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右足不自由のハンデを克服
JPA全日本パワー・ミドル級5位に入賞した植田英司選手の恐るべき執念

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月刊ボディビルディング1978年9月号
掲載日:2018.06.24
<川股 宏>
 “人の世は、重荷を負って坂道を登るが如し”とは、徳川家康の教える人生訓話である。家康に限らず、いわゆる成功した人をはたから見ると「あの人がそんな苦労をしたのかなあ」と思う。たしかに、人の成功の結果だけをみると、やることなすこと、すべてトントン拍子に順調にことが運んで、いとも簡単に成功に結びついたように思える。逆に、自分はどうしてこうも運が悪いのかなあ、と考えたりする。

 が、誰がみても「そりゃ苦しいだろうなあ。いろいろ大変だろうなあ」と感じることがある。それは生まれながらにして身体的なハンデを背負って生きている人たちだ。そのほとんどは、たまたま病気や事故でそういう運命になってしまったのである。

 だから、本人にはまったく責任や落度はない。そうかといって、自分の背負った人生をうらんでみても何の解決にもならない。また、それにくじけたり、甘えてはならない。自分自身でハンデを克服していくのが生きがいというものだ。

 ここに、幼いとき、骨髄炎のため右足不自由というハンデを背負いながら、見事それを克服した青年がいる。去る、5月28日、JPA全日本パワーリフティング選手権大会で、スクワット195kg、ベンチ・プレス122.5kg、デッド・リフト215kg、トータル532.5kgを挙げてミドル級5位に入賞した植田英司選手がその人である。
[デッド・リフト215kgに成功。JPA全日本パワー選手権にて]

[デッド・リフト215kgに成功。JPA全日本パワー選手権にて]

突然おそった原因不明の高熱

 「英司、どうしたんだ、元気ないねえ」と、何気なく子供の頭に手をやった母親は、あまりの高熱におどろき、村の診療所にかけ込んだ。

 「風邪をこじらせて、このままでは肺炎にもなりかねんのォ」と医者は言う。だが風邪の手当をしても全然熱が下がらない。

 それもそのはず、熱はあるが、風邪とは全く関係のない難病だったのである。泣きさけぶだけの物も云えない幼な児だったことも発見を遅れさせた。熱が下がらないばかりか、そのうちに右足がはれあがってきた。総合病院に、移して診察した結果、急性腫骨骨髄炎と判明したときは手遅れ寸前だった。彼が2才のときのことである。

 もともと、この耳なれない骨髄炎という病気は発育期の幼児や少年期に、足や腕の長骨に菌が入り込んで骨の髄をむしばむ病気で、おもにブドー状球菌や、時には結核菌が入ることもあるという、骨の難病である。

 植田の場合も、あと少しでヒザ下から切断しなければ治らないとまで医者はいったが、なんとか切断だけはしないでくれという家族の申し出でで、とり合えず手術をすることになった。4回におよぶ手術が行われ、幼な児の足の骨髄はいたましくも手術用のノミで削り落とされた。

 こうして、足の切断という最悪の事態だけは免れたものの、足首は動かなくなり、膝から下の発達が遅れ、左足に比べて右足は3cmくらい短くなってしまった。だから、歩く時、多少ビッコを引くし、レントゲンでみると、松くい虫にやられた松の木のように、骨にすが空いてうつっている。

 その後、中学2年のとき大腿のスジを足首に移植して、少し足首が動くようになった。そのときのうれしさは、十数年たったいまも脳裡に焼き付いて離れない。

体力に対する劣等感と憧れ

 植田は小さい頃、よく「英司のビッコ」とからかわれた。子供心にもくやしかったが、ただじっと我慢しているだけで、決してケンカをしかけるようなことはなかった。というのは、足が悪いだけでなく、背もクラスで一番低く、ケンカをしても勝てる見込みはまったくなかったからだ。だから、強さへの憧れは人一倍あった。強くなることは、彼にとってすべてに優先する願望であった。

 「確か、あれは私が小学校の2年生のときでした。東京オリンピックの重量挙げをテレビで見て、自分の体重の2倍、3倍のバーベルを持ち上げる人間がいるなんて不思議でなりませんでした。それから一段と力の強い人への憧れが増してきたんです」と植田はいう。

 そんな彼が、はじめてバーベルを手にしたのは、中学一年生のときの体育の時間のときだった。器具置き場のすみに、あのオリンピック選手が使っていたのと同じようなバーベルがあるではないか。植田はそっと手をふれてみた。ふれただけで、なぜか植田の心臓は高まるのだった。

 もちろん、足が不自由で、体力の弱い植田には、重すぎて、とても持ちあげることはできなかった。しかし将来、きっといつかこんなバーベルで思いっきり体を鍛えてみたい、体のハンデを克服するのには、自分でやる以外にはないと、子供心に誓った。

 やがて県立高松工芸高校を卒業し、建築設計事務所に就職した。そして仕事にも馴れて、時間的な余裕も出来るようになった。こうなると、小さいときからの「力強くなりたい」という憧れがムクムクと頭をもたげてきたとしても不思議ではない。

 早速、バーベル・セットを購入してウェイト・トレーニングを開始した。何の知識もなく、一緒に練習する相手もいない植田は、本を頼りにコツコツと1人で練習をするしかなかった。だから、ごく軽量で、ケガをしないようにこわごわやっていたので、効果もほとんどあがらなかった。

 そんな状態が2カ月ほど続いたある日、高松トレーニング・クラブの中尾達文会長が、世界パワーリフティング選手権に出場するという記事が新聞に出ていた。この時、パワーリフティングという競技があることを植田ははじめて知った。新聞には、スクワット、ベンチ・プレス、デッド・リフトの簡単な説明や、中尾会長が日本記録保持者であることなども出ていた。

 「燈台もと暗しじゃ、こんな近くにそんな有名な人や、ジムがあるとは知らなかった」と、翌日、さっそく中尾会長を訪ね、その場で入会した。それからは、よほどの理由がない限り、毎日、2~3時間の練習を欠かしたことがない。
[トレーニングのあと、足の具合を見る植田選手]

[トレーニングのあと、足の具合を見る植田選手]

よき環境に囲まれて自己発見

 ノルウェーの高地に、高さが50~60cmのはんの木がある。これは、寒さと土地がやせているために、どうしてもこれ以上大きくなれない。このはんの木を温暖で豊かな土地に移し変えると見上げるような大木になるという。

 これと同じように、人間の場合も環境によって人生は大きく左右される。「力強くなりたい」という植田の憧れに、高松トレーニング・クラブがぴったり合っていた。ウェイト・トレーニングに情熱を燃やす中尾会長をはじめ良き先輩、同僚がいたからこそ、からだのハンデを背負いながら、1年7カ月という短期間に、全日本大会でミドル級5位入賞という快挙をなしとげることができたのである。その上、パワーが強くなっただけでなく、植田の人生において、もっと大切な精神的な自信をよみがえらしてくれたのである。

 体力的な劣等感のとりこになっていた植田は、たまたま、ある日の新聞記事を目にしたことで、大きく成長し、五体満足な人をも上まわるパワーを獲得すると同時に、努力さえすれば、人間には大きな可能性が秘められていることをも発見した。

 植田の師匠中尾会長いう。

 「毎日のトレーニングで流す汗、そしてそこから生まれる自信が大切なんです。パワー大会では、トレーニングの結果得た力だけが頼りなんです。からだのハンデや同情は通用しません。それがスポーツというものなんだということをよく教えています。植田君があのからだで、1年7カ月という短期間にミドル級5位に入賞したということは大へんなことです。人の2倍、3倍の努力をしているんです。しかも、それをいやいややっているんじゃあありません。目に見えて力が強くなることがうれしくて仕方ないんです。だから、ここに入会した当時とは、力も性格の明るさも、そりゃ違いますよ。彼はまだまだ伸びると思います。期待していてください」

 最後に、これからの彼の考え方を彼自身に語ってもらおう。

 「諺に“健全なる精神は健全なる体に宿る”とあるように、パワーを通じて強い筋肉と力をつくると同時に、いかなる場合にも動揺しない精神力を養いたいと思っています。それに加えて“実るほど首をたれる稲穂”のような謙虚さを兼ね備えたリフターになるように頑張るつもりです。中尾先生が口ぐせのように云っておられる“競技に対する情熱と素直さと謙虚さを忘れるな”という言葉を守って努力していくつもりです。

 先日は、全日本パワーに出場できてほんとうに青春時代のよい経験になりました。そして、パワーリフティングを通じて、これからの私の人生の模範となる方々にお目にかかることもできました。いまはまだまだ若輩ですが、一歩でもこれらの先輩に近づけるよう努力していきたいと思っています。そして、誠に生意気ではありますが、ボディビルに、そしてパワーリフティングの発展に少しでもお役に立てればと思っています」
[スクワット195kgに成功。JPA全日本パワー選手権にて]

[スクワット195kgに成功。JPA全日本パワー選手権にて]

月刊ボディビルディング1978年9月号

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