの部できっと優勝するだろう”そう思いながらかたい握手を交わした。

ートリプル・タイトルー

 会場のヴィクトリア・パレスは毎年のことながら超満員の盛況であった。
 観衆は、コンテスト・プログラムの最後に真打としてステージに登場したビル・パールに狂喜して拍手を送った。
 この日のビルは完璧であった。
 バルクと共にノミで刻んだようなデフィニションがあり、どのボディパーツも完全なまでの筋肉美の極致を見せていた。そのポージングも、まさに動く芸術品そのものだった。
 プロ・ミスター・ユニバース総合優勝の栄冠は三たびこのビル・パールの頭上に輝いたのである。
 アマ・ミスター・ユニバースは、いみじくもビルが予感したように、オーストリアの新星アーノルド・シュワルツェネガーがそのチャンピオンの座を獲得した。
 ボディビル史上最年少のチャンピオンの誕生であった。
 もちろんそのシュワルツェネガーすら、この日のビル・パールにはとうてい及ばなかった。それほどビルは完成された美しさを持っていたのである。
 のちにNABBAのオスカー・ハイデンスタム会長はこう語っている。
「本当のことを云うと、ビル・パール君が出場することが、今回のコンテストを盛り上がりの無いものにしてしまった。これはもちろん彼のせいではない。
”ビル・パール出場”ときいて、他の著名ビルダーの多くが、出場しても1位獲得の無理なことを知って、その予定していた出場をとり消してきたからだ。それほどビル・パール君は完全だった。今や彼は、名実ともに世界一だろう」・・・・・・と。 (つづく)
1967年度NABBAミスター・ユニバース・コンテストに優勝したパール(プロの部)とシュワルツェネガー(アマの部)

1967年度NABBAミスター・ユニバース・コンテストに優勝したパール(プロの部)とシュワルツェネガー(アマの部)

月刊ボディビルディング1974年2月号

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