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1976年度第6回パワーリフティング世界選手権
く講評とその周辺>

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月刊ボディビルディング1977年3月号
掲載日:2018.08.14
JPA理事長'76世界大会団長兼チーフ・コーチ
アスレティックせき会長 関二三男

◇はじめに◇

順序が逆になり、チーム・ドクター兼サイドコーチの渡辺勝利氏(本誌1月号)、フェザー級日本代表富永義信選手(本誌2月号)と続いた後に、この大会の総括的な講評が載ることになってしまったことをおわびします。

私の原稿が遅れる羽目になった理由は、私事でまことに恐縮ですが、昨年8月以来表面化した、実業家とアマチュア精神という見解の相違から、11月末、ジムの共同経営に失敗し、この講評を書いている時点にて、やっと次の新ジム“アスレティックせき”の設立が確実になったという状態で、遅ればせながら読者の皆様に第6回世界選手権大会の模様をお伝えし、また、われわれも反省の糧としたいと思います。

今大会は新加盟の西ドイツを加え、参加国13ヵ国(加盟国27ヵ国)と、参加国こそ少ないが、その内容は、わが日本チームにとって非常に厳しく、日本選手に比べて諸外国選手が著しく成長し、大幅に記録を伸ばしていた。

私はこの世界選手権大会に際しての対策として、検量のすぐあとで、減量によるスキッパラをなんとかして満腹にしてやることを考えていた。これは一昨年のイギリス大会のとき、今野選手が言った「やっぱり日本人はメシでなければダメだ」との言葉を重視し、おにぎりとおしんこ作戦をとった。幸いにして、今大会には3人の婦人が同行することになっていたので好都合だった。各選手には米を2合ずつ持参してもらい、私がキャンプ用ガスボンベ3本とバーナーを用意していった。

時差によるハンディーは、日本選手だけでなく、オーストラリアもアフリカ等も同じである。出発後、機内で全選手に極力睡眠をとるように指示をした。

翌(日付は1日戻る)朝、サンフランシスコ着。市内見物をして3時頃ホテルに到着したが、富永選手の要望により、YMCAを見つけて軽くトレーニングしようということになった。その途中、北米新聞社を訪問、そのあとで練習しようと思ったが、ねむ気を押えて同行した選手もドッときた睡魔には勝てず、やむなくトレーニングは中止してホテルに引返した。

翌朝、サンフランシスコを発ってシカゴ経由で目的地ハリスバーグに着いたのが夕方6時。マイクロバスにてヨーク・モーターイン到着。このホテルが同市で一番良いホテルで、われわれ選手団の宿舎に当てられていた。

◇大会直前の調整と作戦◇

翌日は午後2時ごろ、調整のため全員そろってヨーク・バーベル・クラブに出かけた。ここで大事なのは、責任ある団長兼チーフ・コーチとして、ふだん見ていない各選手の状態を見極めることである。日本を発つ前に、一応全選手一人一人の実力、特徴、欠点等を頭に置いて試技重量の設定などの作戦は練ってきたが、大会直前の各選手のコンディションを確めてこれに修正を加える必要があるからだ。

私も同時に行われるミスター・ワールド・コンテストに備えるトレーニングをしながら、各選手の調整をもう一度見ることにした。
[1年ぶりの再会を喜び合うラインホルトと私]

[1年ぶりの再会を喜び合うラインホルトと私]

練習中、スーパー・へビー級のドン・ラインホルトが婦人を伴なって現われ旧懐をあたためた。この世界No.1のパワーリフターを見た日本選手のおどろきようは大変なものだった。足立選手のことばを借りれば、「ワシャーこの人に会えただけでアメリカまで来た甲斐があった」というほど、パワーリフティングをやるために生まれてきたようなバランスのとれた大男である。

もう1つ皆が驚いたのは、スクワット女子世界No.1といわれるミセス・ラインホルトである。彼女の実力はなんと200kgだという。均斉のとれたスマートなスタイルからはとてもそんな怪力があるとは想像できない。

その晩、全選手を私の部屋に集め、最後の作戦会議を行なった。前にも述べたが、日本を発つ前に立てた作戦はこの日、直接私の目で確かめた各選手の調子から見ても間違いはなかった。そこで、全選手一人一人に各種目の第1回目の試技から最後の試技までの重量選定、さらに世界新が可能な選手にはその重量に至るまでの作戦を示して同意を求めた。

選手たちは私のこの重量選定の綿密な作戦に驚き、ほとんどの選手が同意してくれた。中には私の計画以外の重量でスタートすることを希望する選手もいたが、それはその選手なりに自分の体調を充分に把握してすでに作戦ができあがっていたのである。その責任ある心がまえを私はうれしく思った。

団長としての私の立場からすれば、10選手中、ただ1人の失格者も出してはならない。さらに各選手の力を最大限に発揮させて限界ギリギリの記録を引き出させてやりたい。それが私の使命である。

よしんば世界新記録をマークする選手があったとしても、その記録は選手個々のものであり、日本チームとしては、その記録をトータルに生かして、個人総合、団体成績にむすびつけなければならない。世界新記録を出すことだけにこだわって、他の成績を犠牲にするわけにはいかない。そうかといって、せっかくのこの檜舞台でなんとか世界新記録を達成させてやりたい。このかね合いが私の一番頭をいためる問題である。

翌6日は、完全休養日とし、私とドクター渡辺は、応援にかけつけてくれた鈴木典比古氏を通訳にお願いして世界連盟会議に出席した。

会議は朝から夕方まで10時間近く続けられ、各国の役員の間で活発な意見が飛びかい、そして諸議題が消化された。この時、アジア地域として同じテーブルについたインドからJPAは韓国と中国に世界連盟に加盟するよう説得してほしいと要請された。そしてインドはすでに加盟しているインドネシアと共に周囲の国々に加盟を呼びかけていると、熱っぽく語っていた。

やはりアジア地域では日本が盟主と見られており、近い将来、アジア・パワーリフティング選手権大会を日本で開こうとまで持ちかけられた。まだまだ弱体のわれわれJPAとしては、世界各国の熱意にただただ感心させられるばかりだった。

長時間にわたる会議も終り、明日の試合に備えて早やばやと床についた。
〔スクワット200kgの記録を持つミセス・ラインホルト。左は因幡英昭選手。〕

〔スクワット200kgの記録を持つミセス・ラインホルト。左は因幡英昭選手。〕

◇試合開始◇

7日、いよいよ大会開幕である。試合場はホテルからほど近いウィリアム・ペン・ハイスクールである。まず、フライ、バンタムの2階級から始まる試合に先立って行われる検量に立合った。このとき、渡部選手の「YORK」というマーク入りのTシャツがコスチューム・チェックに引っかかり、急きょ普通のTシャツにとり替えるというハプニングがあった。

検量の方は因幡、渡部両選手ともにフライ級リミット以下で無事1回でパスした。さあ、アイディアのおにぎり作戦がどうなるか興味があった。腹ペコの2人は、検量がすむやいなやおにぎりにとびついたが、渡部選手は減量が苦しかったためか、思うようにノドを通らず、インスタントみそ汁を飲みながらやっと3個食べた。因幡選手は「やっぱりにぎりめしはいいなあ」といいながら軽く4個たいらげ、さらにバナナなども食べていた。

作戦大成功、私は満足し、3婦人の労に対して感謝した。

いよいよ試合が始まった。まず、ステージで選手が紹介される。私はその間、次の試合に出るフェザー級の富永選手が検量をうまくパスしたかどうかまたチェックは無事にすんだかなどと気になったが、私のからだは1つしかない。富永選手の方はサイド・コーチの渡辺氏がついているので、因幡、渡部両選手のコーチについた。この軽量級の3選手はいずれも3位以内に入賞可能であり、また、あとに続く選手たちの士気にも影響するのでとくに気を配った。

フライ級スクワット競技の開始。渡部選手は昨年に比べると減量苦もあって記録がふるわず、前回と同じ145kgにとどまった。

因幡選手は私の作戦より5kg上まわる195kgからスタートした。フライ級はもちろん、同時に開始されたバンタム級の選手の姿もすでになく、まったく彼の一人舞台である。因幡選手の実力から見れば、この195kgは大丈夫だとは思ったが、コーチとしてはやはり気になった。しかし、これを軽々としかも完全なスクワットをするのを見て相変らず強いなあと感心させられた。

これまでの何人かの選手の試技の判定を見て、今大会はスクワットの審判が甘いと見てとった私と因幡選手は、2回目の試技でいきなり世界新の207.5kgを申込んだ。結果はこれまた楽々と成功。世界記録更新のラッシュが今回もまた始まった。

イケル!と判断した私は「210イコウ」というと、因幡選手も同じことを考えていたらしく「ウン」とうなずき210kgを申込んだ。すでに他に試技する選手がいないので、観衆はステージのこの小さな巨人の一挙手一投足に注目している。

3回目の試技まで3分間の猶予があるので、じっくりいこうといったんステージからさがり、裏の廊下に出て椅子に座わらせた。因幡選手にとって、今大会は3度目の世界選手権だが、その体験はダテではなく、闘志を秘めたこの落ちつきは、実に頼もしいかぎりである。

「さあ3回目、210イコウカ」、「ヨッシャ」。これですべてが通じる。余計な言葉はこの際無用である。

慎重にバーベルをかついで後へさがった。スクワットした!うまくいった!上がっていく!やった、やった!判定は白ランプ3つ。作戦大成功!「ワールド・ニュー・レコード」というアナウンスはいつ聞いてもいいものだ。ステージから戻ってきた因幡選手の肩をたたきながら成功を心から祝福した。

そのあと、ベンチ・プレス、デッド・リフトと続き、因幡選手はスクワットと共にトータルでも530kgをマークし世界新記録を更新して、3年連続優勝の偉業をなし遂げた。

しかし、同選手は国内における4・5年前の関東大会で、減量なしの体重53kg(註・フライ級リミットは52kgだから、わずかに1kgオーバー)でバンタム級に出場し、トータルで540kgをマークしているのだから、今回の530kgに甘んじてはならないと思う。さらに記録を伸ばしてほしいものである。

また渡部選手は、減量等の状態から見て、今度は1クラス上のバンタム級選手として期待したい。
〔ヨーク・バーベル・クラブでトレーニングしたあと、ホテルに帰る日本選手団〕

〔ヨーク・バーベル・クラブでトレーニングしたあと、ホテルに帰る日本選手団〕

〔大会に備えて入念な作戦をたてる日本選手団〕

〔大会に備えて入念な作戦をたてる日本選手団〕

◇富永選手世界新樹立◇

フライ級、バンタム級が終り、休む間もなく第2試合目である。これには世界選手権初出場の富永選手がフェザー級に出場する。すでに第一試合の進行中に検量ならびにチェックは無事に済んでいた。ここで日本選手団の一員ではないが、この大会の見学と応援にはるばる日本から来ていた三浦氏が予期せぬ助っ人となってくれた。

富永選手の顔を見ると、初出場ながら非常に落ちついている感じなのでまず一安心した。

まずスクワットの第1回目の試技である。富永選手は私の作戦重量より5kg低い160kgからスタートした。もちろん無事通過。ところがステージの出入口に帰って来た富永選手は、興奮でのどが乾いたのか、タオルをかぶって出入口のところに座り込んで、ポットを開けてお茶を飲み出した。ここで落ちつかれては困るのだ。今大会から、コールされたら1分以内に試技をしなければならない(ただし、前に試技をする選手がなく、同じ選手が続けて試技をする場合は3分以内)。1分間しか余裕がない。ここに座っていたのでは、コールされてからとても1分以内に試技はできない。事実、1分以内に試技をしないで失格になった選手もいた。

すぐに立ちあがるようにせきたて、次の重量にいそいで挑ませた。成功である。3回目、今度もすぐに試技するので、お茶と座り込みはやめてもらった。これまた成功。172.5kgでスクワットを終る。

次の種目はベンチ・プレス。富永選手の最も得意の種目であり、世界記録更新も夢ではない。富永選手の出番は当然最後になるので、やっと一腹することができた。
〔私のアイディア、にぎりめしで腹ごしらえをする渡部と因幡〕

〔私のアイディア、にぎりめしで腹ごしらえをする渡部と因幡〕

ここで読者の皆さん始め、選手諸君にお願いしたいことがある。先にもちよっと述べたが、世界ルールで行う場合にはコールされてから試技するまでに1分間しか許されない。試技に入る前の精神統一や気合等に時間のかかる選手は、常日頃、迅速に試技が行えるよう訓練しておいてほしい。

それからもう1つ、試合中の試技重量の申し込みは、コーチの役目であり選手はコーチを信頼し、ただその重量を成功させることだけに専念してほしい。これは試合の大小を問わずコーチと選手の関係はそうでなければならないと思う。

いよいよ重量は120kg台から140kgとなり、富永選手の出番となった。この140kgは富永選手にとってはまったくの「銀行重量」であり、私も気楽に見ていることができた。もちろん楽々と成功。

第2回目の重量は、ここでいっきょに念願の世界記録152.5kgを更新するため、どうしても153kgに挑みたいという富永選手の熱意にあおられ、私とサイド・コーチの三浦も冷静さを失って富永選手の希望する153kgの世界新記録を申込んだ。

ところが、進行係からクレームがつき「2回目、3回目の試技を棄権して特別試技を行うのか」と、早口の英語でいわれるので、片言英語しかできない私には、なかなかその意味が理解できず、三浦氏と共に様々な掛け引きの会話を進行係と交わした。

結局、私たちがルールを忘れていたことが原因だった。つまり、特別試技をする場合は、その前の試技の重量が世界記録の10kg以内でなければ挑戦できないことに気がつかなかった。富永選手の第1回目の試技は140kgであるから、世界記録の152.5kgまでには12.5kgあり、これがルールに反していたのである。

やむを得ない……、世界新記録意識にたかぶっている富永選手を説得して2回目の重量を150kgに申込んだ。すでにこの種目は富永選手1人になっており、3分間の余裕があったので、ゴタゴタはしたが何とか間に合った。

試技開始。補助者からバーベルが富永選手に渡された。胸におろした!プレスが始まった!おかしい!どうしたんだろう。150kgが上がらないはずはない。重そうだ!一瞬、バーベルが止まりそうになったが、また少しずつ上がっていく。大丈夫だイケル!もう少しだガンバレ!やった!
〔フライ級スクワットで210kgの世界新を出し、トータルでも3年連続優勝の偉業をなしとげた因幡選手〕

〔フライ級スクワットで210kgの世界新を出し、トータルでも3年連続優勝の偉業をなしとげた因幡選手〕

〔フェザー級ベンチ・プレスで155kgの世界新をマークした富永選手〕

〔フェザー級ベンチ・プレスで155kgの世界新をマークした富永選手〕

それにしても、こんなに時間を長く感じたことはなかった。ホッとする間もなく、私は次の重量選択に迫まられた。私の頭の中にあるコンピューターが忙しく回り出した。富永選手をじっくり観察したのは、この大会の代表選手選考会と、その後2回、私のジムにアドバイスを受けに来たときのわずか3回であるとはいえ、ここで重量選択を誤ってはコーチの名がすたる。

答えが出た。3回目は155kgにして世界新記録をやってもらおう。

富永選手は不安を隠くきれない顔でステージの入口で待っている私のところにやってきた。そして「153kg」と自信のない声で言った。富永選手にしてみれば、2回目の150kgが2:1というきわどい判定でギリギリのプレスだったので、155kgは自信がなかったのであろう。

私は団長という立場から、世界新記録のみならず、トータルも重視しなければならない。もし私の考えている3回目の155kgが成功しなかったら、大変なことになる。富永選手は153kgをやりたいというし、私はどうしても155kgをやらせたい。

私はもう一度富永選手に「153kgではなく155kgをやってください!」と告げた。富永選手も私の言葉を信じてくれたらしく、第3回目の試技を155kgにすることに同意してくれた。

申込みと同時に、両サイドの補助者にバランス良く富永選手にバーベルを渡してくれるよう、知っている限りの単語をならべて片言の英語で前もってお願いをした。

3回目の試技、155kgのフェザー級ベンチ・プレス世界新記録にいよいよ富永選手は挑むのだ。私は緊張している富永選手に「イケルよ、大丈夫。ゼッタイ大丈夫だ!」と肩をたたいて試技に向わせた。

目をとじ、手をむすんで、顔をわずかに下に向ける、富永選手独得の精神統一が始まった。この間、私は「もしかしたらとんでもないことをしたのではないだろうか。この155kgが成功しなかったらどうしよう。富永選手の永年の夢であり、今大会参加の目的である世界新記録樹立が夢と消えるのだ。大変な決断をくだしたものだ……。いや、必ずやってくれるにちがいない」と、いろいろなことが頭をよぎった。

富永選手がベンチに向って歩いていく。ベンチに寝てバーベルを受けとる用意を始めた。

私はまた補助者に向って「今度はうまくバーベルを渡してくれ!バランスよく!」と片言英語で叫んだ。今度はうまく渡してくれた。「OK」という富永選手の声が聞えた。

バーベルから補助者の手が離れ、バーが下がる。主審の合図があった。バーベルがグーンと上がっていく。2回目の150kgの試技がうそのように上がっていく!これでヨシ!

やった!ついにやった!私の胸が熱くなった。よかった。きのうの敵は今日の友(1973年度全日本パワー選手権大会のフェザー級で、奇しくも私と富永選手の優勝負いとなり、私が優勝した)に大変なプレゼントをしてあげられた。世の中というものはおもしろいものである。

ベンチから起きあがった富永選手は心配そうに判定ランプをのぞき込んでいる。白ランプ3つ!その瞬間、富永選手はとびあがってよろこび、私の手を握り泣きながら抱きついてきた。私も目がしらが熱くなった。そして彼はもう一度ステージで飛び上がり、満場の観衆を感動させた。拍手、拍手、拍手の嵐だ。富永選手は何度も何度も飛び上がってよろこんでいた。

次の瞬間である。富永選手はあまりのうれしさに酔ったのか、私の横を風のごとくすり抜けて、廊下をまっしぐらに走り出した。大変だ!世界新記録なのだから、その場で服装検査があるのだ。私は大声で富永選手を呼び戻した。そこへ審判員が来て、ベルトを始めとした服装検査を行なった。「OK」審判員も祝福している。富永選手はなおも泣きながら「サンキュー!サンキュー!」を連発している。

いつみても男の涙は美しいものだ。よかった。私はこの富永選手と因幡、渡部の3選手には実力からいって3位以内の入賞を期待していた。とくに富永選手には世界新記録の樹立と、それがトータルでも上位入賞に結びつくようにと一番気をつかった。

[註]ところが、この原稿を執筆中の現時点で、因幡選手にはワールド・レコード・ホルダーという世界記録認定証が届いているのに、富永選手のベンチ・プレス155kgに対する認定証が今だに送られてきていない。気がかりなのは、世界新を出した直後、富永選手がよろこびのあまりステージから廊下に出てしまい、服装検査がその後になってしまったが、これが引っかかっているのではないかと心配している。

-Χ-Χ-Χ-

服装検査のあとで富永選手は「やはり関さんの意見に従ってよかった。どうして155kgの決断ができたのか」と不思議がるとともに感心することしきり。

しかし、そんなことをいつまでもいっている場合ではない。デッド・リフトが控えているのである。この種目は富永選手が最初の試技者であり、すぐ始まるのだ。トータルをあまり気にしている様子もない富永選手をせかして1回目180kg、2回195kg、ともに成功。3回目200kgは失敗したが、トータル522.5kgとなり、フェザー級2位に入賞というホームランをかっとばしてくれた。富永選手の試技はこれですべて終った。疲れた!
〔フェザー級表彰式。左端が2位入賞の富永選手〕

〔フェザー級表彰式。左端が2位入賞の富永選手〕

◇中尾ライト級ベンチで1位◇

次のクラスはライト級である。このクラスには中尾、長野の2選手が出場する。検量をすませて試合場に入ってきた。休む暇もない。しかも今度は2人である。再び気を引きしめた。

いよいよ始まりだ。まず最初のスクワットは中尾選手が185kg、長野選手が200kgと、まずまず納得のいく記録をマークした。つづいてベンチ・プレス。長野選手が目一杯と思われた135kgを楽々と3回目で成功し、練習次第ではまだまだ記録が伸びる可能性があると思われた。

この種目を得意とする中尾選手は、肩の故障をおして行いながら、ライト級出場選手中、一番高い155kgをマークした。体調が完全であったなら、あるいは世界新記録が樹立できたのではないかと、かえすがえすも残念であった。

最後の種目デッド・リフトは、このクラスから重量級にかけて、外国選手が圧倒的に強く、大きく差がついてくる。従って、両選手とも最初の方で試技をすませ、中尾選手がトータル547.5kgで5位、長野選手が540kgで6位を確保した。

今度は中川、市丸両選手の出るミドル級である。最初のスクワットでは両選手とも頑張ったが、市丸選手は不本意な記録を残しながらもともに220kgで終了。つづいてベンチ・プレス、スクワットと進み、中川選手が615kgで5位、市丸選手が585kgで8位となった。

つづいてライト・へビー級である。このクラスには井上選手が出場する。もうすでに時計は真夜中の12時を廻っている。さすがに私もドッと疲れが出てきた。気がついてみれば、朝食をしてから、何も食べていない。頑張れ!もう1人、井上選手がいるのだ。

スクワットが始まった。どうも重そうだ。こんな真夜中に練習も試合もした経験がないから、コンディションはいいはずがない。記録は230kgともうひとつ力を出しきれなかった感じである。つづいてベンチ・プレス、スクワット。やはり重い!朝から客席で日本選手を応援しての後である。おそらく朝起きてから15時間近くにはなっているだろう。ハンディーを背負った井上選手としては良くやってくれた。結果は、トータル625kgで6位だった。

第1日目の全試合が終って宿舎のヨークモーターインに帰ったのが午前2時である。ひと休みしようとして靴をぬいでみて私はびっくりした。両足とも白くふやけている。大変だ!明日の午前中、いや今日だ!私の出場するミスター・ワールド・コンテストのプレジャッジが、午前10時から始まるのだ!私はあわててバスルームに飛び込み入浴しながら両足のマッサージを始めた。
〔ライト級6位・長野武文選手〕

〔ライト級6位・長野武文選手〕

〔ミドル級8位・市丸輝男選手〕

〔ミドル級8位・市丸輝男選手〕

月刊ボディビルディング1977年3月号

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