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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
“プロビルダーのパイオニア”
大久保智司

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月刊ボディビルディング1977年7月号
掲載日:2018.07.27
川股宏
大久保智司
 昭和12年5月22日生
愛知県出身
ボディビル歴20年
昭和36年第1回ミスター全日本優勝
現在は矢野プロダクションに所属し“動く彫刻、ザ・オリンピア”の演技でプロビルダーとして活躍中
家族は奥さんと女の子2人
奥さんの静代さんは仕事上のパートナーでもある
東京都北区に住み、赤羽トレーニング・ルーム(会長・重村尚)でトレーニングに励む

◇プロローグ◇

 いままでに何人かのボディビルダーから「今後はプロビルダーとしてやっていきたい」というような話を聞いたことがある。たしかに何年かのきびしいトレーニングと莫大な食費をかけてつくりあげた美事な肉体美が、
社会的にも認められて、それがなんらかの形で職業としてやっていけるものなら、こんないいことはない。外国を例にとってみても、映画俳優として成功したスティーブ・リーブスのほかは、ジムのオーナーとか、健康食品などを扱うといった、
ボディビルの枠内での仕事に従事しているのがほとんどである。プロビルダーといっても、プロ野球選手やプロレスラー、プロゴルファーのように大きな収入が期待される職業はいまのところ見当らない。
 しかし、ここに間違いなく長年鍛えあげた体を見せて、体で稼ぐプロビルダーがいる。その名は第1回ミスター全日本優勝者、大久保智司である。
 私は、大久保がたんにボディビル出身者として特異な存在であるから紹介したいのではなく、話していくうちにいまでもボディビルを愛し実践し、体と共に鍛えられてきた心の成長、そして長年の芸能生活にもかかわらず、
つねに前向きに逞しく生きてきた人柄に引きつけられて、読者の皆さんに紹介したい欲望にかられてしまったからである。
 プロに転向してからも、すでに16年になる。24才だった大久保もいまは40才。第1回全日本コンテストに優勝した当時の大久保の肉体美を私は見ていないが、いまここに見る大久保の体はとても40才のものとは思えない。どう見ても20才代の体である。
バルクこそいまの日本のトップ・ビルダーに比べれば落ちるが、その線の美しさにおいては誰にもヒケをとらない。不規則になりがちな芸能界にあって、16年間、体をベストに保つことがどんなにたいへんなことか皆さんには十分察することができると思う。
 私に大久保を紹介してくれたのは赤羽トレーニング・ルームの重村尚会長である。5月の初旬、重村会長が「川股さん、大久保智司さんを知っていますか。いま私のところでトレーニングしていますが、ビルダーとしてだけでなく、人間としても立派な人です。
一見ハッタリ的な一面を見せますが、これは芸能界を生き抜くための処生術だと思います。とくに私が感心するのは自分の職業に役立つもの、あるいは自分が持っていないと思うものは、精神的なものでも、肉体的なものでも、技術的なものでも、
素直に耳を傾け、貧欲に吸収しようとしています。一度会ってみませんか」と聞かされた。
 そして5月中旬、赤羽トレーニング・ルームで大久保に会った。重村会長の言ったとおり、人の話によく耳を傾け、つねに何かを求めているひたむきな姿勢に私はうたれた。
「私は最近プロダクションを変ったのですが、そこの社長さんは偉いと思いました。“動く彫刻”というような特種なものには素人のはずですが、じっと見ていて、いろんなこまかいことや欠点をビシビシ指摘するんです。
私がいままで思いつかなかったような点を指摘されてハッとすることがあります。もちろん、すぐに直しますが、社長だからというのではなく、私は自分の成長にプラスになると思うことは、子供の意見でも、女の子の意見でも、素直に耳を傾けます」
 このような態度は簡単なようで、なかなかできるものではない。ちょっと有名になると、人の意見などに耳をかそうとしない人が多い。自分より経験の浅い人や、年令の若い人の意見に素直に耳を傾けることができるのは、人生の恐しさ、こわさを知った人間か、
“うぬぼれ”のために結果的には失敗して泣いたことのある人間である証拠なのだ。
 昔から一芸に秀いでた人を見ると、自分の近くからなんでも学び吸収するという食欲さがある。みならうということが自分を大きく飛躍させるという生活の悟りからくるものだ。剣豪宮本武蔵は“生涯一書生、吾以外皆師”という言葉を愛し、実行したという。
 大久保は金もなく学歴もなく、ただ体ひとつで雑草のように生きていくためには、素直な気持で、人からよいものを学びとることが、芸能界を生きぬく生活の智恵だったのである。
プロビルダーのパイオニアである大久保は、体験をとおしていろいろな智恵を自分のものとしていった。
[動く彫刻“ザ・オリンピア”のポスター]

[動く彫刻“ザ・オリンピア”のポスター]

◇大久保の歩んだ道◇

 大久保は自分の今までの人生街道を旅日記風に面白く話してくれた。
 ――小学校に入学したのが確か終戦の2年前でした。いやー、あの頃の食糧難はすごかったですよ。米のめしはおろか、くさったじやがいもや、さつまいもを食べたものです。とにかく戦争だから仕方がなかったんですが、日本中総貧乏、総物資欠乏時代でした。
当時の子供の将来の夢は立派な軍人になることでしたね。もちろん私もあこがれたものです。その頃の面白い思い出は、たまにしか見られない自動車がとおるとあとにのこるガソリンのにおいがなんともいえず、自動車のあとを追っかけたものです。
 戦争も終って、やがて中学卒業。当時は高等学校へ入る人は田舎の中学校ではまだパラパラの時代でした。もちろん私の実家は貧しかったので初めから高校へいくつもりはなかったんですが、戦時中からみんな貧乏で平等だと思っておったんですが、
その頃になってよーく考えてみたら、とくに我が家が貧乏だったんですね。
 そこで“よーし”と決意も固く、最初に就職したのが豊橋市にある“あんこ屋”でした。中学を出たばかりですから15才でした。体は小さかったが夢は大きく、バラ色の出発でした。
 しかし、いろいろなことがありましたが、やはり働くなら東京でなくてはダメだと、1年でここをやめ、小さな体にみなぎる青雲の志をいだいて上京、飯田橋のパン屋に就職しました。
僕ってのはどうしてなのかなあ。青雲の志が、前は“あんこ屋”で中味、こんどは“パン屋”で外側。ここもちょっといただけですぐやめ、次に勤めたのは食べ物とは全く関係のない“センタク屋”でした。
ここは頑張って2年。しかしこの2年間で身だしなみの大切なことを強く感じました。
 そしてつぎは喫茶店のボーイです。本当いうと、内心キザでハデ好みの私は、こんな仕事が性に合っていたのかも知れません。カッコよくポマードだらけのリーゼントのトンボ頭。
まるで流行の先端をいっているような気がして得意になっていたものです。
 ボディビルが日本にはじめて紹介され、第一次のブームとなりはじめたのがその頃です。東京にも雨後のタケノコのようにジムがオープンし、それがどこもおすなおすなの盛況なんです。
ボディビル・ブームに目をつけた証券会社が“マネービル”なんていう新語をはやらせたのもその頃です。
[暇さえあれば赤羽トレーニング・ルームで汗を流す。昭和52年5月24日撮影]

[暇さえあれば赤羽トレーニング・ルームで汗を流す。昭和52年5月24日撮影]

◇ボディビルとの出合い◇

 体は大きくなかったが、強い体にはあこがれていましたから、私もさっそくボディビルを始めました。
 まだいまのような立派な器具はなくコンクリート製のバーベルを買って自己流のトレーニングを3ヵ月ぐらい夢中でやったものです。ぼつぼつ効果の出はじめた頃です。
ボディビル雑誌で初代ミスター日本の中大路さんの写真を見て、「よーし、オレは1年、いや半年で追い越してみせる」なんていきがって、当時、日暮里でジムをやっていた薄井さんのところに入会したんです。
 ずいぶん熱心に練習をしました。効果もメキメキあらわれ、トレーニングを始める前の写真と比べてみると、まるで別人のようでした。
しかし中大路さんもどんどん伸びて、なかなか追い越せませんでした。
 テレビの力道山ブームと相まって、ボディビルも空前のブームだったといっていいでしようね。
 あれほど得意になってやっていた喫茶店のボーイも、しばらくして馴れてくると味気ないものです。なんか男の仕事ではないような気がして間もなくやめました。
そしてえらんだのが「エエー1曲いかがですか」つまりギター流しの艶歌師です。自慢じゃありませんが、子供の頃から歌は好きで、本当に歌手を心指したこともあるんです。
 仕事はもっぱら夜ですから、昼はたっぷりボディビルのトレーニングができるんです。夕方、サッと着替えて夜の盛り場で“ほ~れて、ほれて、ほれていながらゆく俺に”となかなかイキな時代でした。
でも、艶歌は声で歌うんじやない、心で歌うもの。人生経験こそ歌手への近道と沖仲士へ。体をきたえていましたから、仕事の面で苦しさはなかったですね。
 このとき、私の人生で最大のエポックが訪れたのです。「お前!イイ体をしているのォー、俺の子分にならないか」と、ちよっとした親分に声をかけられたんです。
血の気の多かった私はいい気なもんで、そのまま“ヤーサン稼業”、男一匹、仁狭の世界へババーンというようなわけです。
 若い衆にセメントでバーベルをつくらせ、ヤクザがボディビルの猛トレーニング、なんとも変わった風景でしよう。でも実際にそうだったんです。昼は猛トレ、夜は沖仲士相手の「入ります!」の手なぐさみ。
 その年、はじめてボディビル・コンテストに出たんです。昭和35年度第6回ミスター日本コンテストです。金沢選手が優勝して、私は4位でした。
当時は今ほど情報が発達していませんでしたから、私がヤクザとは誰も知らなかったんでしょうがね。
 このときの親分との会話はいまでもはっきりおぼえています。
「おい大久保。お前ボディビル・コンテストちゅウ何やらで4位になったんだってな。よっぼど賞金もろたんと違うか。
 ミス東京かてすごいとか言うとったが、ミスターならなおのことやろー」
「いえ親分、ミスターはミスと違ってアマチュア・スポーツの形でやるのでトロフィーだけでした。」
「なんやてェー、あれほど毎日毎日ヨイショヨイショやって苦労した結果がやでェー、トロフィー1本だけやてェー、そんなつまらんもん、やめてしもたれャー」
「いえ親分、僕はこれが生きがいです。ぜったいにやめません」じっと私の顔を見ていた親分は、
「お前はヤクザのくせして酒もタバコもやらんし、いつまでたってもボクなんてヤクザに似つかわしくない言葉を使いおる。それに女遊び1つしないなんて、お前、足を洗え!」
 内心、ヤクザは私の性に合わないし早いうちに足を洗いたいと考えていたので、この親分の一言がきっかけで足を洗ったんです。普通、足を洗うときは、指の1本もつめなけりやならないんですが、
話のわかる良い親分夫妻でよかったといまでも思っています。そしてまた、1曲いかがですか“イキな黒塀、見越しの松に”と艶歌師に戻ったんです。当時の値段が3曲歌って100円、それに1曲サービス。
お座敬というのは1,000円くれたお客さんで、一晩酒をつき合ったものです。いま考えると良き時代だったんですね。

◇プロビルダーに転向◇

 ボディビルの方も、もちろん続けていました。渋谷の日本ボディビル・センターに入会して、平松先生にコーチを受けたのもその頃です。
 ある時、おなじみさんがお座敷をかけてくれて、生まれて始めてキャバレーに行ったんです。名前もよくおぼえています。五反田の“カサブランカ”です。そこで“へラクレス・ショー”を見たんです。
いま浅草でへラクレスという店を経営しておられる加藤さんが演じてたものです。もちろん、そのときはその人が加藤さんということは知らなかったのですが、平松先生にその話をしたところ、
「多分、それは横浜の加藤さんではないか」とのことでした。その後平松先生の紹介で加藤さんとコンビを組んで芸能界入りをすることになったわけです。
 そして昭和36年、大阪で行われた第1回ミスター全日本コンテストで夢にまでみた優勝をなしとげたのです。とにかくうれしかったですね。
とくにうれしかったのは、私の目標であり、尊敬していた、いやいまでも尊敬している金沢利翼さんを破って優勝したことです。
 優勝、優勝、ついに俺は優勝したんだ。全日本コンテストでナンバーワンに認められたんだ。俺は日本一になったんだと、うぬぼれましたねェ。そして、今度は東京で開催されたミスター日本コンテストを狙ったんです。
当然優勝か悪くても2位に入ると思ってたんです。しかし結果は4位でした。私はその結果を審査員のせいにしましたよ。それが審査員のせいではなく、自分のうぬぼれのせいだと悟ったのはずいぶん後のことでした。
 その後、シュワルツェネガーとコロンボをゲストに迎えて行われた第1回IFBBオールジャパン・コンテストのプロの部で優勝しました。
加藤さんとコンビを組んでやっていたんですが、どうも私の夢とちょっと違うんです。というのは、僕は写真のアダジオをやりたかったんです。あくまでも肉体の美しいプロポーションを大切にしたかったんです。
そのためには、やはりプロポーションの美しい女性とコンビを組むのがよいように思えたんです。
 そこで、ある友人にパートナーを探してくれるようたのんだんです。そして紹介されたのが、洗たく屋の事務員で小さい頃からアクロバットをしていたという女の子なんです。
私は一目で気にいり、それ以来、ずーとコンビを組んでやってきました。つまり、それが女房の静代なんです。
 この芸能界では、男と女がコンビを組むということは、即結婚というくらいの意味があるんです。それくらいお互いの長所、短所を知り、コンディションを知らなければ、いい芸は出来ないということです。
考えてみれば、私はいいパートナー、いい妻に恵まれたと思っています。私が今もこうやって元気に将来の夢に向って頑張り、体を維持できたのも女房というよきライバル、よきパートナーがいたからです。
これからも私達夫婦の生き方を見守ってください。きっとやりますよ――。
 これが大久保自身が語ってくれた彼の人生街道である。なんとなく面白く話そうと気をつかって話してくれた大久保から、私は逆に、大久保のこれまでの生き方、これからの人生に対する脈々と流れる自信をうかがいとれた。

◇ベストをつくす◇

人生の充実感や満足感はどこから生まれるものだろうか。スポーツの経験がある方なら多少でも理解できると思うが、充実した心や、「やった!」という満足感は、努力の結果として生まれるものではなく、
努力する過程においてこそあるものです。
 これは洋の東西を問わない。たとえばアメリカ大統領、ジミー・カーターは、その著「なぜベストをつくさないのか」の中で「本気で精一杯の努力をしよう。それが私の今日です」といっている。
「人事を尽して天命をまつ」という東洋の診と完全に同じです。努力すれば必ず成功するという保証はどこにもないが、結果を考えず、つねにベストを尽すという日常の心がけが大切なのである。
「流される人生はいやですねェ。私はこの年になっても毎日毎日ベストを尽しているつもりです」と大久保はいう。
表面だけ“エエカッコ”みせようなどという甘い気持ではできないことである。もっときびしく、自分自身に対しての誠実さが必要なのだ。
 大久保は「ボディビル界から馬鹿よばわりされようと、芸人とさげすまわれようと、猛トレをやって立派な芸を完成することによってそれにうち勝つ心もおのずと生れます」という。
「やるだけのことはやった!あとは天命をまつのみ」この連続が充実感や満足感を人に与えてくれるのである。
 大久保の人生はその連続であったといってもいい。そして、将来に対してさらに大きな目標を持っている大久保は、プロビルダーのパイオニアとしてこれからもベストとチャレンジを繰り返すという。
つねに前を向いて進む。そこにはきっと良い結果が生まれるはずである。       (つづく)
月刊ボディビルディング1977年7月号

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