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ボディビルと私
ボディビルこそわが人生 1971年2月号

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月刊ボディビルディング1971年2月号
掲載日:2018.07.26
国分寺ボディビル・クラブ
代表 関 二三男

ボディビルの存在を知る

 たしか、中学2年生の頃だったと思う。ある新聞に、米国のレスラー、バット・カーチスの写真がのっていた。そして、その太い腕や、部厚い胸はボディビルで作り上げたものだということを知って、私はその日からボディビルのとりこになってしまった。
 私は当時、宇都宮市に住んでいた。今でこそ、いくつかのジムがあり、多くの人がトレーニングに励んでいるが16年前のその頃は、宇都宮市にはジムと名のつくものはなかった。子供心にもボディビルはアレーやバーベルを使って行なうものぐらいは、わかっていたが、それ以外はまったくわからなかった。
 ボディビルというものを、もっと詳しく知り、1日も早くトレーニングして、バット・カーチスのような逞しい身体になろうと思ったが、ジムもないし、器具もなく、気持があせるだけでどうすることもできなかった。

独学、自己流のトレーニング

 私も多くのビルダーと同じように、少年時代は貧弱な体であった。何とか器具を買いたいという一念から、3ヵ月間新聞配達をして、やっと10ポンドの鉄アレーを手にすることができた。そして、さっそく自己流のトレーニングを開始した。
 まず、どうしたらもっとも早く効果が上るかと考えた結果、できるだけ重く感じられる運動がよいだろうと、自分なりにいろいろな種目を考案した。この自己流のトレーニングの中で、一番困難だったのは、今になってみるとストレート・アーム・プルオーバーに近い種目だった。
 その頃の私のトレーニング方法は、まず、朝登校前にワンハンド・プレスを左右各200回、そして、下校時には友達を数人連れてきて、シット・アップ、カール、プルオーバーそして最後にランニングと、相当きびしいものだった。まもなく手製でバーベルをつくり、プレスもやり始めた。自己流とはいえ、相当効果もあり、半年程たつと腕相撲では学校中でNO1の強さになっていた。
手製のバーベルでトレーニングした19歳当時

手製のバーベルでトレーニングした19歳当時

独特のベンチを考案

 その後、東京に出て、自動車整備の仕事をしていた私は、ブレーキ・ドラムを集めてバーベルを作り、今度はボディビルの参考書も手に入れて、本格的にトレーニングを始めた。
 その頃、私は自分で独特のベンチを考案した。このベンチは、頭の位置するところは頭と同じ巾で、背中の部分は狭くなっており、お尻のところは広いという独特の形で、とくに、背中の部分が狭くなっているため、肩の動きがスムーズで、とても使いやすいものであった。
 20歳になったとき、銀座の真珠商に勤めるようになって初めて、ちゃんとしたバーベルを買い、トレーニングに励んだ結果、ベンチ・プレスで100kgを8回、スクワットは100kgを15回できるまでになった。その頃、海水浴やプールに行くと、洗濯板のような胸の男性が多く、そんな中で私の体は、かなり人目を引くようになっていた。
 誰でもボディビルをやれば、男らしい体になれるんだと、手当り次第、友達や知人にすすめたものだった。そして、将来はどんなに少さくてもよいから自分でジムを開き、たくさんの人にボディビルの良さを知ってもらおうと思うようになった。
現在の筆者

現在の筆者

念願のジム誕生

 24歳で結婚した私は、本格的にジム設立を考えるようになった。それには今までのボディビル以外に、綜合的なウェイト・トレーニングを覚えなければいけないと思い、神田のYMCAに通うことにした。そして、しばらくの間重量挙に専念した。その間に、現在ボディビル界で活躍している、鉄人ボディビル・クラブ会長の宮本氏、江古田トレーニング・センターの斉藤氏をはじめ、数多くの知己を得ることができた。
 昭和43年の秋、国分寺駅南口の近くに7.5坪のプレハブの建物を建て、同好会のような形で、おっかなびっくり小さなジムを開いた。幸いにして、ボディビルで知り合った近所の幾人かの青年が開設当初、何かと力になってくれて、半年後には会員数70名に増え、現在では会員数100名を越えるまでになり、ジムの広さも、やっと15坪に拡張することができた。
ボディビルに理解のある妻と(大磯海岸にて)

ボディビルに理解のある妻と(大磯海岸にて)

強い人にはより厳しく
弱い人にはやさしく個人差指導

 現在私のジムには、最近広島のYMCAから移籍してきた岩岡君(70年度全日本パワー・リフティング中量級優勝)や、日本のビルダーでは初めて自分の体重の3倍以上の重量で、スクワットを行なう因幡君をはじめとして、全日本級のパワー・ビルダーや、コンテスト・ビルダーを狙う者が数名おりこの連中には、とくに妥協のない厳しいトレーニングをさせている。
 また、初心者には、まずなによりもボディビルをより深く理解してもらい基礎を充分につんでから、各人の特徴にあったトレーニングを指導するようにしている。そして、これがためには練習生と気軽に話し合う機会を多くつくるように努力している。

足腰は健康の要

"体力の衰えはまず足から"と昔からいわれている。最近よく、ぎっくり腰だとか、腰椎分離症になった人の話を耳にするが、これは背筋とくに、固有背筋を強化しておけば、まず、その心配はないと私は確信している。そういった意味で、私は初心者のうちから必ずスクワットを行なってもらい、40~50歳の人でも始めてから3~4ヵ月で100kgを目標にしている。もちろんこの種目は危険が伴うので、必ず補助をつけることにしている。
 海外の一流ビルダーを見ると、とくに、足から大殿筋にかけての発達がすばらしいのに感心させられる。とかく上半身を鍛えることに集中しがちであるが、もう一度スクワットの効果を見直そうではないか。
練習生にスクワットの基本をコーチする筆者

練習生にスクワットの基本をコーチする筆者

"自己記録を破る会"

 私のジムでは、9月から3月まで毎月最終日曜日に"自己記録を破る会"というのを行なっている。これは練習生の励みと、トレーニングの成果を正式に記録するという意味で、大いに効果があると思う。そして、みんなに刺激を与え、互いに記録をのばすという意味で、当ジム以外の人の参加も大いに歓迎している。また、とくに日曜日を選んだのは、まだボディビルを知らない人や、自宅で自己流でトレーニングしている人に観てもらい、ボディビルをより正しく理解してもらいたいためである。
 これまでの記録では、低い方は、ベンチ・プレス60kg、スクワット100kgから、高い方は鉄人ボディビル・クラブの宮本氏のベンチ・プレス162.5kg、スクワット210kg、トータル372.5kg(従来の日本記録は360kg)と千差万別である。
"自己記録を破る会"に出場した会員たちと

"自己記録を破る会"に出場した会員たちと

指導者は専門的知識が必要

 これからの社会体育は、ウェイト・トレーニングなくしては考えられないそして、広く一般大衆に理解してもらい、会員に、より適切な指導をするためには、私自身が、もっと専門的な知識を身につけなければいけないと思い、過日、国立競技場で行なわれた日本体育施設協会主催のウェイト・トレーニング、サーキット・トレーニング指導士講習会と認定試験を受けた。
 この講習会では、各種トレーニングはもちろん、保健、医学、栄養等まで各専門分野の講義があり、きわめて有益であった。ただ講習会の参加者のほとんどが学校体育関係の人で占められており、日常ボディビルにたずさわっている人の姿がきわめて少なかったのは残念であった。
 より広い知識を吸収するために、各ジムの指導者にぜひ受講されるよう勧めたい。

休憩室

ボディビルの弊害?

 ボディビルを始めて1週間位は、筋肉が痛くて痛くてやり切れなかったという経験の持主は多いことと思う。
 しかし、それを乗り越えて2~3ヵ月熱心にトレーニングを続けると筋肉が目に見えて発達する楽しみを知り病みつきになる人が多い。
 ところが、日毎に筋肉が発達するのは、喜び以外の何物でもない筈なのにどうしたことか困ることがある。
 それは、からだが大きくなればなる程、当然ながら着ているものが小さくなってしまうということだ。
 腕を上げると背広のわきがつっぱったり、深呼吸をしたらシャツのボタンがとんだり、しゃがんだひょうしにおケツのあたりがビリッとさけたりする。
 こんなわけで、着る物を新調しなければならなくなるのだが、薄給の若いサラリーマンや、親のスネをかじる者にとっては、少々手痛い出費となる。
 これから、ボディビルを始める人は背広を作るなら、大きめにするか2~3ヵ月以上たってからにした方がよさそうだ。
 かといって、あまり大き過ぎてはいけない。
 私なんぞは、5年前に作った背広の大きさに、予定が狂って、からだの方が合わず、今だに着られない。

愚公山を移す

 中国には、ふるくから「愚公山を移す」という寓話がある。その話というのは、むかし、華北に住んでいた北山の愚公という老人の物語である。
 彼の家の南側には、その家に出入りする道をふさぐ太行山と王屋山という2つの大きな山があった。
 愚公は、息子たちをひきつれ、くわでこの2つの大きな山をほりくずそうと決心した。
 智叟という老人がこれをみて笑いだし、こういった。
 お前さんたち、そんなことをするなんて、あまりにもばかげているじゃないか。お前さんたち親子数人で、こんな大きな山を2つもほってしまうことはできゃぁしないよ、と。
 愚公はこう答えた。私が死んでも息子がいるし、息子が死んでも孫がいる。このように子々孫々つきはてることがない。この2つの山は高いとはいえ、これ以上高くなりはしない。ほればほっただけ小さくなるのだから、きっといつかはほりくずしてみせるさ、と。
 愚公は智叟のあやまった考えを反駁し、少しも動揺しないで、毎日、山をほり続けた。
 これに感動した上帝は、ふたりの神を下界に送って、2つの山を背負いさらせたというのである。
 この話の中には、多くの教訓があり、ボディビル愛好者にとっては、毎日のトレーニングの努力がいかに大切であるか、また、自分には素質がないからだめだという考え方が、いかに消極的で弱々しいものか考えさせられる。そして、仕事、学問など社会生活全般にも教訓として役立つものといえよう。
 今年は、愚公の精神でガンバろう
月刊ボディビルディング1971年2月号

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