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日本ボディビル史 <その3>

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月刊ボディビルディング1975年10月号
掲載日:2018.04.07
日本ボディビル協会副会長 田鶴浜 弘
記事画像1

協会発足と記念ミスター日本コンテスト

 前号で日本ボディビル協会設立までの経緯を述べた。そして,初代役員として次の各氏が選任された。

◇会長 川崎秀二(厚生大臣)
◇副会長 水町四郎(医博),田鶴浜弘(ファイト社長)
◇理事長 平松俊男(早大OB)
◇常務理事 人見太郎(早大OB)鈴木智雄(有識者),玉利斉(早大バーベル・クラブ主将),小藤清己(早大OB),野口三千三(芸大教授),菊地宣次(競輪選手会)
◇理事 窪田登(早大コーチ),遠藤英夫(早大バーベル・クラブ),松内則明(慶大OB),安東喜四六(医学博士),小林洋介(早大バーベル・クラブ),竹内昌士(早大バーベル・クラブ),北泉恵(会長秘書)
◇顧問 八田一朗(日本アマレス協会長),北沢清(スポーツ評論家),松沢一鶴(日本水上連盟),浅沼稲次郎,松本七郎,柳田秀一,勝間田清一,田原春次,西村栄一,山中貞則,桜内義雄,森清,臼井荘一,荒船清十郎(以上,衆院議員),薩摩雄次,須磨弥吉郎,福永健司(以上参院議員),村木良夫(住友鉱業社長),鹿内信隆(ニッポン放送社長)厚生次官,文部次官。
◇地方理事 山田尚(仙台),東坊利重(名古屋・中部日本新聞),谷口勝久(大阪・大阪毎日新聞),倉田俊象(千菜),相原喜好(茨城),福本清太郎(新潟)。

 こうして華々しくスタートした日本ボディビル協会の発会披露をかねたミスター日本コンテストの特色は,協会設立目的である日本民族の体格改良ムーブメントの趣旨にそって,日本男性として,最も理想に近い身体を追求したわけである。

 従来行われたことのあるミスター日本コンテスト(福島)は,重量あげ競技の枠内のものであり,いわば特殊な“ミスター日本”という色彩があったと思われることと較べ合わせ,非常に広い意味の“現代のパーフェクト男性像”を目標としたわけである。


 コンテスト開催準備で,協会が最も苦心したのは,審査基準と,その採点方式であった。

 従来,国際的に(重量あげ競技にリンクしたものが多い)行われているコンテストの採点方式も原案となったことはもちろんであったが,協会の目標が,前記のとおりであり,また,文部省,厚生省と両省の支持のもとに,日本民族の体格改良ムーブメントのデモンストレーションとしてふさわしい性格を具体的に如何に盛り込むかという点に苦心したものである。

 副会長の1人であり,スポーツ医学の権威,水町四郎医博を中心に,あらゆる角度から専門的検討が重ねられた結果,国際的に行われてきている在来一般のボディ・コンテストの選考基準といくぶん趣きを異にし,

 ①柔軟性のテスト
 ②動態運動能力テスト

以上の2点を審査基準項目に加えることにした。

 その新項目の審査方法についても種々の案が取捨された結果,つぎのとおりに決定したわけである。

<審査採点の基準>

①筋肉の発達状態(30点満点)
 全身の筋肉を(a)体幹前面(b)体幹背面(c)腕(d)脚と4分して採点する。
②全身の均整(30点満点)
 (a)先天的な均整(b)後天的な均整をそれぞれ15点ずつ。
③ポージング(15点満点)
 各自の得意とする表現姿勢を2種類ずつ行うもので,ポーズの出来栄えそのものの審査と表現能力等,精神面の審査を兼ねる。
④柔軟度(15点満点)
 (a)前屈(b)後屈
⑤運動能力(10点満点)
 縄跳び30秒間の動作から判定する。


 審査は審査員10名の平均点数によって順位を定め,予選は①②項のみで行い,上位30名を予選通過者とする。

 参加出場選手は,協会創立そうそうにもかかわらず全日本にまたがり180名の多数に及んだ。

 内訳は①“Fight”誌が過去7ヵ月間に行なった誌上コンテスト参加者中から優秀者24名を推薦(このコンテストの上位者はミスター日本以下ほとんどが,“Fight”誌上コンテストからの推薦者であった),②日本ボディビル協会第一次公認ボディビル・ジム(別表2の17ジム)からの推薦者,③協会理事推薦者などであった。


 日本ボディビル協会の初のこの“ミスター日本コンテスト”は,昭和31年1月14日,神田の共立講堂で文部,厚生両省並びに東京都,三共株式会社の後援で開催,当時のボディビル・プームの人気を背景に満場は立錐の余地無いほどの大入りであった。

 当日の審査員は下記のとおり。

 川崎秀二(協会会長)
 水町四郎(〃副会長─審査委員長)
 田鶴浜弘(〃副会長)
 平松俊男(〃理事長)
 野口三千三(〃常務理事)
 鈴木智雄(〃常務戦事)
 湊 要吉(〃理事)
 谷口勝久(〃大阪理事)
 山田 尚(〃仙台理事)
 ジェフ・A・ショルツ(学識経験者)

 この審査員の構成にも,パーフェクト男性像への野心的な意欲の一端があらわれているように思われる。たとえば野口三千三氏は芸大教授であるし,鈴木智雄氏は旧海軍出身の体操教官であり,当時は銀座で男性のトップ・モードの洋服店経営者。山田氏は仙台のバート・マーチン教授門下,ショルツ氏はドイツ人ボディビルダーなどと異色の顔ぶれを加えた。


 コンテストの審査は,先ず舞台裏に参加全選手集合,10名の審査員が180名の参加者中から予選通過の30名を裏審査によって選出する方法をとって行われた。

 最終審査は,大入り満員の大歓衆を前に,壇上に設けられた審査台上において,1名ずつの審査が行われる。破れんばかりの拍手に迎えられて予選通過者30名が舞台後方にならんだ。

 審査台上におけるポージングの他に柔軟度テストの前屈と後屈運動が行われる他,動態運動能力判定用の縄跳びが,一般通常のボディ・コンテストには見られない異彩であった。

<最終審査全員の成績>

(1)ミスター日本 中大路和彦(会社員・東京)19才,164cm,68kg,78.2点
(2)杉浦清太郎(早大・東京)18才,165cm,64kg,76.4点
(3)広瀬一郎(立大・東京)21才,172cm,69kg,76.1点
(4)金子聴(コーチ・東京)19才,166cm,68kg,75.2点
(5)染矢文武(早大・東京)20才,162cm,71kg,74.6点
(6)井田浩史(早大・千葉)20才,163cm,65kg,73.9点
(7)鈴木邦久(工員・東京)19才,165cm,64kg,72.8点
(8)高野保信(学生・神戸)22才,164cm,69kg,72.2点
(9)倉田俊象(学生・埼玉)18才,171cm,68kg,71点
(10)風間圭吾(商業・新潟)22才,163cm,73kg,70.4点
(11)早坂春夫(教員・仙台)23才,160cm,69kg,70点
(12)細川義仁(会社員・千葉)17才,176cm,74kg,69.8点
(13)久保浩(学生・神戸)69.4点 (14)山下浩志(警察官・大阪)69.2点 (15)佐藤利夫(農業・仙台)68.8点 (16)竹内威(会社員・東京)68.6点 (17)土門信義(会社員・横浜)67.5点(18)谷口州男(会社員・東京)67点(19)川添 忍(会社員・滋賀)66.8点(20)岡部秀敏(会社員・横浜)66.3点(21)佐藤健次(学生・東京)66.2点(22)菅伸一郎(学生・千葉)64.8点(23)村岡宏(ホテル勤務・鹿児島)64.4点(24)牛島貞夫(学生・東京)63.9点(25)河合正明(学生・東京)62.8点(26)寺本潔(学生・東京)62.2点(27)加藤卓(魚商・新潟)60.4点(28)江刺義二(工業・仙台)59.1点(29)山崎悦臣(教員・東京)58.6点(30)藤原勤也(学生・仙台)57.2点

 なお,上位12選手の得点内容は<別表1>を参照されたい。


 上位入賞の選手については,当時の“Fight”誌のボディビル記念コンテスト特集号に玉利氏が述べているのでその稿の抜粋をここに引用しておく。

<玉利斉氏の観戦記から抜粋>

 前略……第1回ミスター日本に選出された中大路和彦氏は,筋肉の発達状態においては,30名中最高の27.7点を獲得しているが,むしろ私は筋肉面だけで見るならば,神戸の高野氏,産経ジムの風間氏等が上回っていたと思われる。均整においては25.2点で準ミスターの杉浦氏,広瀬氏等に次いで4位であるが,それは先天的な均整に劣りこそすれ,後天的な努力によって築きあげた均整は決して劣るどころか,むしろ中大路氏が勝っていたといえよう。

 つぎに柔軟性,運動能力の審査では柔軟性が8点,運動能力が4.4点と,いずれも予選通過した30選手中の最高点をマークしている。これは彼が平素からバーベル運動のみに片寄らず,総合的なボディビルとして柔軟体操,ランニング等を併用し,また相撲,柔道,水泳と,いろいろなスポーツを行うのがプラスして,運動能力面で非常に優秀な成績を得たのだろう。

 さらに,ポーズは,彼の性格そのままの若さと素直さがにじみ出て,うま味こそないが実に厭味のない健康で清潔なポーズの味であった。

 ……中略……また,6位以内に入賞しなかったが,神戸の高野氏,仙台の早坂氏,東京の風間氏,鈴木氏,埼玉の倉田氏など,いずれも総合点70点を越しており,入賞者に比べて決して遜色はなかった。(以下略)

 最後に,このコンテストの総評だがこれも川崎秀二会長が“Fight”誌の“ボディビル記念コンテスト特集号”によせられていて,このコンテストをめぐる状況を実によく回想できるのでその稿の要点を抜粋させていただくことにする。

<川崎会長の総評から抜粋>

 ……前略……今回の催しは,日本ボディビル協会の地方組織がまだ出来ていないので,地方予選を経て来た出場選手たちではないから,本当の意味での“ミスター日本”とはいい難い。だから,協会内部の一部では,今回は,“ミスター・へルス”と呼称したらどうか――という意見もあったし,確かに,その方が当を得ているようにも思われたが,折角,全国的に盛りあがったボディビル運動に,一大拍車をかけるためには,やはり“ミスター日本”の呼称の方がアトラクティブだということになり,ムーブメント盛り上げのために,おこがましくも"ミスター日本”を掲げることにした。

 第1位に選ばれた中大路君や準ミスターの杉浦,広瀬両君は,出場者の中から選ぶとすれば文句ない選考だが,ただ2点ほど私には遺憾な点がある。――というのは,第1位の中大路君にしても,身長164cmで,日本人の平均身長スレスレのところである。ミス・ニッポンになった高橋嬢が,身長167cmというのに,近代スポーツ能力をも備えるべきミスター日本が,女性よりも小粒では大変なアンバランスであること。今一つは,年齢的に見て,24~25歳から27~28歳の肉体的な発達の頂点に達しているはずの人々から入賞者が出なかった事である。

 私は率直にいって,大学卒業後なお3~4年のボディビル鍛練を経て27~28歳で少なくとも175cm,75kg位の身長,体重で,均整,筋肉,運動能力の発達したスポーツ・マンが登場したときに,はじめて“ミスター日本”も本格化するものと思っている。

 今回のコンテストは,その意味で日本の今日置かれている社会的環境の貧困とボディビル運動の揺藍期の足取りを表現したものと思う。

 ……中略……私は,ぜひとも各府県のミスターを選び,それに自由参加者を加えて1956年度ミスター日本を今一度選びたい。その際は,私の念願であるスポーツ能力テストを重要な選出基準にしたい。体協のやっているスポーツ・バッジ・テストの中級ぐらいに合格しないで“ミスター日本”といっても国民が納得しないと思うからだ。

 そして最後の目的は,あくまでチャンピオンの養成ではなく,国民の日常生活にとけ込み,健康の増進に役立つ各個人(ケース・バイ・ケース)に適合したボディビルを展開し,日本人の体格向上に資することにある。……以下略……。(次号につづく)
【初代会長・川崎秀二氏の挨拶】

【初代会長・川崎秀二氏の挨拶】

【初代ミスター日本および準ミスター日本に選出された,左から3位・広瀬,1位・中大路,2位・杉浦の3選手。】

【初代ミスター日本および準ミスター日本に選出された,左から3位・広瀬,1位・中大路,2位・杉浦の3選手。】

【中大路選手の喜びのポーズ】

【中大路選手の喜びのポーズ】

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