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★第7回世界パワーリフティング選手権大会報告★
世界の怪力オーストラリアに結集

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月刊ボディビルディング1978年1月号
掲載日:2018.07.20
〈日本選手団長 山本政行〉
 この第7回1977年度世界パワーリフティング選手権大会に出場する日本代表選考会は、9月18日「アスレティック・せき」で行われ、次の7名の選手が決定していた。
 すでに過去3年連続世界チャンピオンの偉業をなし遂げたフライ級の因幡をはじめ、同じくフライ級・信野、バンタム級・鶴見、フェザー級・伊藤、ライト級・長野、武田、ミドル級・土屋の7選手である。
 中尾、前田の両選手が、体の故障や仕事の都合で参加できなくなり、団体戦10名のフルメンバーを組めなかったのが残念であった。毎年一歩ずつ上昇して昨年は4位、今年は3位を目標にしていたが、その夢もはかなく消えてしまった。そして役員も、毎年2名以上参加していたのが、今回は私1人で合計8名と、例年になく少人数でオーストラリアのパース市へ行くことになった。
 10月30日、羽田空港に集合、故障者もなくみんな元気そうだ。シンガポール・エアーラインでオーストラリアに向けて離陸。
 すでにいろいろな大会で顔を合わせているので、全員すぐうちとけて、大会の予想などの話に花が咲く。私も選手たちと同じくらいの年令なので、チーム・ワークの点ではうまくいきそうだ。しかし、私もはじめての団長という大任をおおせつかって、のんびりしてはいられない。なんといっても、はるばる外国まで来て、大事な選手権で失格者だけは出すまいと、空港や機内で再三「第一試技は絶対失敗しない重量でいこう」といい続けた。
 飛行機は4時間近く遅れてパース空港に着陸した。すでに真夜中の3時半である。迎えに来ているかどうか心配しながらロビーに出てみたが、案の定小さなガランとした空港にはそれらしい人はいなかった。その上、税関でカップラーメン、カップライス、インスタントみそ汁、肉、果物など、だいじに持ってきた食料品をほとんど取り上げられ、前途多難な旅になりそうな予感がした。
 しかし、そこは人なつこいオーストラリア人のこと、ポリスマンやタクシーの親切に助けられて、ようやくホテルにたどりついたときは、すでに東の空は明るくなっていた。
 これまでの世界選手権は2日間で10階級をこなすので、かなりきついスケジュールだったが、今回は3日間開催されるので、進行がのんびりしていてやりやすかった。
[羽田空港に勢揃いした日本選手団]

[羽田空港に勢揃いした日本選手団]

[大会の行われたオーストラリアのパース市]

[大会の行われたオーストラリアのパース市]

大会第1日目、因幡4連勝達成

 11月3日、いよいよ開幕である。大会々場はホテルからタクシーで5分くらいのところにあるサウス・パース・シビック・センターである。日本でいう市民会館といった感じだ。会場に着くと、テレビ局の係員が、カメラや照明を忙しそうにセットしていた。この大会の模様は3台のテレビカメラによってオーストラリア全土に放送されるという。こういった点から見てもパワーリフティング競技そのものが、オーストラリアの国民に深く理解され、普及しているからだと思う。
 第1日目はフライ級、バンタム級がまず7時から開始された。
 フライ級には日本の誇る小さな巨人因幡選手がいる。第一試技さえとれば優勝はまちがいないと思っていたので、安心していられた。
 最初の種目はスクワット、彼は200kgからスタートした。もちろん、この2クラスの最後の登場である。200kgはあまりにも軽々と成功したので、一気に212.5kgに挑戦することにした。これは、彼のもつ世界記録210kgを2.5kg上まわる重量である。
「これに成功しますと、世界新になります!」とアナウンスが流れた。期せずして「カモン!イナバ!」激しい声援がこだまする。
 因幡選手は212.5kgのバーベルをがっちり肩にくいこませ、しゃがんだ。声援はさらに一段と大きくなる。歯をくいしばって立ち上がった。20cmくらい上がったところで止まってしまった。惜しくも失敗である。3回目も同じく212.5kgに挑んだ。しかし、2回目の疲れが残っていたのか、かなり重そうで浮かなかった。しかし、200kgはフライ級では文句なく1位である。また、このクラスに出場した佐野選手は140kgで6位につけている。
 スクワットの競技中に、バース市に在住している日本人会のメンバーが応援にかけつけてくれ、おにぎりやすしなどをさし入れてくれた。こちらに来てから、連日、強いにおいのするヒツジの肉ばかり食べていた日本選手団にとって、この上ないプレゼントであった。
 その結果かどうか、次のベンチ・プレスでは因幡選手は3回とも成功し、世界大会自己最高の110kgをマークした。最後のデッド・リフトで220kg以上を挙げれば、彼のもつ世界記録530kgを破れる。
 世界記録更新を目指す因幡選手はデッド・リフトの第1試技で、215kgを挙げて、まず優勝を決めたあと、7.5kg増量して世界新へ挑んだ。場内は再び大きな声援につつまれた。しかし、スクワットの疲れが残っていたのか、222.5kgのバーベルは床にすいついたように浮こうとしなかった。
 結局、トータル525kgで、前大会より5kg下まわったとはいえ、2位に40kgの差をつけての優勝である。過去3年連続、世界新で優勝している因幡選手にとって、優勝してあたりまえ、みんなの期待も、世界記録更新にあるだけに、彼にとっては重荷であろう。そのハンデを克服し、世界選手権に初出場以来、4年連続優勝、さらにこれからも勝ちつづけるであろう因幡選手は、まさに立派という以外にない。日本人会の人々の見守る中での表彰式はジーンと心にしみた。
 一方、信野選手はベンチ・プレスで97.5kgを挙げ6位につけていたが、最後のデッド・リフトで健闘。170kgを成功させて4位にくい込んだ。彼は元重量挙の選手で、いろいろな大会に出場しているが、世界選手権には出たことがなかっただけに、パワーリフティング世界選手権に初出場で、しかも4位に入ったのがよほどうれしかったとみえ「パワーリフティングに転向してよかったですわ。重量挙では味わえなかった世界選手権に出場できただけでもうれしいのに、4位になれて、一生の思い出になりますわ」と大阪弁でしきりに話していた。そして「大阪から世界選手権に出場したのは私がはじめてですが、これを機会に、重量挙よりもテクニックが少なく、誰にでも比較的簡単になじめるパワーリフティングを大阪にも普及させませわ」と語っていた。
 フライ級2位には、前大回4位のバイロー(イギリス)が485kgで入り、3位は455kgをマークしたフィンランドの小人リフター、トニソー選手。そして4位が407.5kgの信野選手という結果となった。
 バンタム級は世界選手権二連勝を狙うアメリカのガントと、ニュージランドのマッケンジーの対決となった。この黒人同士の一騎打ちに、会場は沸きに沸いた。
 2年前、イギリスのバーミンガム市で開催されたときの世界選手権で、マッケンジーは地元イギリス選手団の一員として出場していて、バンタム級の優勝候補のNo.1に推されていた。そして最初のスクワットで2位以下を大きく引き離して断然トップ、優勝まちがいないと思われたが、ベンチ・プレスで失格、ガントに優勝をさらわれてしまった劇的な場面を思い出す。
 試合の前日、ホテルのロビーで、2年ぶりにマッケンジーに会った私は「ミスター・イナバも来ている」と言うと、彼は「ぜひ会いたい、そしてミスター・イナバにお礼が言いたい」というので、6階に案内して日本選手団に紹介した。
 2年ぶりに再会した因幡選手に、マッケンジーがお礼を言いたいといったのにはこんないきさつがあった。
 マッケンジーはイギリスを代表する重量挙の選手で、東京、メキシコ、ミュンへン、モントリオールのオリンピックに連続して出場、いわばイギリスの英雄的存在であった。その彼が、2年前のイギリスで行われたパワーリフティング選手権に出場してきた。大会のポスターには彼の写真が使われ、街のあちこちに張り出されていた。それほど期待されていながら失格してしまった彼は、控室にすわり込んで、気の毒なくらい打ちひしがれていた。その時、因幡選手が彼に慰めの言葉とプレゼントを差し出した。彼は涙ながらに喜んで「ありがとう、来年は必ず優勝してみせる」と再会を約束した。
 しかし、昨年の大会には、どうしてか彼は出場していなかった。そして2年ぶりに再会した彼は、イギリスではなくニュージランドの一員として出場しているのだ。
 その理由を聞いてみると、彼は元々アフリカで生まれ育ったそうだ。当時から重量挙をやっており、19才のとき世界選手権かオリンピックか忘れたがそれに出場しようとしたが、黒人だということで出場できなかったらしい。そこでイギリスに渡り、イギリス国民として暮してきたという。そして、今はどういうわけかニュージランドに住んでおり、この大会にもニュージランドとして出場している。どうも、日本国民には理解しがたい複雑な面があるようだ。彼のゼスチュア入りの滑稽な話しぶりは、日本選手国を大いに笑わせてくれた。
[パース市の在留邦人の家庭に招かれて日本食に舌つづみを打つ日本チーム]

[パース市の在留邦人の家庭に招かれて日本食に舌つづみを打つ日本チーム]

 話がすこし横道にそれたので、元に戻そう。
 そんな訳で、この41才のマッケンジーと、24才のガントの優勝争い、それに日本の鶴見選手がどこまで健闘するか興味深かった。
 スクワットとベンチ・プレスが終った時点でガント325kg、マッケンジー322.5kgと少差で、最後のデッド・リフトで結果でどうなるかわからない。鶴見選手は300kgで5位につけている。
 しかし、デッド・リフトはなんといってもガントの得意とする種目で、まずこのままガントの逃げきりだろうという私たちの予想どおり、マッケンジーが230kgで終ったところ、ガントは2回目に242.5kgを引いて優勝を決めたあと、265kgの世界新を狙ったが、これは失敗、しかし、トータル567.5kgの世界新でカント優勝。2位・マッケンジー552.5kg、3位・ハッタネル(フィンランド)527.5kg。鶴見選手はそのまま5位に入ったが、デッド・リフトで4位との差はますます大きくなった。彼は「デッド・リフトを本格的にやり始めてから数カ月なので、私の記録もまだまだ伸びると思うが、世界のレベルは高すぎて試合にならんな」と控室で一言ポッリ。
 こうして、第1日目のフライ、バンタムの2階級が終ったところで、団体戦では日本がなんと1位である。1日だけでもトップにいるのは気持がいいものだが、2日目が終った時点では何位に下るだろうか、などと話しながらホテルに帰ってきた。
 第2日目は、フェザー級とミドル級である。
 先ずフェザー級には期待の伊藤選手が出る。日本チームは役員が私1人なので、前日終った選手は皆セコンド役につき、世界選手権初出場の伊藤選手になにかと注意したり励ましたりしている。
 このクラスでは、前大会でも優勝したペングリー(イギリス)が断然強く、文句なしの圧勝だった。アメリカのツジリオも頑張ったが、ペングリーをおびやかすまでにはいたらなかった。ツジリオはとくにベンチ・プレスが得意で、前大会で日本の富永選手が出した155kgの世界記録を2.5kg上まわる157.5kgをあっさり挙げてしまった。まだまだ余裕がありそうで、160kgに挑んでも、おそらく成功したにちがいない。世界選手権ともなると、上には上があるものだと痛感した。
 最後のデッド・リフトでまず、ペングリーが220kgに成功して優勝を決めたあと、一気に45kgアップして267.5kgの世界新を狙ったが、これは失敗。結局、580kgで優勝はしたものの彼としてはごく平凡な記録に終った。
 伊藤選手は、スクワットが195kg、ベンチ・プレスが130kgで、2種目終った時点では3位である。しかし、最後のデッド・リフトでどう逆転するかわからない。何しろ、4位以下にこの種目を得意とする外国選手がひしめいているからだ。とくに、4位につけているスウェーデンのジョハソンが虎視たんたんと3位を狙っている。
 伊藤選手は1回目210kgに成功し、つづいて2回目215kg、3回目220kgとパーフェクトで終った。作戦的にも3回目の220kgがやっとだったので、これでジョハンソンに逆転されたとしても、それはそれであきらめるより仕方がない。
 問題のジャハソンは1回目、2回目とも伊藤選手と同じような記録で進んでいったが、案の定、3回目に232.5kgは挑んだ。これに成功すれば伊藤選手のトータル545kgを2.5kg上まわり、3位にくい込むのだ。彼は顔をまっ赤にして必死に引き上げ、ついに成功して3位を確保した。
 逆転されて4位になったとはいえ、伊藤選手は全種目全試技ともパーフェクトで、スクワットの195kgは日本新記録、トータル545kgは日本タイ記録という堂々たるものである。この454kgは、前回の世界選手権で優勝したときのペングリーの記録と同記録でありそれだけ世界のレベルが向上していることを物語っている。
 伊藤選手の人気がまた大変なものだった。前日の因幡選手も大いに観客を沸かせたが、さらにそれを上まっていた。彼は頭をきれいに剃って、ユル・ブリンナーばりのマスクで、オーストラリアの子供たちにも気軽にサインしてやっていたので、とくに黄色い声援で会場を沸かせた。まだ若い伊落選手なので、これからどこまで記録が伸びるか楽しみである。(つづく)
[世界選手権大会で四連勝をなし遂げ表彰を受けるフライ級・因幡選手]

[世界選手権大会で四連勝をなし遂げ表彰を受けるフライ級・因幡選手]

月刊ボディビルディング1978年1月号

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