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★ミスター・ボディビルディング★
アーノルド・シュワルツェネガー栄光の記録<その2>

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月刊ボディビルディング1978年8月号
掲載日:2018.06.04
国立競技場指導係主任 矢野雅知

世界制覇の第一歩、アマ・ミスター・ユニバースに

 1966年度NABBAミスター・ユニバース・コンテストでチェスター・ヨートンに破れたシュワルツェネガーは帰国したその日から、早くも翌年の大会を目指してトレーニングに入った。崇拝しているレジ・パークと一緒にトレーニングする機会にも恵まれ、多くの有益なアドバイスを受けてさらに逞しさを増していった。

 再びミスター・ユニバースが近づいてくる頃、すでに彼の腕は19インチもあり、曲げると22インチ(約55.6cm)までふくれあがる。この腕の前には誰1人として敵はないように思えた。

 ところが、今度のユニバースには、エド・ヤリックをマネージャーとしてアメリカからデニス・ティネリーノが乗り込んでくるというニュースが入ってきた。

 写真で見ると「たしかにティネリーノは自分よりも脚のカットがよく、とくにカーフがすばらしい。前回、敗北を喫したチェスター・ヨートンは、今や自分の敵ではない。恐らく、今の自分ならヨートンを簡単に破るだろう」と思える。プレイボーイとして名高くつねに女の子が群がっているというティネリーノとの接戦になるだろうというのが大方の予想であった。こうしてヨートンに変わって、今度はティネリーノがシュワルツェネガーの前に大きく立ちはだかったのである。

 コンテストの前に、シュワルツェネガーはロンドンに行ってリッキー・ウェインと一緒にトレーニングした。

 「ティネリーノはどう?」と彼に尋ねると、「すばらしいの一語につきる」とウェインは答える。しかも「今のままなら君は負けるかも知れない」とさえ言ったのである。

 「わかった。たしかに奴は今度のミスター・ユニバースの最有力候補だが、オレは必ず奴をたたきつぶす!」

 ミュンヘンに戻ったシュワルツェネガーは、コンテストまでのわずか2週間を、全力を傾けて全身のキレを出すことに費やした。

 捲土重来、1967NABBAミスター・ユニバースに臨んだシュワルツェネガーは、プレジャッジのとき「アーノルド! アーノルド!」という誰よりも多い観衆の熱狂ぶりから、勝利を実感する。

 一緒に参加したビルダーたちも「アーノルド、君の優勝さ」と口をそろえて断言するし、その夜、ホテルのロビーで会った人たちも、みんな間違いないと太鼓判を押してくれたが、さすがにその夜の寝つきは悪かった。

 さて、翌日の本番では、シュワルツェネガーはまずティネリーノを破ってトールマン・クラス優勝。この時点で彼のミスター・ユニバースは決定的となった。というのは、ミディアム、ショートマン・クラスには彼の敵はいない。彼の敵はデニス・ティネリーノただ1人であったからである。

 やがて司会者はマイクに向って叫んだ―拍手の嵐の中で、シュワルツェネガーは生涯で最も心に残る「1967年アマチュア・ミスター・ユニバース………アーノルド・シュワルツェネガー!!」という声を耳にした。

 ここに、彼は始めてバーベルを握ったときに誓った「世界一の男になる」という夢の第一関門を突破した。だが世界は広い。

 その夜の晩餐会で、シュワルツェネガーを取り囲んだビルダーたちは、口々に言う。「次はオリバだな」「いや、次はビル・パールさ」

 この年、IFBBのミスター・ユニバースはセルジオ・オリバであり、彼はまた、ミスター・オリンピアにも選ばれている。そして、NABBAユニバースのプロの部ではビル・パールが勝利を握っていた。また、ミスター・ワールドではリッキー・ウェインが優勝している。

 シュワルツェネガーは思う。これらのすべてに勝ち、しかもそれに勝ちつづけて、はじめてグランド・チャンピオン“ミスター・世界”になるのだ、と。そして、ミュンヘンに帰るや、真のワールド・チャンピオンを目指して再び猛烈なトレーニングを開始する。

 過去に多くのチャンピオンが輩出したが、ひとつの目標を達成してしまうと、「敗北」を嫌ってコンテストから引退してしまうケースが多い。

 だが、シュワルツェネガーは違う。「世界一の男になる」と誓ってトレーニングを開始した当初の目標は達成したが、まだまだ打ち破らねばならない男がおり、勝たねばならないコンテストがある。さらに一段と高いゴールを設定し、それに向って、今まで以上にハードなトレーニングを自らに課していく。これは並たいていの意志力でできるものではない。そういった点からシュワルツェネガーの「世界一の男になる」という彼の強烈な意志力と実行力はズバ抜けている、といってよいだろう。
[シュワルツェネガーが二度目の敗北を喫したフランク・ゼーン(左)]

[シュワルツェネガーが二度目の敗北を喫したフランク・ゼーン(左)]

最高のトレーニングパートナー フランコ・コロンブ

 ドイツには古くから石を持ち上げるストーン・リフティングという競技があるが、ユニバースに優勝して間もなくの頃、シュワルツェネガーはこの力技コンテストに参加して、従来の記録を破って優勝、ドイツーの力持ちとなった。この快挙によって、ボディビルは筋肉はあっても、実際にはそんなに力はない、というそれまでの迷信を消しとばして、ボディビルダーは「力」もあることを証明した。

 力の話になったので、フランコ・コロンブについて話そう。

 シュワルツェネガーは、トレーニングを開始してしばらくの間、ウェイトリフティングの選手として活躍していたこともある。リフティングの会場でたまたまコロンブと会い、以来、意気投合して一緒にトレーニングをすることになった。
記事画像2
 シュワルツェネガーはコロンブについて、「体重と筋力という関係からいうと、私が今までに会った中で最も強い男が彼だった。パワフルなので、一緒にトレーニングするのが好きだ」と述べている。

 コロンブのパワーについては、今さら説明することもないほど有名であるが、ボディビルダーとしてみた場合、「始めてコロンブに会った頃、奴の胸は2つに分かれていて面白いもんだと思ったものである。それにガニ股で、とてもボディビルダーとして、フィジーク・コンテストのチャンピオンになれる玉じゃないと思った。ところが、奴はパワーリフティングのチャンピオンだけでなく、フィジーク・コンテストのチャンピオンにもなろうとした」とシュワルツェネガーも言っているように、決して先天的に恵まれていたわけではない。いや、プロポーションといった面では、きわめて条件は悪かった、といった方が適切だろう。

 ほとんどの人が、コンテスト・ビルダーに大切なものは、なんといってもまずバルクである、と考えているようだが、それは違う。

 「バルクは確かに重要だが、もっと重要なのは、シンメトリー・プロポーション、そしてマスキュラリティである。これらがうまく調和していなくてはならない。例えば、脚がよく発達していて、しかも胸、腕、背も素晴らしいものであっても、これらがうまく調和していなくては、決してコンテストには勝てない。ジャッジは、まず第一にシンメトリー・プロポーションをみる。それから、他のいろいろの要素を基礎にして採点するのである」

 と、このように語るシュワルツェネガーは、「私は生まれつき骨格は申し分なく、プロモーションもパーフェクトだ」と自分を評しているが、この先天的に恵まれたプロポーションに加えて、シンメトリー、マスキュラリティ、それにバルクといったすべての要素が調和していたからこそ、彼は“ミスター・ボディビルディング”になれたのである。
[トレーニング・パートナーであり、無二の親友のフランコ・コロンブ(右)と]

[トレーニング・パートナーであり、無二の親友のフランコ・コロンブ(右)と]

 コロンブ自身も「コンテストで最も大切な要素……それはプロポーションだ」と語っているが、ガニ股でプロポーションのよくないコロンブが、ミスター・オリンピアにまでなれたのは、人並みはずれた精神力―ガッツ以外の何ものでもない。とにかく彼の意志とパワーはズバ抜けたものである。

 コロンブが、300か400ポンドでスクワットを8回ほどやっていた頃である。ある時、シュワルツェネガーにできた重量がどうしたわけか、1回もできずに、コロンボは、シュワルツェネガーに助けられてやっと立ち上がった。信じられない事である。コロンブは常にシュワルツェネガーよりもパワーがあった。

 チャンス到来とばかりに、「よし、今日はオレの方が強そうだナ」とシュワルツェネガーがニヤニヤして言うと「オーライ、アーノルド」コロンブは再びスクワット・ラックからバーベルをはずすと、10回をスムースに、しかも正確に行なったのである。

 なぜ、1回もできなかったコロンブが、シュワルツェネガーの挑発に乗って10回もできたのであろうか。むろんわずか数分のうちにコロンブのからだが変身するわけがない。変身ではなく変心なのである。すなわち、「オレはアーノルドを打ち負かしてやる」という、精神の強大なパワーがムクムクとからだ中にわきあがったからに他ならない。

 こんなコロンブだから、シュワルツェネガーは、「彼こそ最高のトレーニング・パートナーである」と思っていた。このお互いに最高のパートナーを得て、2人はますます発達していく。シュワルツェネガーのデビューに少し遅れて、コロンブもフィジーク・コンテストに出場するようになり、初出場のミスター・ヨーロッパで4位となりそして第3位、第2位と確実に上昇していき、ついに1968年にクラス優勝、同年NABBAミスター・ユニバースではクラス2位となった。

 コロンブもシュワルツェネガーと同様に、コンテスト・ビルダーとして最も大切な要素―勝利への強い意志を持っている。シュワルツェネガー自身も、「私たちと他のビルダーの最大の相違点は、“オレはチャンピオンになる”という精神の持ち方だ。私たちは常にそれに向って闘い続けるが、ほとんどのビルダーは、それを強く精神に現わしていない」と言っている。

 これは他の競技にもあてはまる。たとえばウェイトリフティングで、かっては500ポンドは人間には持ち上げることは不可能だとい言われており、ほとんどのものがそう信じていた。だから実際に持ち上げることができなかった。しかし、ソ連のアレキセーエフが501ポンドを差し上げると、たちまちそのバリヤーはくずれて、4人の男たちが次々と500ポンドの壁を破った。彼らは500ポンドを破れることがわかったからだ。そして、今では550ポンド以上が記録されている。

 同じ構造、同じ組織の肉体だったのに、どうしてこんなに簡単に変わるものだろうか。これすべて、精神の持ち方なのだ。

 ガニ股で、ずんぐりむっくりのコロンブが、ミスター・オリンピアとなりボディビルダーの頂点を極めることが出来たのも、この勝利への強い意志を持ち続けていたからである。

アメリカに渡りジョー・ワイダーのもとでトレーニング

 1968年に入って、シュワルツェネガーはダブル・スプリット・ルーティンで1日2~3時間の猛烈なトレーニングを続けた。NABBAユニバースのプロの部の優勝を目指してのものである。仲間はみんな「やり過ぎだ!」と言ったが、彼は笑ってさらにハードにトレーニングを続けた。

 その結果、前年のアマの部に続いてNABBAユニバースのプロの部でも優勝。史上最大の腕には、もはや敵はないとさえ思われた。

 すぐそのあと、ジョー・ワイダーから誘いを受けて、IFBBのミスター・ユニバースに参加することになり、待望のアメリカに渡った。カリフォルニアのゴールド・ジム(現在のワールド・ジム)でトレーニングするが、すべて驚くことばかり。さすが本場アメリカ、あらゆる面にわたって学ぶことが多かったという。

 さて、IFBBミスター・ユニバースの会場に行くと、たちまちNABBAミスター・ユニバースをひと目みようと黒山の人だかりができるし、史上最大の腕を見たさに、会場はファンでうめつくされていた。シュワルツェネガーがポージングをするや「アーノルド! アーノルド!」と人々は熱狂するので、彼は得意満面であった。

 しかし、ここに、シュワルツェネガーがそれまでに見たこともないタイプのビルダーがいた。彼は信じられないほど鮮明なカットをもち、エレガントで、まるでバレリーナのようなポージングをする。

 その優美なビルダーこそ、シュワルツェネガーが生涯において二度目の敗北を喫することになったフランク・ゼーンであった。
 このコンテストで涙をのんだシュワルツェネガーは、ジョー・ワイダーのもとで一段と激しいトレーニングに打込んだ。逞しさがさらに増し、シャープさでも、もはやフランク・ゼーンは敵ではなかった。

 翌年、再度ニューヨークでのIFBBミスター・ユニバースに挑戦する。「我ながら、よくここまで発達したものである」とシュワルツェネガー自身がいうほど、アメリカに渡ってからの進歩は目を見はるものがあった。コンディションは最高である。出場者の顔ぶれを見ても、すでに彼の勝利は決定的であった。

 こうして、IFBBのミスター・ユニバースは簡単に勝った。7人のジャッジすべてがシュワルツェネガーを第1位としたのである。

 これで、世界の名だたるビルダーをほとんど打ち破ったシュワルツェネガーが、あと1人、どうしても破らねばならない男がいる。その男を破らない限り、リアル・ワールド・チャンピオンとは言えないのだ。その男とは、すなわちセルジオ・オリバである。

 “黒い魔神”セルジオ・オリバは、すでにミスター・オリンピアに2連勝しており、もちろん、今年も優勝を狙っており、ラリー・スコットなきあとチャンピオン中のチャンピオンとしてオリバは君臨していた。

 あわよくば、このチャンピオン中のチャンピオンを破らんものと、ミスター・オリンピアにチャレンジしたシュワルツェネガーが、コンテストの控室に入ったとき、はじめて“黒い魔神、黒の恐怖”セルジオ・オリバを見た。なぜ彼がそう呼ばれているのか、このときはじめて理解できたという。

 シュワルツェネガーがオリバをはじめて見たときの衝撃は、「壁の中へでも消えて、そのまま逃げ出してしまいたいほどだった」と言わせるほど強烈だった。つづけて彼は、 「彼は私を木端微塵に粉砕した。彼を破ろうなんて気は、どこかへ消し飛んでしまったほどだ。ステージに出る前、すでに控室において、私は彼に破れ去っていた」と述懐している。

 しかし、シュワルツェネガーは破れはしたものの、結果は4対3というきわめて僅少な差だった。

 コンテストのあとでシュワルツェネガーは次のように言っている。

 「7対0で、すべてのジャッジがオリバの勝ちとするだろうと私は思っていた。私は負けたくない。たとえ誰であろうと絶対に打ち破る自信がある。だが、オリバは別である。彼は私よりすごい。私にないものを持っている。それが、私にとって、さらに次の年への強烈なエネルギーを持続させるもとになった」

偶像レジ・パークと黒い魔神セルジオ・オリバを破る

 それから1年、シュワルツェネガーは、いつもオリバのイメージを思い浮かべながらトレーニングに励んだ。ジョー・ワイダーにも「もっとアメリカにいたい。ここでトレーニングして、オリバをたたかなくてはならない」と決意のほどを示している。

 こうして、無二の親友となっていたコロンブと共に、ワイダーのアドバイスを受けながら、一段とからだは発達していったのである。

 明けて1970年。まずはNABBAミスター・ユニバースに参加することにする。

 ところが、驚くべきことがもち上がった。あの偶像レジ・パークも出場するというのである。シュワルツェネガーが出場すれば、恐らく、すでに7年おきに3回も優勝している栄光のレジ・パークの大記録にストップをかけてしまうだろう。

 レジ・パークは、シュワルツェネガーが心服していた唯一のビルダーといってよい。南アに移住していたパークに招待されて、一緒にトレーニングしたり、彼の庭のプールで泳いだりしておよそ半年ほど数々のアドバイスを受けながら生活したこともある。

 「出場すべきか否か」彼は悩んだ。だが……ステージの上ではすべて敵。ビルダーである以上、いかなる師弟関係であっても、闘わねばならない宿命におかれている。シュワルツェネガーは出場を決意した。

 この年のNABBAプロ・ミスター・ユニバースは、かつてないほどの激戦だった。結果は、第1位・シュワルツェネガー、2位・レジ・パーク、3位・デーブ・ドレイパー、そしてボイヤー・コー、デニス・ティネリーノと続いた。

 1週間後、コロンバスでミスター・ワールドが開催される。これにオリバが出場するという。シュワルツェネガーは燃えた。「私はレジ・パークも破ったのだし、自分自身、誰にも負けないと感じていた」と語っているように熱いに乗ったままミスター・ワールドに臨んだ。

 シュワルツェネガーの敵は、ただ1人、オリバだけ。控室で、オリバとすでに火花が散っていた。パンプ・アップしながら、お互いに強烈に意識して他のビルダーなどまったく眼中になかった。

 そして本番………

 アナウンサーは、「第3位・デーブ・ドレイパー!」と発表する。つづいて「第2位……セルジオ・オリバ!!」ついにやった! オリバが「そんなバカな!」と思わず叫んだのが聞えた。「ついに勝った!オレが勝った!最後の1人、オリバに勝った!」

 こうして、1970年度ミスター・ワールドでシュワルツェネガーは“黒の魔神”セルジオ・オリバを破って、文字どおり「世界一の男になる」という夢は達成されたのである。

 さらに2週間後のミスター・オリンピア・コンテストでも、グランド・チャンピンをかけた「世紀の闘い」と呼ぶにふさわしい激戦の末、再びオリバを破ってミスター・オリンピアとなった。

 それ以後、引退するまで、シュワルツェネガーは再度オリバを破り、ルイス・フェリーノを打ち砕き、サージ・ヌブレを蹴散らして、実に6年間にわたってミスター・オリンピアとして世界に君臨したのである。

 双葉山の69連勝、ジャック・デリンジャーの102回KO勝ち、タイ・カップの生涯通算打率3割8分のように、各分野にとび抜けたスーパー・スターがいる。シュワルツェネガーの残した足跡は、あまりにも大きい。アーノルド・シュワルツェネガーこそ、ボディビル界のスーパー・スターと呼ぶにふさわしいただ1人の男であろう。そしてボディビルダーの偶像として永遠に生きつづけるにちがいない。
月刊ボディビルディング1978年8月号

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