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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
ボディビルで鍛えた根性と体力でプロレス界になぐり込んだ国際プロレスの雄
IWA世界タッグ選手権者、アジア・タッグ選手権者
怪力アニマル・浜ロ

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月刊ボディビルディング1977年12月号
掲載日:2018.03.29
~~川股 宏~~

◇プロレスのルーツはボディビルディング◇

どうした訳か、日本ではボディビルが誤解され続けてきた。とくに、格闘技をする人達からは「あれはペーパータイガーだ」とか「体が固くなってしまうからよせ」などといわれてきた。

柔道や空手などのように、とくにワザを重視するスポーツにおいては、姿三四郎のように、小さな体で大きな悪者を倒すのがカッコーの良いあこがれとなり、“体を作る”いわば基礎体力作りなど、軽視しがちになったものであろう。小さなものが大きなものを破る東洋の神秘性好みが影響しているのかも知れない。

ところが、オリンピックで柔道の本家日本がへーシンクやルスカに破れてしまった。そして、その勝因は、技と体作りを同時に行い、とくにバーベルトレーニングによる体力づくりを重視した結果だということがわかった。オリンピック強化コーチの猪熊六段など「ルスカのあの腹筋を見習え」と指摘した。そして徐々にではあるが、ボディビルがすべてのスポーツに必要な基礎体力づくりに重要だということがようやく理解されてきた。

ところで、あの肉弾相うつすさまじい格闘技を見せるプロレス界においては、ずっと以前から筋肉・体力の養成手段としてボディビルがとり入れられてきた。当然、ビルダー出身者がプロレスラーとして勇名をはせている例も多い。

たとえば、WWWFチャンピオンで超怪力ビルダーのビリー・グラハム、華麗なる仮面レスラー、ミル・マスカラス、ブラックパワーの雄アール・メーナード、アントニオ猪木を育て今や名コーチとしても有名なカール・ゴッチなど、いずれもボディビル出身者である。その他のレスラーも一般のビルダー顔負けのバーベル・トレーニングをしている。

一方、日本人レスラーの方に目を移すと、新日本プロの山本小鉄、全日本プロの藤原嘉明、ストロング小林などがビルダー出身だし、新日本プロの名レフリー、ミスター高橋は昭和41年度のミスター神奈川で入賞している。国際プロのマイテイ井上、デビル・ムラサキなどもビルダー出身だし、今回紹介するIWA世界タッグ選手権者アニマル・浜口も、昭和42年度ミスター兵庫2位入賞の実績をもち、将来を嘱望されたコンテスト・ビルダーだった。

“技は力の内にあり”とは大山倍達氏の言葉だが、ボディビルで鍛えた肉体に技をプラスすることによって、はじめて一流の選手になれるのだ。怪力アニマル・浜口をはじめ、ビルダー出身のレスラーがプロレスの世界で大成しているのを見るにつけ「ボディビルはプロレスのルーツ」の感がする。

◇ボディビルの虫◇

昭和22年、島根県出身の浜口平吾は大阪府堺市の置荘中学校を卒業している。だから、アニマル・浜口にとって故郷といえば出身地島根より大阪を指す。それほどアニマル・浜口にとって大阪はいろいろな想い出がある。その想い出のうちでも、とくに強烈なのは浜口の人生を変るほどのボディビルとの出合いであった。

「あのころは無茶苦茶な練習をしたもんです。いま想い出しても、よくあんなハード・トレーニングが続いたと思います。当時、尼ケ崎のトレーニング場で練習したり、荻原稔会長の経営するナニワ・ボディビル・センターで練習したり、とにかく寝てもさめてもトレーニングのことで頭がいっぱいでした」

18才からボディビルを開始したアニマル・浜口は、トレーニングと相まって体もどんどん大きくなってきた。もちろん、まだそのころは将来プロレスラーになろうとは夢にも考えていなかった。ただ、コンテストに入賞できるような体に早くなりたいという一心だった。生活もすべてボディビル中心だったし、“食うバカ、寝るバカ、稽古バカ”といわれる“相撲バカ”と同じように“ボディビル・バカ”に徹していた。

そのころのトレーニングは、まだ現在のような科学的トレーニングではなく、日本古来の武道のようにボディビルの練習の中に“根性”とか“練武”のように精神的なものを求めていた面もあった。だから、トレーニングも相当にハードで、ベンチ・プレスを1日に100セットもやるとか、シット・アップを連続500回もやるといった豪傑もいた。アニマル・浜口の根性と怪力はこのころから徐々に養われてきたとみてよい。

当時、アニマル・浜口といろいろな大会で顔を合わせた赤羽トレーニング・クラブの重村会長や、サン・プレイ・トレーニング・センターの宮畑会長によると、「そりゃ浜ちゃんがそのままビルダーだったらきっと日本タイトルはとっていたでしょうね。もともとバルクはあるほうだったし、腕囲なんか当時最高だったんじゃないですか。それに驚くほど力が強かったですよ。ベンチ・プレスだって180kgぐらいは挙げていたと思います」と語っている。

そしてこの言葉を実証したのが、昭和42年度ミスター兵庫コンテストである。この時は、ふだん肥満ぎみの体をトレーニングと口にするのは牛乳だけという食事法で、見違えるほどにしぼって出場し、みごと準ミスター兵庫に選ばれたのである。浜口平吾選手が22才のときのことである。

「身長175cm、体重75kgぐらいが当時の私の体でしたね。そりゃ腹筋だって、いまの体からは想像できんでしょうが、バリバリつけていたもんです。今の体重ですか? 108kgですから、あれから20kgちょっと増えたんでね」と語るアニマル・浜口の口もとが当時をなつかしんでいるのがわかる。
〔エアー・プレンスピン、これが怪力アニマル・浜口の得意ワザだ〕

〔エアー・プレンスピン、これが怪力アニマル・浜口の得意ワザだ〕

◇プロレス入門◇

「昭和42年のミスター兵庫2位になって、さてこれから全日本大会に出るぞと心に決めていたころ、荻原会長から『どないだ、プロレスラーにならへんか。うちからマイテイ井上やデビル・ムラサキもレスラーになっとるし、ちっとも心細いことあらへん。もし、やる気やったら、わしから国際プロの吉原会長に紹介してもよろしいでェ。その体格やったら充分レスラーでも通じるし、それに力も強いし、いい根性もしてるやないか』といわれたんです。

そりゃ私もそのころは体にも力にも自信もてたし、強いもんが生き残る世界に飛び込んで、思いきり若さと情熱を燃焼させてみたい、賭けてみたいと思っていたんです。荻原会長は、私のそんな心を見抜いてマッチで火をつけてくれたんですね。私がすぐボーッと燃えたというわけです。そして、その年の全日本大会には出場せず、すぐ吉原会長に会って国際プロレスに入門したんです」

こうして、命を張ったプロの世界へ飛び込み、「たとえリングで殺されても決して文句はいわんぞ」と心も新たに歩み出した怪力アニマル・浜口の誕生である。

プロレスの王者、力道山がヤクザの刃に倒れ、プロレス界は第二期黄金時代を作るべく暗中模策のうちに歩み出した。ジャイアント馬場、豊登、吉村道明、そしてブラジルから帰国したアントニオ猪木らが、次のスターダム目指してしのぎをけずっていた。

そして国際プロレスにはストロング小林、マイテイ井上、デビル・ムラサキなどのビルダー出身の若手レスラーがいて、温いながらもプロとしてのきびしさをもって浜口を迎えてくれたのである。

◇きびしいプロレス修業◇

もちろん、プロレスに入るについて浜口はずいぶん悩んだ。そりゃそうであろう。力道山にあこがれ、テレビを見ているファンのときとは訳が違う。「自分が果たしてあのリングの上で世界の強豪を相手に戦うことができるだろうか。中には原始人のようなグレート・アントニオのようなものもいる。殺されたってプロは文句を言えない。そんな世界になぜおれは飛び込むのか。少しぐらい体がよくて力が強いからといってうぬぼれてはいないだろうか」と浜口は自問自答した。

しかし、いったんやると決心をしたとき、心は日本晴れのようにさわやかだった。

「画家はキャンバスに絵を描く。俺はリングの上に人まねのできない、浜口平吾という絵を描こう。リングには技や性格やいろんなものが描かれる。人生の縮図だから・・・。ボディビルで鍛えた体力と根性でチャンピオン目指して人生を賭けてみよう」とプロとしての信念を心のキャンバスに描きたかったのである。

「なにしろ練習はきつかったですね。大相撲からの入門者のようにセンセーショナルに騒がれて入ったわけじゃなし、それに手とり足とり教えてくれる時代じゃなかったですからね。私はもともと技らしい技もなかったし、とくに寝技には泣かされました。ほんとに足・腰が立たなくなるまでしごかれました。血なんか汗と同じと思わなきゃやっていけません。でも、そんなに苦しんだことが好い結果を生んだと思いますよ」確かにこのころのトレーニングはすごかったらしい。

ジャイアント馬場が入門したてのころ、基礎体力づくりのために行うウェイト・トレーニングで、したたり落ちる汗で床が水びたしになったとか、汗が水蒸気になって天井からポタリポタリ落ちたなどというエピソードがあるくらいだ。とにかく5~6時間ぶっ通しの練習で、ヒンズー・スクワットを2000~3000回、腕立て伏せ500~1000回、というような気の遠くなるような練習をやったという。

 ”銭を欲しかったら、人より強くなれ!”チャンピオンと前座では手にする金にも雲泥の差がある。だからトレーニングの刻一刻が死にものぐるいだったのである。

 しかし浜口はもち前の根性でやり抜いた。”この世界より我を生かす道なし”と。
〔強烈なジャンピング・レッグ・ブリーカーで相手を痛めつける浜口〕

〔強烈なジャンピング・レッグ・ブリーカーで相手を痛めつける浜口〕

◇ひたいのキズはプロレスラーの紋章◇

 “海外遠征”一般の人が聞いたら、いかにもカッコいいが、プロレスラーの海外遠征はちょっとちがう。言葉も習慣も知らぬ若者が、外国の荒くれの中へ1人でほうり出されるのだ。だから本人にしたら不安とおののきが背広を着て歩いているようなものだ。

 浜口の最初の海外遠征は、昭和47年2月、行先はもちろん本場アメリカ。ネブラスカ、ミネアポリス、シカゴ、デトロイトをサーキットして試合をする。日本では考えられないような遠距離をサーキットする。何十時間も自動車にゆられ、到着してすぐ試合だ。

 キル・ザ・ジャップ! リメンバーパール・ハーバー! こんな試合場にまで第二次世界大戦の名ごりを残している。浜口はどこへいっても目のかたきだ。

 しかし、観客のヤジとは逆に、浜口は悪党殺法を駆使(実は当時まだ沢山の技をマスターしていなかった浜口が死にものぐるいで考え出した技だ)してWWA世界ランキングの上位に食い込んでしまった。

 「俺はどれだけ他人の技を盗んだだろう」練習熱心な浜口は、この世界でいう技泥棒だったのだ。「盗まなければ自分がやられる。だから盗むんだ。それに自分の特徴である怪力を生かすために、試合と移動のひまをみてはバーベル運動を欠かさなかった」と浜口はいう。

 こんな浜口の心意気が、このサーキット・シリーズのプロモーターであり現役レスラーでもあるデック・ザ・ブルザーやスナイダーらから、「あいつは体はそんなに大きくないが、将来、きっと強くなる奴だぜ」と認められた。

 そんなブルザーの言葉どおり、二度目の渡米では、ミスター・ヒトと組んでインター・タッグ選手権者となり、プエルトリコのトーナメントでは堂々3位に入賞している。

◇出たエヤー・プレンスピン◇

 プロレスラーはスポーツマンとはいえ、あくまでもお金をとってファイトを見せる以上、ファンに強くアピールするものがなくてはならない。浜口にとって欲しかったのは猪木の技と、草津の足、それにラッシャー木村の根性だった。

 だが、技は盗めても、人の個性までは盗めない。そこで浜口は考えた。技はこれからもどんどん盗んで自分のものにできるが、それ以外は自分にあるものを磨こうとしたのだ。自分の長所は力とスピードと根性である。これにさらに磨きをかけることだ。

 「浜ちゃんガンバレー!ウァーヤラレタ!なにしてるんや〇〇!早ようタッチせい!浜ちゃんばかりやられてかわいそうやで」と、アニマル浜口はもうメタメタにやられる。そして、四つんばいになりながら、コーナーに逃がれてパートナーにタッチする。変わったパートナーは猛然と反撃!だが2人がかりでつかまり、これまたメタメタにやられる。ふらふらの浜ちゃん、見るにみかねて相手に突進。またもや2人がかりでやられてグロッキー。しかし、そこは根性の鬼、浜ちゃん。一瞬のすきをねらい反撃にうつる。豪快怪力殺法エヤー・プレンスピン一発、あっという間の逆転勝ち・・・・・・」

 浜ちゃんの試合はこんなケースが多い。

 浜口は充分に自分の熱血漢的性格をリングの上に表現し、スクワットで鍛えた脚を使う怪力エヤー・プレンスピンやアトミック・ドロップ、ジャンピング・レッグ・ブリカーといった、怪力とスピードでファンの喝采をあびている。今や立派に頭書の念願どおり、浜口はリングの上に浜口平吾という絵を描いている。浜口にしか描けない絵を・・・・・・。

 こうして昭和52年、グレート・草津と組んで強敵ビッグ・ジョン・クインとフルト・フォン・へスのタッグを破って第17代IWA世界タッグ選手権者の座についた。
〔遠藤光男氏のジムでトレーニングに励むアニマル・浜口(昭和48年)〕

〔遠藤光男氏のジムでトレーニングに励むアニマル・浜口(昭和48年)〕

◇毎日励むトレーニング◇

 プロレスはショーだ、いやショーじゃない、とよく議論される。ヤクザのケンカじゃないから殺し合いをする訳にはいくまい。ルールのあるケンカであり、スポーツである。リングは決して墓場であってはならない。反則を決め、スポーツマンとしてのルールの範囲内でファイトをする。

 力、スピード、技、耐久力、闘志、このどれを欠いてもプロとして失格である。だから当然、選手は毎日毎日のトレーニングに汗を流し、明日のチャンピオンを目指し、また栄光の座を守るために血の出るようなトレーニングをする。そうしてはじめて、ファンにアピールし、スポーツとしての権威を保てるのだ。

 「最近のトレーニングはものすごく合理的というか、科学的になりましたよ。昔のように何時間もぶっとおしでシット・アップ何百回とかスクワット何百回というようなトレーニングはやりません。最近はプロレスラーとして必要な力、技、スタミナ、スピードを総合的に鍛えるために、器具を用いたウェイト・トレーニングはもちろん、ランニング、縄とび、ボクシング、空手、ブリッジ、腕立て伏せ、寝わざ、その他、手にさわるもの全部がトレーニング器具に変化するくらい多様化しています。

 たとえば、入門当時は腕立て伏せを一度に何百回もやっていたのが、いまは30回を1セットとして、それを15〜20セットするわけです。そして、その間に他の運動をはさんで、サーキット方式でやったりします。プロレス界に入って10年近くなりますが、いまも自分に合ったトレーニング法と食事法を毎日研究しています。

 それにもう1つ大切なことは、つねに体調を整えておくことです。だってそうでしょう川股さん。カゼを引きました、腰が痛くてだめですなんて、シリーズ中にいえますか。私は少なくとも受けて立つ側のチャンピオンだし、お客さんに満足していただくファイトをすることが私の義務であり、チャンピオンとしての責任ですからね」

 と語る浜ちゃん。少しのヒマを見つけては遠藤光男ジムや赤羽トレーニング・ルーム、サン・プレイ・ジムなどに顔を出しては汗を流している。

◇必ず取ってみせるぜ 世界シングル・タイトル◇

 「どんな世界にも云えることでしょうが、人間には個性がなくてはいけないと思います。ビルダーで云うなら、スティーブ・リーブスとシュワルツェネガーはタイプが違いますがそれぞれの個性、良さがあります。杉田さんには杉田さんの良さがあり、須藤君にはまた違った良さがあります。

 プロレス界を見ても、いま人気絶頂の人もいれば、そうでない落ち目の人もいます。しかし、自分にしかない何かをつかみ、それを伸ばすことによって、いつかは陽の目をみますよ。

 私の特徴は怪力ですが、この怪力の基礎はもちろんボディビルです。いまになって、あのころ夢中になってトレーニングしておいてよかったなあ、とつくづく思います。強い肉体と強い力がないことにはなんにもならん世界ですからね。私の夢は世界のシングル・タイトルをとることです。怪力をさらに鍛えて必ずとってみせます」

 確かに浜口の力は強い。やはり以前コンテスト・ビルダーで、いまをときめく世界の王者、ビリー・グラハムと力比べをやっても負けなかったアニマル・浜口の怪力は世界有数である。リングせましとあばれまくるその姿は、プロレスの王者、力道山をほうふつとさせる。子供のときから誰にも負けないガキ大将が、ボディビルで体を鍛え力をつけ、さらに技を磨いて、根性むきだしでファイトするアニマル・浜口の姿にファンはひきつけられる。

 ガンバレ浜口!その力と技と根性で大きく世界のスターダムへ登り、リングに大輪の花を咲かせてくれることを祈る。
月刊ボディビルディング1977年12月号

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