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ボディビルと私(12)
根性人生

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月刊ボディビルディング1974年4月号
掲載日:2018.07.29
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月彭 四郎

空前の盛況,第4回大会

 1963年の第3回ミスター全日本コンテストの成功により,1964年の第4回コンテストは前年にも増して,その規模といい,選手層の厚さといい,日本コンテスト界空前のスケールに成長する素地が整ってきた。

 ひとつ今月はこのときの最高に盛りあがって,ボディビル界にいっぺんに春がきたようなあの感激を,もう一度思い起こしてみたい。

 大会は1964年9月21日,一片の雲もない紺碧の大空の下で行われた。会場は大阪・浪速の地,歴史の里,服部緑地公園であった。都心に近いとはいえ緑の森に囲まれ,古々と澄んだ池が点在し,いにしえの文化遺産,介輩造りの歴史的建物とよく調和して,人の心をなごやかにしていた。浪速子の心のふるさととして,多くの大に貎しまれているこの会場で,これから全国から集まった逞しい若者たちの祭典が始まろうとしていた。

 この第4回ミスター全日本コンテストでもう1つ付け加えなければならないことがある。それは,それまで東日本ボディビル界と西日本ボディビル界がまったく別々に行動し,コンテストも東日本がミスター日本コンテスト,西日本がミスター全日本コンテストと独自に開催していた。これが関係者の熱意と努力により,ようやく1本化にまとまりつつあったことである。そして,このコンテストには東京から玉利斎前理事長も審査員として参加されたことにより,着々と東西1本化の実現が具体化しできたことである。

 当時,西日本側は松山理事長,谷口副会員,荻原副会長,佐野副会長等の役員の方々が指導的立場におられ,幾多の困難な問題を乗越えてこの1本化の解決に当たられていた。

 次に,この第4回大会に参加した選手数と規模についてふれてみたい。年とともに盛大になってきただけに,この大会でも相当多数の選手が出場することは予想されたが,まさか122名もの選手が参加するとは思わなかった。そして,当日,会場に押しかけた観客の数はおそらく5千人を越していたものと思う。

 日本のコンテストはもちろん,おそらく外国のコンテストでも例を見ないほどの規模だったといっても過言ではないだろう。122名の選手の応援団,ジム関係膏,学生群,実業団,一般のファンと重なり合って,さすがの広い会場も開幕を待たずに早やくも熱気がムンムンしてきた。

 当日の審査員には2人の異色審査員も登場した。すなわち,小さなヨットで大平洋を横断して話題になった堀江謙一氏と,日本スポーツ界の開拓者であり,三段眺びの日本記録保持者,南部忠平氏である。

 とくに青江青年が,綿密にヨットや海洋の研究をし,周到な準備とそして強い体力と精神力で見事大平洋を横断したことが報ぜられ,全世界に大センセーションを巻き起こした。この快挙のかげにある強い体力と精神力は,きわめて地味な日々の精進によって培われるものであり,ボディビルと相通ずるものが感じられのるである。こういった意味で,堀江青年が審査員としで参加されたことは,ボディビルを広く一般大衆に普及するという点においても大きな意味があった。

 やがて大会の幕は切って落とされた勇壮な警察の音楽隊の演奏に合わせて122名の選手が入場してきた。このときの感動は,いまも私の脳裡に焼きついてはなれない。私に限らず,正しいボディビルの普及発展の開拓者となって,長い間,精根を傾けてきた他の役員たちも,きっと私と同じように感激にむせんだことであろう。
[参加選手122名を数えた第4回ミスター全日本コンテスト]

[参加選手122名を数えた第4回ミスター全日本コンテスト]

 こうして何もかもが揃ったコンテストは,いやがうえにも厳正,かつ公平であり,選手の1人1人がスポーツマン・シップにのっとり,日頃の成果をこの一瞬に発揮せんものと,まさに手に汗をにぎる熱戦が展開されていった。

 ここで,この大会に出場したおもな選手を紹介すると,東京からは後藤選手,遠藤選手,大阪からは武本選手,井上選手,荒木選手,徳弘選手,堂明選手,京都からは占田選手,九州からは小笹選手と,いずれ劣らぬ強豪が勢揃いして実に壮観という言葉がピッタリだった。

 話がちょっと横道にそれるが,この大会のあと東西のボディビル界は1本化していったが,昨年再び分裂してしまった。この大会に一緒に出場した荒木,井上,遠藤,武本,小笹らの各選手は,いまはジムの会長として,あるいはコーチとしてそれぞれ活躍していり,ずっとボディビルを愛し続け,ボディビルに徹し,ボディビルに情熱を傾けている姿をみるとき,もう一度,大同団結していけないものだろうかと,残念でならない。

 当時,選手として同じ舞台で覇を競い,よきライバルであり,よき友であったはずである。人それぞれに信念があり哲学もある。しかし,ボディビルの正しい発展のために,日本人としての共通の哲学を発見することが,次の世代へ引き継ぐわれわれの任務ではないかと思う。1日も早く,またもとのように全国のボディビル界が1本にまとまることを願ってやまない。

デフイニションの小笹が優勝

 さて脱線はこれくらいにして,舞台では予選が順調に進んでいった。私も審査員の1人であったが,この大会ほど,その判定に頭を悩ましたことはなかった。紙一重の差しかない当時の川本トップ・ビルダーが,次から次へと登場してくるのだから,どう点差をつけたらいいのか,とても人間業では不可能とさえ思われた。

 さて,この激戦の中から次の6名が決勝に進出した。すなわち,東選手,堂明選手,吉田選手,武本選手,梯選手,小笹選手である。

 再度,舞台にこれら6選手が登場するや,一斎にカメラの閃光フラッシュ。驚いたのは選手たちより私たち審査員の方だった。舞台を取り囲むようにしてカメラマンたちが黒山になっている。いままでの大会では見られなかった異様な光景である。

 よくよく聞いてみると,毎日新聞社と大阪写真材料協会の共催による「ミスター日本フォート・コンテスト」が行われていたのである。突然のこのフラッシ肩こ,決勝審査のムードはいやがうえにも盛りあがり,満揚の観衆の声援と,選手の一挙手一投足が1つとなって興奮は最高潮に達した。
[第4回ミスター令日本コンテストで優勝した小笹選手。左は2位・梯選手,右は3位・武本選手]

[第4回ミスター令日本コンテストで優勝した小笹選手。左は2位・梯選手,右は3位・武本選手]

 やがて第4回ミスター全日本コンテストの成績が発表された。

 優勝は小笹選手。デフィニションの小笹といわれるほどキレのよい筋肉で見事に初優勝を飾った。2位は前年度優飭の梯選手で,2年間保持した王座をついに明け渡すことになった。第3位は地元大阪の武本選手が入った。私は武本選手の見事な脚に圧倒され,決勝審査では彼に最高点をつけたほど強烈な印象を受けた。まだ全体としては未完成な部分もあるが,将来,日本のボディビル界を代表する選手になるだろうという予感がした。果たして彼は1967年のミスター全11本, 1970年のミスター日本と日本一の座にっき,さらには外国のビッグ・コンテストでも活躍するほどの大選手となった。
第4回大会に参加した選手たち。左から荒木(十三ボディビル・センター会長),井上(南大阪ボディビル・センター会長),鈴木正広,遠藤(錦糸町ボディビル・センター会長),梯(前年度優勝),吉田,徳弘,堂明の各選手。現在でも日本のボディピル界で大活躍のメンバーたちである。

第4回大会に参加した選手たち。左から荒木(十三ボディビル・センター会長),井上(南大阪ボディビル・センター会長),鈴木正広,遠藤(錦糸町ボディビル・センター会長),梯(前年度優勝),吉田,徳弘,堂明の各選手。現在でも日本のボディピル界で大活躍のメンバーたちである。

学生チャンピオン上野君の思い出

 わが国際ボディビル・センターも,諸先輩や友人たちの温いアドバイスにより,着々と部員の数も増えていった。とくに,世界の有名ビルダーの写真と私の写真を組み合わせたポスターを夕-ミナルというターミナルに出したのと,コーチや会員幹部たちの積極的な宣伝活動が効果をあげたようだった。

 間もなく,ジムを尋わてくる人,電話をかけてたずねる人,いきなり飛び込んできてその日に入会手続をとる人など,にわかに活況を呈してきた。つまり,いままで潜在していた「からだを鍛えよう」という意志を,宣伝という干段によりほり起しにかかったのである。これは国際日活というバッグがあったこともあって見事に的中した。しかし,注意しなければならないことは,なんとなくめずらしい,という,意外性の中で的中した部分もあって,こうした宣伝も普遍化するとあまりその効果は期待できないかも知れない。

 その頃,(故)三島由起夫氏を始め,俳優の宍戸錠,岡川真澄,柳沢真一らも一日会員としてよく練習にきた。そんなときには,一般会員たちと打ちとけていろいろ話をするミィーティングの機会などもっくった。また,私のプロレス時代の親友である登豊氏やユセフ・トルコ氏などもよくたずねてきて,会貝たちにプロレス式のハード・トレーニングなどをやってみせてくれた。

 ちょうどその頃,近畿大学レスリング部員だった上野慶三君が私を尋ねてきて,ぜひボディビルを初歩から教えていただきたい,そして学生ボディビルの普及に一役かいたいというのであった。

 今でこそ学生ボディビルも全国的組織に成長し,多くのコンテストも開催されているが,当時はまだ組織らしいものもなく,また実際にボディビルの本格的な練習をしている大学もなかったように思う。

 たしかそのとき上野君は私につぎのように話したのを憶えている。「学生の体は近年めっきりモヤシ型が多くなり,レスリング部員の勧誘をしたくても,新入生のごく小数の学生を対象にしなくてはならない。

 近畿大学といえば,スポーツにかけては関西,いや日本でも指折りの有名校で,関西大学野球の雄であり,相撲は学生相撲の横綱級が揃っており,レスリング,ボクシング,なんでも盛んでありながら,年々新入学生の体格が低下してくるのはなんとも情ない。

 ひとつ,自分の手でボディビル部を創設し,学生の体位向上を図りたい。そのために,自分で初歩から勉強して月影式根性トレーニングを会得し,加えて,種々のトレーニング法や,器具の選択もしてほしい」という内容だった。

 私のモットーは青少年の善導育成であり,これを断わる理由は何もなかった。それよりも,このキラキラと目の輝く若者の情熱には,かえってこちらが頭が下がるほどだった。

 やがて私の見込どおり,上野君は近畿大学ボディビル部を創設し,学生ボディビル界の推進者として,今日の学生ボディビル運動の基礎をつくった。私の育てた多くの門下生の中でも,とくに優秀な1人であり,肉体的な面のみならず精神的にもしっかりした,私の自慢の弟子である。

 彼は小さい体ではあったが,きれいなデフィニションの持主で,昨年,NABBAユニバース・コンテストでポージング賞に輝やいた杉田選手も,当時(7年前)は上野選手にいろいろ教えられ,研究し合っていた姿がいまもよく思い出される。

 一昨年,私か現在の東大阪ボディビル・センターを開段したとき,上野君は遠方から多数の近畿大学生を連れてきて,いろいろとジム開設に力を貸してくれたのである。そして,今日,こうしてわれわれのボディビル部があるのは,月影先生の恩があればこそと,学生ビルダーに根性論を一席述べてくれた。

 こうして私のボディビル指導を通じて人格形成がなされ,信義を重んじ,友愛を尊ぶ人たちが,1人増え,2人増えていくことに大きな喜びを感じずにはいられない。これからボディビルを志す若い諸君も,肉体面のみならず,きびしいトレーニングを通じて,こうした精神面をも鍛えてほしいものである。

 (つづく)
月刊ボディビルディング1974年4月号

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