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Invitation to Bodybuilding ~ ボディビルのすすめ ~ 1969年12月号

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月刊ボディビルディング1969年12月号
掲載日:2018.07.23
「びっこの人にわれわれは腹を立てないが、びっこの精神には腹を立てる。それは、びっこの人は、われわれがまっすぐ歩いているのを認めるのに、びっこの精神は、われわれのほうがびっこをひいているのだ、というからである」--パスカル

 知識人のなかには、見るに耐えぬ自分の肉体にくらべて、訓練によってみごとに鍛えあげられたたくましい肉体を軽べつしたり、その訓練を揶揄(やゆ)したりする者があるが、彼らは、いわば、びっこの精神の所有者である。しかもそれは、肉体をぎせいにしなければ精神は生きてこないとでも思っている中世風なびっこの精神である。

 西洋の文明文化の源流をなすアリストテレスの学派を一名「逍遥学派」という。彼は歩きながら教授したからである。「机の上で思いついたような思想を信用してはならない」「歩きながら自分は考える」とニーチェはいう。かくして彼のツァラトストラ制作の霊感は散歩中にひらめいたのである。

 びっこの精神が机の上で思いついたような思想は、彼ら自身を導く原理としても、おそらく3日とはもつまい。人間にとって不変の指導原理といわれるようなものは、古来二、三につきる健康のよろこびもそのひとつである。が、そのよろこびは、空気の存在のように、ふだんは気づかれないが、病苦という反義語のあることを見てもわかるであろう。万金をつんでも死をさけることはできない以上、死は経済以上の原理であり、健康のよろこびは経済を動かすかくれた原理である。

 ところで、ひと口に“健康”といっても、そこにはいくつもの段階があることは、トレーニングをやったことのある人にはわかることであろう。バーベルが重たい日、バーベルが軽い日。たんに病気ではないという状態から、体力、気力ともにみちあふれ、猛烈に働いても疲労をおぼえないとか、疲労とはたんにこころよい眠りにさそうゆりかごにすぎないというような強壮な健康状態--いわば、強健・壮健・勇健・頑健とでも呼ばるべき健康状態まで、いろいろあるであろう。

 わたくし自身、満62才になった今でも、病気ではないというそれだけでも結構な状態以上に、むしろ頑健に近い自分の健康を確認し、その喜びを満喫しつつ、老人の無気力をも、メランコリー(ゆううつ)をも知らず、肩こり、腰痛、息ぎれをもおぼえず、日々身も心もかろやかに仕事に立ち向かえるのは、いつにボディビルのおかげと確信している。また、普通の健康体でよい指導者またはよい自習書に導かれるかぎりでは、高年層におけるボディビルの効用と安全性についても、年をとるごとに、その信頼を深めつつあるので、老若男女を問わず、会う人ごとに「ボディビルのすすめ」を説いてはいるが、どうもインテリと高年者をボディビルに誘うのは、彼らをゴルフに誘うほどに容易ではないのである。

 親からもらった体を自然のなりゆきにまかせないで、改善、改造しようという道は、若い人にとってもだれもが歩きたがる平坦な道ではない。まして日常筋肉を用いる機会にとぼしい一般知識人や高年者にとっては、あのとっつきにくい鉄製の重量器具にいどむなどということは、まったくの気ちがいざた、自然に反する行為だと思われる。

 そのとおり、まさに自然に反するのである。年とともに老化するのが生物一般の自然のおきてである。ゆえに、中年をすぎては、自然に抗しないかぎり、自然的老化は防ぎようがないのである。たとえば、男女ともに中年以降のごく自然な腹部の肥満傾向に対しては、腹筋運動というもっとも効果的な反自然的トレーニングがあるというわけである。

 しかし、肉体の老化以上に恐るべきは、これにもとづく脳髄(精神)の老化である。二つの老化は、恵まれた不自由のない老後をも救いがたくメランコリーなものにしたり、急がなくともよい破局をみずからまねかせたりするのである。

 しかし最近は、高年者であっても、バーベルの前に立ったり、往来をランニングしている姿をときどき見かけるようになった。60の手習い、いや70の手習いさえ、もはやたんに紙筆の上の出来ごとではなくなったのである。わたくしは、そのつど立ちどまって彼らの沈黙の動作に見入る。それは、自分と同年輩の同好の士に対する好奇心ではない。わたくしはひとしれず、彼らにあたたかい敬意を表する。その孤独な無言の行に彼らを踏みきらせたのはなんであろうか。たんにカッコよくなりたいとか、肉体美をほこるとかいう浮薄な動機は、そこにはみじんもない。だからこそ、その姿は、低年のビルダーにとってはいくつになっても落伍してはならないという戒しめとなり、高年者一般にとっては老後の生き方に力と明るさを増すひとすじの光となり、わたくし自身にとってはこの上ない激励となりうるのである。

 人は若返ることはできないにしても自分に向かって「若さよ、とどまれ」と呼びかけることはできる。このような道も、人間のみが歩きうる--弁証法的には、やはりごく自然な--道なのである。
(松尾啓吉)
月刊ボディビルディング1969年12月号

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