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JBBAボディビル・テキスト㊷
指導者のためのからだづくりの科学
随想「逞しさ」について

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月刊ボディビルディング1977年3月号
掲載日:2018.08.27
日本ボディビル協会指導員審査会委員長 佐野匡宣

誤解しやすい「逞しさ」と「逞しさの錯覚」について

我々が人を見る場合、誰でも、自分では気づかずに、自分でつくった基準をもとにして、「こうだ」と思い込んでしまうのではないだろうか。

考え方によっては野蛮で、あるいは粗野でどうしようもないと思われる事が、それとは正反対に、やや単細胞だが、男らしく、かえって頼もしいとか逞しいと思われるかも知れない。

すなわち、関心のある相手には好意的に、自分でこうだとつくったパターンに当てはめて、思い込んでしまう所があるようだ。

この思い込みから、現代的な逞しさの誤解や錯覚が生じてくる。

ちよっと視野を変えれば、つい先程まで「逞しさ」だと思ったり、魅力だと思っていたものが、逆に鼻もちのならない欠点だと感じられる場合も少なくないだろう。

これらについて少し考えて見たい。

A.夢と行動があり、逞しいと錯覚し易い場合

息づまるような現実の中で、壮大な夢を話す若々しさ、夢にかけてみるのだと情熱的に走り回って新しい事に熱中する。口を開けば熱っぽい言葉が飛び出し、それ以外には目もくれない。そのような人に接した時、たとえ現実離れしていても、その心意気に感じてしまうかも知れない。

しかし、ある程度経過をもってながめれば、少しも進歩していないで、いつまでたっても同じ地点で夢を追いかけている。つまり、よく見ると、ある所までは前進するが、前回と同じ所で失敗し、孤立無援でもやりぬくと言うようなポーズをとり、不運を嘆く。

このようなパターンの人を案外、逞しく感ずる事がある。しかし、ここでよく考えたいのは、失敗がある程度予想されたり、また、失敗しそうだと言う時、同じ失敗を再び繰り返さず、次の段階に対する材料として活用するとか、見事に方向転換等の対策をたてるだけのセンスがあるか否かが問題点であろう。

要するに、手がけようとする事に対する計画性や、準備等の基礎的努力をはらって、その事に対する見きわめをどのようにもっているかが、本当に逞しさがあるのか、単なる誇大妄想癖に近いのかがわかれるものであろう。

B.アウトロー的な態度に対する錯覚

「出世なんか問題でない」とか、「抵抗出来る限り頑張り通す」等と言って、納得がゆかなければ誰にでもくってかかる。また周囲に何が起っても我れ関せずと、何となく体制を無視して、いつかはこのおれがと身構えているようで無関心な態度をとる。すなわち、思うままに居直っているように見える、組織から離れた一匹狼のポーズをとる者がある。

誰もが組織の中で保身に汲々としている中で逞しいではないかと、喝采を送りたくなるかも知れない。だがよく考えて見ると、組織に入って、直ちにリーダーシップをとれるものでもあるまい。

深い人生観を持ち、たとえ下積でもじっと耐え、力を貯えるだけの努力が先ず必要である。そのような努力もせず、自己顕示慾を満足させたいと思っても、世間はそう甘いものではない。

このような、アウトロー的なものとよく似たものに「すじ道をよく通す正義派だ」と錯覚し易いものもある。

例えば、自分が納得しなければ一歩も譲らない。みすみす不利な状況に陥っても容易に妥協しない。周囲ともよく衝突するような人がいる。正義派だ、妥協しない男、自分を偽われない男等と、半分は尊敬され、半分はからかわれながら当人は精一杯頑張っている。

容易に妥協すべきではないが、仕事や組織の中での仕組みには、がんじがらめのしがらみがある場合もある。この中でじっと耐えて次に伸びてゆく事も重要である。ここに内に秘めた地味な逞しさを感じる。

C.自信に満ちた言動も錯覚を起し易い原因を含んでいる。

順風満帆と言う状態にある時、また自分が手がけている仕事に生きがいを感じ、理想も持っているような時、その人は必ず自信に満ちているだろう。

このような場合、その人の言動に何となく逞しさを感じるかも知れない。だが、自信に満ちた人達の中には、案外、他人に対して鈍感で、平気で人の心を傷つけるような言動をとる人が多いようである。

その言動のはしばしに相手の心を傷つけるような要素が見受けられる時、少し考えるとそれはエゴイズム以外の何物でもない事に気づく筈である。要するに、その倣慢さや、鈍感さ、または強引さが、かえって人を人とも思わぬ逞しさと錯覚して感じられるようである。

しかしこのような人達は、少し共同生活をして見るとわかる事であろう。

D.無口でブッキラ棒に対する錯誤

何かの宣伝文句ではないが、男は黙って勝負する式のポーズである。

「巧言令色すくなし」と言う諺や「言わぬが花」と言う慣用句のあるように、昔から男は黙っている方が価値があるとされてきた。コミュニケーションが盛んになった時代でも、案外このような男性が珍重されるようである。

無口でブッキラ棒、議論や説得も下手、言い負かされそうになると、すぐに気色ばむ、まるでスーツを身につけた無法松のような粗野なものがいる。

本来そうなのか、ちゃんと計算が出来てそのように振る舞った方が興味深く印象を与えると考えているのかわからないが、案外このような粗野と、逞しさをはきちがえ易いようである。

―Χ―Χ―Χ―

以上、逞しさについての誤解や錯覚し易い部分を、いくらか焼り出して見たが、以上のようないろいろなポーズをとるのは、流行のファッションを身につけて、自分を目立たせようとするのとなんら変らないのではなかろうか。多くはまがいものであるようだ。

その共通点は、いずれも感情にブレーキをかけず、自分の置かれた立場や、役割や、場所等に適合する微調整を施こそうとせず、生地のままで生きているように見せる所が、何か魅力をかもし出すものらしい。しかし、真の内面的な逞しさは、これらの事に対する反省や、批判から、自然と浮かび上がって来るのではなかろうか。

要するに、内面的な逞しさの要素とは、明快な判断力、周囲に対する微調整のきかし方、良いにつけ悪いにつけ、じっと耐え抜き、次第に伸びてゆく努力、これらの要素をバランスよく身につけているかどうかによって決まるのではないかと考える。

このように考えて見ると、「逞しさ」とは、歴史的に見ても、その時々の社会の枠組や、組織の中でその時々に応じて「男はこうあるべきだ」と限定された考え方があるようである。

例えば「勇気」とか「度胸」と言う言葉を考えても、それは理想的なものに対する表現の言葉である。たとえ恐れながらでも、また震えながらでも、突き進んで行くのが勇気や度胸で、もともと恐れを知らないとか、震えないとか言うのは、どこか神経が麻痺していて正常でないのではないかと考える。

物に動じないと言う事もまた同様であろう。単に動揺を表に現わさないポーズをとると言う事ではなく、動じても出来るだけ表にあらわさず、その対応策を的確に考えて、速やかに処する態度が真の物に動じないと言う意味であろう。物事に対しても逃げないで解決してゆく事、これはかなり厳しい事であり、これは単なる逞しさと表現されるよりは、人間らしさとか、個性、あるいは人格と表現される事であるかも知れない。

すなわち、その人がどのように判断し、また、どのように行動するかと言う事になるからである。

このように考えて見ると、現代的な「逞しさ」と言う定義は至極むずかしく、特に「逞しく生きる」となると、非常に生きにくいようである。だが、要は、自分の考えを正しくきちんと持ち、その考え方なり主張を通すためには、周囲に微調整をきかすだけの能力と忍耐心をもって努カする事が「逞しく生きる」につながるものと考える。

これは理想的な意見かも知れないしそこまで出来る人はごく限られた人であるかも知れないが、そこに自分の生き方を貫ぬく人間としての真の逞しさがある。普通は、そのように考えながらも、仲々出来ないで、自分はダメだと思ったり、変に虚勢をはったりしてポーズをつくっているものが多いのではないだろうか。本当に真面目に生きる事は地味で、面白くもなく、考え方によってはみじめたらしく思われる事であるかも知れない。

何故なれば、案外、突飛な行為が冒険と思われ、勇気があると評判になったり、わざわざ危険の多い遠回りの道をえらんで行なった事が、かえって英雄視されると言うような、要するに突張った姿勢や、踊りを踊っているものを、過大評価したり、錯覚して見易いものである。

現代において、我々が真に人間らしくあるためには、ある意味で自虚的でなければならないのかも知れない。男らしさ、女らしさ、ひいては人間らしさと言うものを考える時、物事の本質に少しもせまらないで、単にレッテルをはり、安易にそこら辺に片づけてしまう危険があるようだ。お互いに、なんらかの錯覚を犯している事だけはどうやら確からしい。

例えば、我々日本人は、どうも心とからだをわけて考え、精神を尊び肉体を軽んずるようである。ひところ「青白きインテリー」とか、「ホワイトカラー」などと言う言葉がよく使われた。「インテリー」とはエリートを意味しており、顔は青白く、からだは細く弱々しい。何となく体力も劣っていなければならないようなイメージが持たれていた。その反面、筋骨隆々として、顔は陽やけし、みるからに強そうな人は、動物的で頭の中はからっぽで「青白きインテリー」よりは落ちると考えられていた風潮があった。

以前は、学校でも、学業の成績がよければ体育など少しくらいさぼっても大目に見ると言うような知育偏重の傾向が強いようであった。この傾向は現在でも大して変っていない。また、世の母親達は、子息を学業優秀、品行方正、いかにも良家の坊ちゃんじみた過保護で、人蓄無害な男に育てたがっているように思えてならない。また、世の娘たちの大方は、どのような男性と結婚したいかとの問に、圧倒的に「やさしい人」と声をそろえて答える。

猛烈男よりもマイホーム指向であるようだ。すなわち、我が国の女性には昔から「ヤサ男嗜好」が強く、最近の状態もその例外ではないようである。さらに、若い男たちは、女性にもてたくて、知らず知らずに女性の嗜好にあわせようとしている。

このような所に、本来的な意味における「逞しさ」に対する拒否反応の根があるのではなかろうか。

社会においては猛烈型が望まれ、家庭においてはマイホーム型を強いられる矛盾の中で、逞しくありたいという願望に対する裏付けの反応が根ざしてくるのではなかろうか。逞しさに対する誤解や、錯覚を取りのぞくためにも、一応原点に戻って考える事も必要であろう。

本来の「逞しさ」とは、緑濃い山野や、青々とした海に恵まれていた古代では、誰しもが心底から理解していたにちがいない。

⑤逞しさへの拒否反応の考察

我が国の女性は、昔から概して「逞しい男」をあまり好まないようである。源氏物語における光源氏や、美男の典型のように言われる業平から、浮世物語りにおける世之介はもちろんの事、武人においても、平家の公達や安宅の関における義経のように、女性のあこがれの的は、色の白い、上品な、貴公子タイプの男として表現されている。我々男から見て、頼もしく感じられる人物は、概して女性にもてないようである。

それが証拠に、当代の二枚目と称されるものは、やはりヤサ男型が多い。一時代前には、タフガイとかマイトガイとか言って男ッポサを売り物にしたものがもてた時代もあったようだが、これもジョン・ウェイン、クーパーで代表される戦後アメリカ映画の輸入の影響から、一時期に流行したもので、我が国の女性の好みから言えば非主流であったのではないだろうか。

たんに社会的に誰からも尊敬されるというような頼もしさより、女としてのからだと心の空白を埋めてくれるような、女性が自分達のためにつくったご都合主義な代替願望的なものを求めているのではなかろうか。

ではこのヤサ男嗜好は、一体どのようにして形成されて来たのだろうか。その原因の一つは、どこの国でも言える事だが、一般庶民の貧しさにあったようだ。庶民階級の女性達の周囲には、当然庶民階級の男たちがあつまっている。肉体的には丈夫であっても、彼らは何となくむさくるしく、生活につかれている者が多い。女心を微妙にくすぐるような手練手管などほとんど持っていない。にもかかわらず、我が国では男性上位の社会機構であったため、女性はただ黙って耐えておらねばならなかった場合が多くあっただろう。このような環境において、生活様式の違った貴族や富豪と称される家の若者達に何か理想像を見るようになる。これらの男達は生活のための肉体労働等に縁がなく、色は白く、筋肉を隆々とさせる必要もなく、美しく装い、優雅な暮しをしている。これらに対してあこがれを持ったとしても決して不思議ではない。このようにして庶民の女性達はいろいろのヤサ男に「脱生活苦」の願望の象徴として胸をこがすようになり、理想像を求めたものであろう。

いまーつの原因は、我が国において、特に武家の勃興以来、一貫して男性優位の社会秩序が保たれて来た事である。女性がすべての点で従順を強いられ、男の支配下にあって、男性の横暴に甘んじなければならない生活であった。

このような社会の中にあって、女性が何よりも男性のやさしさを求め、それに価値を見出すのは当然の事であろう。威張らない男、横暴でない男、ごつごつしない男に魅力を感じて行くのは当然であったかも知れない。それは筋骨隆々の男であるよりも、色白で、ほっそりとした、ヤサ男と言う対象に向って指向して行く必然性が生まれてくる。

三つ目の原因は、我が国では、古くから大体において農耕社会が基盤であった事である。このことは、一つの土地で田畑を耕し、ゆっくりと腰を落ちつけて生活してゆく事が出来た。これに比べ、あまり土地の良くない所に住む民族は、農耕になじまず、狩猟民族として、獣を追ってさまよい続けなければならなかった。これら生活様式の違いが文化の成り立ちにも影響し、異なってくる。

狩猟民族は集団をまとめて移動を続けるため、強烈なリーダー・シップをもつ男が尊ばれ、また他民族と斗う事も多く、そのためにはあらくれ男を必要とした。こうした環境が、女性のあこがれを逞しい男たちに指向している。

しかし、農耕社会においては田畑を耕す能力さえあればよく、狩猟民族ほど逞くましさや、強烈なリーダー・シップが必要なく、逞ましさよりもやさしさの方がよいと言う事に指向したのだろう。

さらに、都市構造が発達し、商業が発達してくると、田畑を耕す腕力さえ次第に必要でなくなってくる。このような土壌の上に、先に述べた2つの原因が重なり、我が国の女性のヤサ男嗜好が発達して来たようである。しかし、やさしさとか、思いやりと言っても、生活の上での能力が前提となって、始めて値打が出てくるものである。

要するに男の値打とは、緻密な頭の働き、旺盛な体力、これらが伴なって、決断力とか、実行力等に裏付けられた才能が、社会において何が出来るか、いい仕事が出来るか、生存競走を乗り切ってゆけるか等に価値基準が置かれるのではないか。

現在の女性は、もう昔ほど男に支配されてもいないし、無教養でも、貧しくもない筈である。この辺の事がわかってくれば、女性の男性に対する価値基準、男の魅力についての判断も誤らなくなり、「逞しさ」についても理解出来るのではないかと考える。

逞しくあるためには、健康であり、体力を充実させる事が必要であろう。現代の生活様式において、筋骨隆々などナンセンスと言わないでほしい。どのような時代になろうと体力が一番の資本であり、誰にかりる必要もなく、各自が持っているものである。

最近、とくに健康管理が盛にさけばれ、いろいろと体力づくりや、健康法が提唱されるのは、社会生活の変遷に伴なって「逞しさ」が次第に失われて来た事に対する反省と、その対策ではなかろうか。

昔は「衣食足って礼節を知る」と言ったのに対し、現在は「衣食足って健康が気になる」と言うべき現状ではないか。環境汚染、食品公害等、最近健康について関心を示す者が多く、何か手近な健康獲得法をと、誰もが望んでいるようである。

―X―X―X―

すぐれた文明を築きあげて来た現在の社会、その結果の快的な生活環境は、きびしい自然環境の変化に対する適応を不必要なものとし、次第に人間のすぐれた適応能力が失われつつある現状のように思う。今こそ「逞しさ」の原点を見つめるべきであろう。

いつまでも元気で、積極的な充実した毎日を送るためにも、大いに「逞しさ」を謳歌したい。
(次回より、生理学的事項に入る)
月刊ボディビルディング1977年3月号

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