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☆私の歩んだ道☆
ミスター日本の栄冠をつかむまで

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月刊ボディビルディング1974年4月号
掲載日:2018.07.29
岡山トレーニング・センター・コーチ
'73ミスター日本
宇戸 信一

☆少年野球の3番バッター☆

 私の生まれは現在の北九州市八幡区である。生後1年あまりで同市戸畑区に転居し,私か社会に巣立つまでずっとここで暮らした。

 この地は昔からスポーツが盛んで,とくに野球,柔道,バレーボールは全国的に名がとおっていた。そんな環境に育った私が,始めてスポーツに親しんだのは野球で,確か小学校2年のときだったと記憶している。近くの広場で2人の兄と暗くなるまでキャッチボールをしていては,よく父に叱られたことをいまでも想い出す。

 長兄(征雄・新日鉄勤務)次兄(和光・協和醗酵勤務)ともに,子供の頃からたいへんなスポーツマンで,とくに野球,短距離,相撲では,近くの町では抜群だった。末っ子の私も,そんな兄たちや,厳格な柔道明段の父の影回を強く受けて小さいときからいろいろなスポーツに親しんできた。その中でも野球をいちばん好んでやった。

 そんなわけで,自然に野球が上手になり,自画自賛になるが仲々のものだった。小学校5年のとき,近所の野球好きのおじさんのきも入りで,町の小学生を対象にした少年野球チームができた。「みつわクラブ」と名付けたこのチームで,私は3番でサード。新調したユニホームで,日曜日にはよく他流試合に出かけたものだ。

 中学校に進んでからも,クラブ活動は当然野球部に籍をおき,一日も休まず練習に汗を流した。高校に入ってからも野球部の中心選手として活躍していた。

 それがどうしたわけか(多分,勉強のやり過ぎか?これは冗談),高校3年生になったころから視力が急に落ちてきて,練習にも不便を感じるようになってしまった。 しばらく野球から遠ざかり,何か視力が弱くてもやれるスポーツはないものかと兄たちとも相談したか,野球に変わる適当なスポーツが見付からないまま高佼を卒業し,学校の推せんで,ある商社に入社し広島支店に赴任していった。

 ご存知の方もあると思うが,エコノミック・アニマルといえば,すぐ商社が浮ぶほど猛烈に忙しいところで,とくに昭和41. 2年頃の日本経済の急成長と相まって,私のいた商社も,それこそ目の廻るような忙しさだった。朝9時に出社して,帰宅は毎晩8時過ぎ,お客さん接待の場合は夜中の12時過ぎという生活が続いた。

 子供の頃からスポーツ好きだった私は,何かスポーツをやらないと体がなまってしまい,いつかは病気になってしまうような不安にかられてきた。しかし,忙しい勤務の合い間にやれる適当なものはなかなか見付からなかった
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☆ボディビルとの出会い☆

 確か昭和42年の4月16日だったと思う。市内のショッピング・ストリートを1人でぶらぶら歩いていると,見知らぬ人が近寄ってきて,いきなり「いい体をしているね,何か運動をしているのか?」と話かけてきた。「学生時代はずっと野球をやっていましたが,いまは別にやっていません。何か身近に運動できるものがあればやりたいと思っていますが」と私が答えると,その紳士は「それならボディビルをやればいい。この近くにあるよ」と,親切に地図を書いて教えてくれた。別れぎわにもう一度「ぜひやるといいよ」と念を押して行ってしまった。この中肉中背の紳士に会ったのは,これが最初で最後となり,いまもその人が誰かわかっていないが,現在も広島におられるのだろうか。ぜひ一度お会いしたいと思っている。

 翌17日,いっもより早めに仕事を終えて,例の紳士に書いてもらった地図を頼りに早速たずねていった。日指す場所はすぐわかった。「広島トレーニング・センター」の看板と,トレーニングの目的などを書いた掲示板が出ていた。ボディビルという言葉は知っていたが,実際に自分の目でそれを確めたのはこれが始めてだった。見知らぬ紳上のすすめで,私の人生が大きく変わっていった運命の日である。

 早速,会長からいろいろと話をうかがった。会長の名前はいうまでもなく金沢利翼氏。ボディビル界の大先輩であり,過去に二度,ミスター日本のタイトルをとったことなど,そのときはもちろん知らなかったが,理路整然とボディビルの有効性を説明され,そのうえ,会長自身の見事な肉体を見て,私はいっぺんにポディビルのとりことなってしまった。以後,この私をいろいろな面から,ときにはきびしく,ときにはやさしく指導してくだされ,私が参運にも昨年度のミス々一日本に優勝できたのも会長のお陰だと,そのご恩を忘れたことはない。

 会員の中にも仲々立派な肉体の人が何人もおり,最初は健康管理が目的で入会した私も,自分も何とかあんな体になってみたいと,いつの間にか逞しい肉体へのあこがれに変わっていってしまった。

 最初の頃は,先輩の助言を得て,ベンチ・プレス,カール,スタンディング・プレス,スクワット,シット・アップの基礎5種口を毎日毎日繰り返して行なっていた。体のあちこちが痛くて仕事が手につかなかったこともあった。

 私は幸いにも先天的に肩幅が広く,フクラハギの筋肉などは現在とそれほど違わないほど発達していたので,他の会員と比較して,体全体の発達も早かったようだ。

 その年の8月6日,第1回ミスター広島コンテストが開催された。当時,ボ歴4ヵ月の私は,どうせ駄目だとは思ったが,年に1回の大会だからと,軽い気持で申込んだ。コンテストを前にして,先輩たちは必死にトレーニングしていたが,私は最初から入賞など度外視していて欲がなかったから,相変わらずマイペースでのんびりと練習をしていた。

 いよいよ大会当日を迎えた。私は予想もしなかった5位入賞ということで自分でもびっくりしてしまった。このときのゲスト・ボーザーは,武本,小笹の両選手で,2人とも当時現役のパリパリで,その肉体の素晴らしさに大きな感動を受けた。そして,この時から私は心の奥深く,将来きっとミスター日本になってみせよう,と考えるようになった。

☆第2回ミスター広島に初優勝☆

 思いがけなく初出場で5位に入賞したことが刺激となって,こんどは来年のミスター広島優勝という欲がでてきた。トレーニングにも一段と熱が入り自分なりにいろいろと研究も重ねた。

 この努力は1年後に現実となって報われた。第一目標のミスター広島に晴れて選ばれたのである。しかし,その余勢をかって出場した第1回ミスター中国(現在は中止)は無惨にも5位。喜びも束の間,いままで順風満帆にきていたところ,始めてボディビル界の勝負の冷厳さに会い,それ以来,つまり昭和43年から45年のミスター日本コンテストに8位入賞するまで,ほんとうに苦しい3年間が続いた。

 この3年間,仕事と練習の両立にもっとも苦労した。商社という関係上,どうしても飲む機会が多く,夜も遅くまで仕事があるので,練習時間は1日に1時間とるのがやっとだった。他のビルダーが,1日に3時問くらいたっぷり練習しているのを見ると,あせらずにはいられなかった。

 こうなれば,練習時間はどうにもならないが,それなら質でカバーしようと考え,1筋肉群に3種目,各5セット充当して,しかもトレーニング中のセット間休息を極力短縮して中味の濃い練習に心がけた。もちろん,おしゃべりはタブーだ。

 苦しい3年間ではあったが,「必ずチャンピオンになってみせる」という暗示を自分自身にかけ,それを心の支えとして頑張った。そして,ときにはくじけそうになる私を励ましてくれた金沢会長や,先輩,親友,そしてもう1人,私の姉がいなかったら,今日の私はあり得なかったと思う。

 こうして前述のように1970年度ミスター日本で8位に入賞でき,ようやく暗いトンネルから抜け出すことができた。このコンテストにゲスト・ポーザーとして招かれた,皆さまよくご存知のボイヤー・コーを始めて目のあたりに見た私は,その強烈な迫力に,いままで私が考えていたボディビルを根底からくつがえされる思いだった。

 俗にいうバルクとかデフィニションとは違う,もっと次元の高いマッスルを形成しなくては,これからは通用しないのではないかと考えはじめた。では,それにはどうしたらよいか。コンテストのあと,眠れない日が何日も何日も続いた。

 この頃かろ外国のボディビル誌「マッスル・ビルダー」や「ヘルス・アンド・ストレングス」などを,辞書を片手に必死になって読み,それを自分なりにアレンジして,トレーニングや栄養の摂り方に生かしていくことにした。

☆岡山トレーニング・センターのコーチに☆

 1971年度のミスター日本では7位に入賞することができた。この年は仕事がさらに忙しくなり,トレーニングは週3~4日とるのが精一杯だった。こんな状態で7位に入賞できたのだから自分としては一応満足だった。しかし来年はもっと忙しく,それに責任も重くなるであろうから,練習時間はさらに少なくなるに違いない。やはり仕事との両立は無理かも知れない。どちらかを選択するとすれば当然,仕事が優先すべきで,ボディビルは健康管理として暇の折りにやるより仕方ない,と心に決めていた。

 1971年の暮れも間近な頃だった。金沢会長から「岡山トレーニング・センターから,君をコーチとして招きたいといってきているが,どうか」と尋ねられた。このお話は私にとってまさに青天の霹れきともいえるありがたいお話だったが,あまり突然だったので「よく考えさせてください」としばらくの猶余をもらった。

 〝住めば都〟というが,長年広島に住んだだけに自然愛着もある。それにようやく仕事にもなれ責任ある仕事もさせてもらっている。多くの友もいるし姉もいる。さらにトレーニング・センターの将来性ということも考えなければならない。一生の問題だけに簡単に結論は出せない。

 それから約1ヵ月くらいは,仕事も手につかないほど考えた。いろいろ身近な人にも相談した。その結果,私のボディビルヘの情熱は,それらの障壁を乗り越えて,「男なら一度決意した日本一をなんとしても達成したい。そして,ボディビルヘの誤解と偏見を取り除き,1人でも多くの人に正しいボディビルを実践してもらおう」と決意して,昭和47年2月,正式に会社を辞めて,生まれて始めて岡山の地にやってきた。

 最初は始めてのコーチだけに,多少の気おくれもしたが,会員の人たちも私をよく知っている様子で,すぐに溶け込むことができた。午前中は自分のトレーニング,午後は会員の指導と,生活のパターンがはっきりして,体の調子は以前よりずっと良くなった。

 仕事との両立に悩むこともなく,こんな恵まれた条件でトレーニングできるのだから,今度のミスター日本では意地でも6位以内に入らなければならないと,コンテスト2ヵ月前から目の色を変えてトレーニングに打込んだ。トレーニングはすべてスーパー・セットに組み,毎日2時間みっちり練習した。食事も蛋白質中心に切換えた。体調を崩さないように細心の注意をしながら,無事にいつになく好調な仕上りで大会当日を迎えることができた。

 この大会は,大阪の杉田,兵庫の石神,大先輩の金沢会長等,強豪選手が多かったが,私は落ち着いて自分なりの個性を出せば何とかなるだろう,と考え,比較的冷静に審査を受けることができた。

 優勝は下馬評どおり杉田選手。私は5位に入賞した。目標の6位以内入賞を果たしたのだから一応満足だった。この大会のゲスト・ポーザーは昨年のNABBAユニバース・アマの部で優勝したグリス・ディカーソンだった。このときのディカーソンの体調はおそらく7分程度だったと思うが,全身どこといって欠点のないきれいなプロポーションと,知的で鋭い眼が印象的だった。

 大会終了後,ディカーソンがわざわざ私のところにきて,「君のカープとアームは実に良い」とほめてくれた。単純な私は,この言葉に大いに歓喜し「よーし,来年はきっとやる」と新たな斗志をかきたてた。

☆1973年度ミスター日本優勝☆

 1973年度ミスター日本は3位以内入賞を心に誓って,いつもより早いペースで仕上げることにした。5月には具体的にスケジュールを組み,忠実にこれに従っていった。パートナーをつけて,すべての種目を極限回数まで繰り返すという,本当に苦しいトレーニングが続いた。そして,何よりも警戒したのは,自分自身の気持が緩まないよう,つねに気持を引き締めておくことだった。

 こうして体調も次第によくなり,昨年よりはるかに好調なことが自分なりに自覚できた。7月のミスター富山,9月のミスター岡山,ミスター四国,ミスター九州,10月のミスター広島のコンテストにゲスト・ボーダーとして招かれたが,そのいずれもベストの状態で望むことができた。

 大会も間近に迫ってきたころ,あちこちでミスター日本の予想がうわさされ始めた。それによると,優勝の最有力候補に私があがっているというのである。回りからこんなうわさが耳に入ってくると,いろいろ雑念が芽生え,一時体調がおかしくなってきた。

 うわさはあくまでもうわさ。私はいままでどおり「人事を尽して天命を待つ」,この心境でいこうと懸命に自分にいいきかせた。おかげで,コンテスト一週間ぐらい前から,元どおりのベスト・コンディションに戻り,コンテストを迎えることができた。

 大会当日,すでにやるだけのことはすべてやった,という安心感か,自分でも驚くほど冷静で,一次,二次の各予選も無事に終わった。

 決勝進出者は一応予想された選手たちが残っていた。須藤君は私が考えていたより一層よくなっていた。糸崎選干はきれいなプロポーションに逞しさが加わり,これまた強敵である。

 決勝密査が開始された。ポーズも大過なくすみ,あとは天命を待つのみである。この決勝審査が終了してから,審査結果の発表までは,せいぜい10分ぐらいと思うが,この10分がなんと長く感じられたことか。試合前の緊張とは違った,なんともやりきれない気持である。

 ついに1973年度ミスター日本の審査結果の発表のときがきた。7位の選手から次々に呼ばれて6位,5位と,だんだん上位に近づいてくる。3位・糸崎選手,2位・須藤選手。そして最後に「1973年度ミスター11本はゼッケン15番,宇戸信一選手」とアナウンスされたときは,私のいままでの人生で最高の瞬間であった。〝やった〟〝よかった〟〝バンザイ〟いろんな感激や興奮が混って,残念ながらとても言葉には表現できない。

 表彰台に立って,数々のトロフィーをいただきながら,暗く長かったスランプ,多くの先輩や友人の励ましや助言,ボディビルを始めて6年目でつかんだ日本一の座は,これらの人々のご声援があったからこそ得られたのだと感謝せずにはいられなかった。

 しかし,いつまでもこの感激にしたっているわけにはいかない。ミスター・ユニバースヘの挑戦もある。ほかにもまだまだやらなければならないことがある。私にとって,この栄冠は折返し点を通過したに過ぎないからだ。
月刊ボディビルディング1974年4月号

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