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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
鍛えあげた筋肉と体力こそバイタリティの源だ

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月刊ボディビルディング1978年1月号
掲載日:2018.07.21
1977IFBBオールジャパン・ミディアム・チャンピオン
高橋 威
~~川股 宏~~

◇新しい勇気◇

 ずっしりと重い、これが自分の足だとは思えないほどの鉛のような足で、高橋はやっとタラップを昇りつめ、パリから東京・羽田行きのジャンボ・ジェットのシートに深々と体を沈めた。
 じっと目を閉じると、一時は治まりかけていた心の葛藤が、うず巻くようないきおいで、また始まった。
 8月21日、IFBBオールジャパンチャンピオンシップスでミディアム・クラス優勝。しかも日本代表として、フランスのニースで行われるIFBBミスター・ユニバース・コンテストへのパスポートを手に入れた、あの下関の舞台が絶頂だとすれば、今の気持はどう表現したらよいのだろう。
 想えば、オールジャパン・コンテストの直後、長崎テレビの“お国自慢”という番組に出演、「高橋君、日本の名誉にかけて頑張ってください」と長崎県知事、県会議長、市議会議長等の励ましの言葉や餞別、IFBBジャパン代表の松山さんからの「私は行けませんけど頑張ってね。高橋さんならだいじょうぶよ」の激励、その他、先輩や友人たちからの温かい励ましに送られてのユニバース出場であった。
「入賞できませんでした・・・」こんな言葉が待っていようとは、あの8月の絶頂のときは予想すらしなかった。
 過去に、ショートマン・クラスで優勝した末光選手や、NABBAでの杉田選手のアマ総合優勝、須藤選手のミディアム・クラス2連勝など、日本人選手のあげた数々の輝やかしい前例があり、それに比べて、今大会における結果はあまりにもみじめであった。
「どうしよう。なんといいわけをしたらいいんだろう」と、ただおろおろと悩んだ。口に物を運んでも、砂をかむようでノドを通らない。いつもならうまいウイスキーも、まるで薬でも飲んでいるようだ。そして、朦朧とした頭の中にも敗北の悲しみと「日本にどの面さげて帰ったらいいんだ」と、長崎を発つとき、華々しく送ってくれ人々の顔が走馬灯のように次から次へと浮んでは消えていった。
 ニースでの敗北以来、悩みに悩んだあげく、ようやく自分自身と妥協することにした。「精いっばい頑張ったんだ。負けたのは相手が強すぎたのだ。いつまでもクヨクヨしていてもしかたない」と、自分の心にいいきかせた。
 こうして平静をとりもどしたかに見えた心が、しばらくすると、またうずき出してくる。「どうしてまた気持がうずくのだろう。自分自身でこの勝負の結果に納得し、また、それに見合うだけ自尊心も十分傷つけ、それで納ったのじゃあなかったのか。いや違う!今までの俺は悲しみや、グチ、そして自分のプライドのことばかり考えて悩んでいたんだ。そしてそんな陰うつな心の中で自分自身と妥協したんだ」
 妥協することによって、一時的には心の平衝が保たれても、それはほんとうの平衡ではなく、また、永つづきするものでもない。なぜなら、妥協には心の底からわき起こる共感がないからだ、と感じた。
「ほんとうは、自分で“外人選手に勝てるはずがない”と見限っていながら、自分のプライドをどう表現しようかと強がっていたんだ。ほんとうの俺は、自分を見限るほどケチな男ではなかったはずだ。そうだ!こんな時は裸で生まれた元のまんまを思い出すことだ。そして、二度とこの屈辱をくり返えさないように、一歩から出直しだ。IFBBの皆さん、長崎の皆さん、高橋威、今度こそ頑張ります。今回のふがいない敗北をゆるしてください」と思い直したとき、心の中に新しい勇気がわきあがってくるのがわかった。
[1977年度IFBBオールジャパン・ミディアム・クラス優勝]

[1977年度IFBBオールジャパン・ミディアム・クラス優勝]

◇長崎の活力◇

 グラバー邸から長崎市内を展望すると、ひしひしと歴史の重みが伝わってくる。1571年に港が開かれ、江戸幕府が領土としてからも、日本でただ1つの貿易港として栄え、西欧の文明は、いったん長崎に上陸し、それから全国にひろがっていった。造船王国日本の名をほしいままにしたのも三菱重工長崎造船所の前身がその元をなしているといってもいい。
 そして満州事変から第二次世界大戦にいたる永い苦しい戦争に終止符をうったのも長崎だった。昭和20年8月9日、あの悲しむべき原爆投下がそのきっかけとなった。
 この原爆投下から約半年後の昭和21年3月3日、高橋威は教育者を父とし6人兄弟の4番目として誕生した。もちろん高橋は、地底を揺がすすさまじい爆発音も、白熱の光も、うす気味悪いキノコ雲も知らない。が、生まれながらにして“被爆手帳”を持っての出生だった。
 敗戦にうちひしがれた当時の日本はみじめだった。とくに、この長崎や広島市民の負った悲惨さは想像を絶するものがあった。幼い子供を何人もかかえた高橋の両親の苦しみはさらにひどかった。しかし、生まれたばかりの高橋は何も知らないまま、両親の加護のもとにすくすくと育っていった。
 だから、高校生までは、ごく平凡な子供としての生活しか記憶にない。スポーツにしても体育の必須課目しかやっていない。高橋がスポーツ、とくにウェイト・トレーニングに関心をもったのは、彼が高校3年の時に開催された東京オリンピックからである。
「私は、とくに重量挙へビー級のウラゾフの力強さ、そして、あのスナッチのかっこうのよさにあこがれてしまったんですよ。ハイ」(このハイは彼の口グセ)
 そして偶然にも、その頃、日本で上演された映画に、あのスティーブ・リーブスの一連のへラクレス映画があった。リーブスの逞しく美しい彫刻のような肉体美が、高橋の悩裏に強く焼付いてしまった。
「実にすばらしい!人間の体が、あんな芸術品のようになれるのか。俺もなりたいなあ」
 だが、こんなあこがれも、まだ芽を出すような状態ではなかった。
「威坊、今はとにかく勉強せにゃいかんぞ。男は将来、社会に出て働き、自分の城を築いて立派な家庭をつくらにゃならん。今が一番大切な時だ。大学を目指して勉強しんしゃい」とよく父親からいわれた。
 今でも高橋は、人間的にも職業人としても父親を尊敬している。そして高橋は「父は少しの時間でもあると、よくいろいろの話をしてくれました。私たち子供が、父から一番影響を受けたのは、独立独歩の精神でした。目標を決めたら、それに向ってまっしぐらに突き進め。人に頼ったり、くじけたりしてはいけない。というようなことをいく度となく聞かされました」
 だから高橋は、尊敬する父の意見にしたがい、高校時代は運動よりも進学指向の生徒として地味な学生生活をすごした。
「このころ、父は期するところがあってか、教育者を辞し、高橋会計事務所を開設して、毎晩遅くまで仕事をしていました。こんな父の姿がダイレクトに私たち子供に伝わってきたんでしようね」
 父の意見にしたがって進学することにしてはいたが、高橋の心の片隅にはいつも、あのスティーブ・リーブスやウラゾフのスナッチが焼きついていてときどき頭をもたげてくるのだった。
 “よし、毎日、腕立て伏せでもやろう。これなら勉強にもプラスになるだろうし、少しは体もよくなるだろう"と、それからは雨の日も風の日も腕立て伏せを実行した。「私は一度やるときめたら必ずやり遂げる性格ですからね。ほんとうに毎日実行しました」と語る高橋の言葉のはしはしに、父親ゆずりの意志の強さがうかがえる。
 そのな折りも折、弟さんがどこからか手製のコンクリート・バーベルをもらってきた。もちろん黙って眺めているはずがない。腕立て伏せのあとで、見よう見なねでスナッチやプレスをやってみたのはいうまでもない。
[高校1年生のとき]

[高校1年生のとき]

[大学2年のときキャンプで]

[大学2年のときキャンプで]

[大学2年、学生重量挙選手権2位]

[大学2年、学生重量挙選手権2位]

◇意義ある学生時代◇

 高橋は高校時代から、尊敬する父親の経営する高橋会計事務所をつぐべく将来、会計士になろうと心に決めていた。そして目指していた北九州市立大学商学部に見事合格した。
 これまで“ボディビルがしたい”という欲望を、腕立て伏せだけで押さえつけてきたが、大学合格と同時に、この若い熱気は一挙に爆発した。
「私はクラブ活動として、文化部は会計学、運動部は重量挙げを、なんのためらいもなく選びました。ハイ。それに私は欲ばりで、当時、ビートルズの全盛時代で、私もエレキにこったもんです。私のリードギターはどうしてなかなかのものですよ。とくにポール・アンカのナンバーが得意でした。ハイ」
 こうして高橋にとっては、今まで埋蔵していたエネルギーが、大学入学とともに噴火したのである。
 重量挙クラブの入部は、それまでの腕立て伏せやコンクリート・バーベルでの練習が幸いして簡単だった。
「なに?君、重量挙をやりたいんだって?じゃあ部室へきたまえ」と、キャプテンに連れられて部室に行った。そして最初にやらされたのが50kgのプレスである。もちろん高橋にとってこれは簡単だった。
「おっ!なかなかやるじゃないか。じゃ次は70kgを挙げてごらん」これも挙がった。「次は80kgだ」しかしこれはダメだった。
「初心者で70kgは立派だ。お前、入部を許す!」というわけで、念願の入部がかなえられた。しかし、あとでわかったことであるが、同じ運動部でも野球やサッカーとちがって、重量挙にはあまり学生が集まらず、首を長くして待っていたところへ高橋がとび込んだというのが実情らしい。
 こうして入部した高橋の重量挙の記録は、プレス117.5kg、スナッチ107.5kg、ジャーク132kgまで伸びた。
 だが、好きな重量挙にあけくれる高橋の心の中に、どうしても満足できない何かがあった。なんだろうか。それは高校時代から高橋の頭の中にくすぶりつづけていた肉体美へのあこがれであった。だから、いくら力が強くなっても、それに見合う筋肉美が得られなければ高橋にとっては満足できない。
「部長、私に重量挙以外のトレーニングをやらせてください。たとえば、大胸筋のためのベンチ・プレスとか、三頭筋のためのフレンチ・プレスなどです。このトレーニングは、決して筋肉を大きくするだけでなく、力も強くなり、きっと重量挙にもプラスになると信じます」
「お前、何いっているんや。ボディビルなんて、あんなカッコだけ求めるものはいかん。やめとき」
「でも、どうしてもボディビルで鍛えあげた逞しい筋肉美を私は求めたいんです」
 当時、高橋は重量挙部のレギュラーばかりでなく、スターになりかけていたから、部長もウ〜ンと考えこんでしまった。
「よし、しょうがない。お前だけ特別、ボディビルのトレーニングをゆるす」と、部長も高橋の熱意を認めてくれたのである。
 それからというものは、高橋のトレーニングはさらに熱を帯びてきた。そして翌年夏、高橋は始めてコンテストに出場した。第一回ミスター北九州コンテストである。「母校のために頑張るぞ!!」と勇んで出場してみたものの、もちろん結果は、見事“番外地"に終ってしまった。
 高橋の人生の目的は公認会計士の資格をとって高橋会計事務所をつぐことである。だから好きなバーベル運動だけに明け暮れていたというわけではない。会計学の勉強も他の学生以上にやっていた。
「私にとってスポーツと勉強を両立させることが入学したときからの目標でした。でも、よく脱線もしました。スポーツもバーベル運動の他に、ボクシング、空手、ラクビー、なんでもやりました。ハイ」

◇バイタリティ◇

「その頃の北九州大学は増築の真最中で、そこかしこに工事に使われて破損したものや、不要になった金属類がちらばっていました。これを見て、私はとっさに“これはいけるぜ”と思いました。それから、この金属類をひろい集めて屑鉄屋に売って、生活費のたしにしました。
 当時、よく友だちから、税理士の息子が、それまでしなくても・・・、といわれましたが、私は大学に入るとき、一切親からの送金なしで、自分で働いて、立派に卒業してみせる、と心に誓ったんです。そしてその誓いはつらぬき通しましたよ。その他、私、いろんなエピソードがあります」
 こうして自分の力だけで大学を卒業した高橋に、その苦しさの代償として将来を通じてバイタリティあふれる生活力が一段とパワー・アップされたことは確かである。
 高橋のおもしろいエピソードに次のようなものもある。
 ある日、先輩の1人が高橋にこんなことをいった。
「おい、高橋よ!お俺はなあ、入学してから一度も髪を切らんかったとじゃ。そしたら、校長、卒業式のときわしの断髪式をしてくれたんじゃ。お前も卒業までそのままにしておいたらどうじゃ」
 いわれてみて、高橋も、入学以来、床屋へ行っていなかったことに気づいた。そして、卒業まで彼は一度も床屋のお世話にはなっていない。これは、当時、流行したビートルズのまねをしたのではなく、当時の高橋にとっては勉学、スポーツ、アルバイトと寝るのも惜しいほどの忙しさで、ゆっくり散髪などしている余裕はなかったのであろう。
 高橋の話によると、親からの送金はなくとも、当時の学生としてはブルジョアの部類だったらしい。
 屑鉄類のアルバイト、競輪場でのアルバイト、とくにこれは門司や小倉で競輪が開催されるたびにありつけるありがたいアルバイトだった。それも、職員待遇で月1万4千円というのだから、当時の学生としては、とびきり上等のアルバイトだった。
 その他、家庭教師、沖仲士、手当りしだいなんでもやった。その中で、高橋が「あの仕事だけはつらかった」とこぼすのが沖仲士である。
 とにかく当時の高橋は、よく学び、よく働き、よく遊び、1日24時間をフルに活用してバイタリティに富んだ、悔いのない充実した学生々活を満喫した。
 なりふりかまわず自分の思うままにふるまう高橋を見て「見てみや、ありゃ高橋いうてなあ、たいした男らしいぜ。北九州大の重量挙の選手だそうじゃが、それにしてもあの髪の毛はなんかいのォー」と、当時、肩までもある長髪で街を闊歩していた高橋は、いささか有名人(?)扱いを受けていたらしい。
 もちろん、この有名人扱いは、奇抜だけのためではない。将来の自分の一生の仕事、つまり公計士の資格をとるためにずいぶん勉強もした。授業はいつも必ず一番前の席で熱心にノートをとる学生であった。
 高橋にはもう1つどうしても欠かせないことがある。それは、すでに学生時代から、こよなく愛しつづける酒である。
「酒、これは私のエネルギーとエポックですね。私は酒で多くの友人も得ています。きっとこれからもずっと飲みつづけるでしよう。ハイ」

 青春を謳歌し、将来の確固たる目標に向ってまっしぐらに進む高橋の将来に、大きな影響を与えることになるすごい存在があった。この恐ろしい存在については次号に書く。
(つづく)
月刊ボディビルディング1978年1月号

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