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アカプルコで会った素晴らしいスーパースターたち

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月刊ボディビルディング1979年3月号
掲載日:2018.10.01
IFBB JAPAN 事務総長 松山令子
1978年度のIFBBのワールド・チャンピオンシップスは、メキシコのアカプルコで11月5日に開かれた。この世界選手権に日本ティームとして参加すべくアカプルコへ向かった私たち一行のスケジュールは、アカプルコでの世界選手権を終えたのち、メキシコシティの観光をし、帰途、ロスアンゼルスで世界にその名も高いボディビルダーのメッカであるゴールド・ジムを訪れること、ハワイのホノルルにあるミツ・カワシマ氏のジムを訪れ、且つハワイでの休日を楽しむことという、まことに楽しみいっぱい夢いっぱいのものだった。

一行は、選手として、谷口明、小野幸利(ともにライト級)、臼井オサム(ミドル級)、役員としては、選手監督としての磯村俊夫(IFBB・JAPAN副会長、東日本管轄)とティーム団長としての私、松山令子(IFBB・JAPAN事務総長)の5人で、世界選手権ヘジャッジとして日本からノミネートした後藤紀久医博(IFBB・JAPAN審査委員、IFBB国際ジャッジ)は、勤務の都合上、2日おくれて出発し、単独でアカプルコへ向かうことになっていた。

さて、10月30日17時40分、希望に胸をふくらませながら大阪空港を飛び立った私たちが、同日20時10分、ロスアンゼルス空港に着いた時、思いもかけぬハプニングが私たちを待ち受けていた。それは、その夜直ちに乗りついでアカプルコへ向かうはずのメキシコ航空の予期せぬストライキであった。

私たちの日本で決めてきたすべてのスケジュールはこわれた。その夜、私たちはやむなくロスアンゼルスで一泊した。それからあとのアカプルコへの旅、また、アカプルコからの日本への旅は、乗りつぎの空港に着くたびに、ありとあらゆる航空会社の窓口へ行って、飛行機の有無、座席の有無を調べ臨機応変に座席の予約をとりつけねばならず、言葉も人情もちがう外国人との折衝は苦労の連続であった。みんなに余計な心配をさせたところでどうにもならないと知っている私は、出来る限り、自分ひとりの頭で事を進めた。しかし、旅の全責任を肩にしている私は、まるで重い鉛のかたまりを胸に抱いているような思いで、眠れない夜も食欲のない昼もあった。

しかし、不思議といおうか、神のめぐみといおうか、いつも行きづまったときには、航空会社のどこかの窓口に親切な人があらわれて、私たちの苦境を救ってくれた。ほんとうにうれしく且つありがたいことであった。

帰途、アカプルコからメキシコ・シティ向けの飛行機は全部ストップしコンテストに参加した人はほとんど足止めとなった。

私たちはスケジュールがあるので、止むなく、アカプルコからメキシコ・シティへの道を、ミニ・バスをチャーターして山越えでいった。飛行機なら40分で飛べるところを、ミニ・バスで約5時間かかった。しかし、このお陰で、私たちは、素顔のメキシコを見ることが出来た。

高価なイブニングを着たようなアカプルコを一歩出ると、もうそこは、ちょうどツギのあたった洋服や靴をはいているようなメキシコであった。人間の背丈の5倍くらいもあろうかというサボテンが群生している山も見た。メキシコ・シティでは、日本とはひどく異なるいろいろの社会状態も見ることが出来た。
〔メキシコ・シティへ行く途中でこんな大きなサボテンがたくさん生えているところを通り驚く〕

〔メキシコ・シティへ行く途中でこんな大きなサボテンがたくさん生えているところを通り驚く〕

ひと口にいって、苦しい旅であったといえるけれども、一方ではいろいろと見聞をひろめることの出来た旅でもあった。旅先で困ったときの見知らぬ人の親切も身にしみて味わった。

それよりも何より楽しかったのは、アカプルコでのたくさんのスーパースターたちとの出会いであった。それぞれに個性ゆたかなスーパースターたちと私が永年にわたる交わりをつづけていたため、日本からいった人々のために楽しい接触を用意出来たことは私にとって望外のよろこびであった。旅の苦労をおぎなって、充分にあまりあるものであった。

予定どおりに、そして全員つつがなく帰国出来たいま、私は、私たちへの神の加護を感謝すると共に、海外で会った人々の好意と友情を回想して、ほのぼのとした幸福感につつまれながらこの稿をしたためた。
〔アカプルコ空港で再会を喜び合う、左からフランク・ゼーン、ジョー・ウイダー、フランコ・コロンブ、後藤審査員〕

〔アカプルコ空港で再会を喜び合う、左からフランク・ゼーン、ジョー・ウイダー、フランコ・コロンブ、後藤審査員〕

~~フランコ・コロンブ~~

やっとの思いで11月1日の夜、アイプルコ空港に着いた私たち日本ティーム一行は、メキシコ連盟からの出迎えを受けて、用意されたバスでエル・プレジデント・ホテルに運ばれた。

ホテルに着くと、ロビーはまるでオモチャ箱をひっくり返したような賑かさ。真夏のリゾートとあって、そこらあたりは、色とりどりの服を着た若い美人でいっぱい。しかも、その衣服はほんの申しわけのようで、美しい肌がたくさん露出している。

ディスコテクのような音楽が鳴りひびき、私たちは突然、別世界へつれてこられたよう。ほんとうにヨーロッパ風のリゾートというものが、どんな雰囲気のものかよくわかった。抜けるように青い空、すいこまれそうな紺碧の海、大きく青々とした樹木、芝生はまるで絹のようにつややかで、なめらかである。

ホテルからは水着のままで海にいける。ここは貧乏とか病気とか、人生の苦しみなどとは全く無縁のところのようだ。地上の楽園とでもいうべきか。

11月2日、私たちはウイダー会長をエル・プレジデント・ホテルの部屋へ表敬訪問した。そして記念撮影ののちに、いろいろな話をし、そのあとロビーへ下りてくると、ホテルの受付へ見なれた顔がぞくぞく現われた。

あった思うと、コロンブがいた。彼は、私を抱いて高く持ち上げた。1975年のプレトリヤ以来である。でも少しも変っていない。

アカプルコへ発つ前に私が出した手紙は受取ったという。ほんらいなら帰途ロスアンザルスでもう一度、彼と奥さんのアニタと会うはずであった。しかし、彼らは8日にロスアンゼレスを発ってニューヨークへいくことになっているので、ぜひ、8日までにロスアンゼルスへ来るようにと彼はいった。しかし、メキシコ航空のストライキは行事の終った6日以後もなおつづいていて、私たちは予定どおり到着することが出来ず、遂に彼らと会う機会を逸した。

日本へ帰って間もなく、ニューヨークからのアニタの絵はがきがついた。それには、会えなくて残念と書いてあった。

コロンブは、誰もが知っているように、去年夏、大ケガをした。それにもかかわらず、きわめて元気で、彼は世界選手権のときゲスト・ポーズをやり且つ、水枕破りをして皆の拍手を受けた。体を見ると、何の後遺症もないようで、ともかくこれは奇蹟に等しいとウイダー会長がスピーチを行なったときいっていた。ほんとうに、この世にこんな純粋な無邪気な人はいないと思われるほどのコロンブの今後の活躍を祈りたい。

カイロプラクティクスのドクターとなったコロンブは、仕事の方も順調で毎日40人以上の患者を手がけているという。奥さんのアニタがコロンブよりも早くこの方のドクターなので、2人の仕事は伸びる一方で、近く診療所を新しく拡張するといっていた。

~~フランク・ゼーン~~

11月2日の夕方、ゼーンはエル・プレジデント・ホテルに着いた。今年のオリンピア・コンテストの優勝おめでとうというと、いつものとおりの静かな態度で“ありがとう”といった。でもやっぱりうれしそう。

彼は1973年に来日したとき、ボディビルの審査が、自分の提唱する美の基準を認めず、いたずらにバルクの大きさのみを審査の基準とするなら、自分はもう二度とコンテストには出ない、もっぱらエキジビジョンで進んでいくつもりだ、と私にいった。

でも彼は、やっぱりあきらめないで自分の信じる道を歩いた。そして去年(1977年)オリンピア・コンテストのジャッジたちは、遂にバルクよりも均整という彼の主張を認めたのである。ゼーンの体はどこをとっても、他の部分より過剰に発達しているとか、発達が遅れているとか思える部分がない。ほんとうに練りに練ってつくりあげた体である。静かな人柄も、その体によくマッチしている。

彼は永年つとめたハイスクールの数学の先生をやめて、いまはテレビ関係の仕事をしているとか。今度の世界選手権にはテレビの実況報道があり、彼はその方のスタッフとして来ていたのである。いつも一緒にいる奥さんのクリスティーヌは、テレビの仕事が忙しくて、今度は出てこられなかったとのこと。

彼も、私が出発前に出した手紙を受取ったといった。無口で静かな人柄はいつもと変わらない。彼とも1975年以来の再会である。ホテルの廊下とか、コンテストの会場とか、いろいろのところで顔があうと、ニッコリと温かい笑顔をくれた。口で話はしなくても、絶えずつづいている文通で彼の近況はわかっている。

彼は最近、浄土真宗に深い関心を示している。禅をはじめ、真の日本的なものの理解者である彼の名がゼーンというのも不思議な偶然である。

今年の日本のコンテストに呼んで欲しいといっていたゼーン。私たちは、きっともう一度、彼とクリスティーヌを呼んで、その美しいポージングを多くの日本の人々に見せたいと思う。

~~マイク・メンツァー~~

やっぱり11月2日、エル・プレジデント・ホテルのロビーでの初対面。でも、不思議なことに、顔があったとたん、彼は私を知っていた。もちろん、私も彼の顔は知っていた。昨年、彼を日本へ呼びたいといったとき、彼は他へ出演する先約があって日本へ来られなかったのある。一昨年は彼の方から売り込んできたけれど、その時はすでにコロンブが招かれることに決っていた。そして、来日寸前にコロンブがケガをし、ラリー・スコットに変ったのである。来年(1979年)こそはきっといくと彼は力を入れていった。

コンテストで見たマイクは、写真とは若干ちがっていた。しかし腕の太さは圧巻だった。他の部分では彼よりも勝れている人もいたが、彼が腕をグッと左右に拡げると、その大きい三頭筋が完全に観衆をひきつけてしまうのだった。
〔マイク・メンツァー〕

〔マイク・メンツァー〕

~~ロビー・ロビンソン~~

メキシコからの帰途、11月8日、やっとの思いで(日本からは想像もつかないほどの苦労。タクシーが道を走っていない。ハイヤーを呼んでも40分か50分しないとあらわれない)サンタモニカのコールド・ジムへいく。

写真で想像していたよりは雑然としたジムで、活気でムンムンしている。皆は汗が床にとび散るほどのトレーニングをしている。何気なく奥の方を見ると、黒人の松の幹のように太い腕がTシャツからはみ出しているのが見えた。あんな太い腕はロビンソン以外にないと思って、じっと眼をこらして見ると、やはりロビンソンだった。

トレーニングのさまたげをしたくないと思って、しばらく遠くから見ていると、急に彼の方から気づいて走ってきた。そして私を抱いてほほにキッスをした。まるで滝のように流れる汗もおかまいなしに。おかげで私のほほも服も水をかけたようにぬれた。それから皆で記念撮影をした。やっぱり1975年のプレトリヤ以来である。よく私を覚えていてくれたと思う。

ロビンソンの体は一段と凄味を増していた。でも、人なつこい顔はそのまま。いつか近いうちにきっとこの人を日本へ呼ぼう、と私は思った。日本中にこの人を見たいというボディビルダーがたくさんいるから。
〔ゴールド・ジムでトレーニングを終えたロビー・ロビンソンと後藤審査員〕

〔ゴールド・ジムでトレーニングを終えたロビー・ロビンソンと後藤審査員〕

~~ケン・ウォーラー~~

ロビンソンが帰ってから、ぼんやりしていると、いきなり毛糸の帽子をかぶった見たことのある顔が近づいてきて、私の顔をじっと見て、ニッコリ笑った。ケン・ウォーラーである。「元気?」と尋ねると「元気だ」という。記念撮影をして別れた。彼の健闘を祈ろう。

~~ダニー・パディラ~~

ゴールド・ジムにいって真先に会ったのがパディラである。私は彼を写真で見てよく知っている。しかし、彼は私を知らない。でも眼が合った瞬間、ニッコリして何ともいえないやわらかな態度であいさつした。ほんとうに何という素直な可愛いい坊やだろう、というのが私が受けた印象。きっとジョーやベンの両ウイダー氏は彼を可愛がっているだろうと私は思った。背はひくいが、体のバルクは抜群である。
〔ダニー・パディラ〕

〔ダニー・パディラ〕

~~ジム・モリス~~

ジム・モリスのジムへ私たちをつれていってくれたのはビル・パール(後出)である。ジム・モリスのジムは新しくて広々としていて、とても清潔である。オープンして間もないため、まだ凄いというような会員は見かけなかった。

彼の顔や体はかねてから雑誌などで見て知っていた。けれども、直接、彼に会って話をして驚いたことは、彼が教養ゆたかな奥ゆかしい紳士であったことである。言葉といい、態度といいほんとうの紳士である。話をしているうちに、彼がニューヨーク大学で体育学を、カルフォルニア大学で栄養学を修め、かつ、テレビで体育に関する相談のコンサルタントをしていることがわかって、なるほどと思った。

谷口、臼井の両選手に懇切ていねいに回答を与え、かつどのようなエクササイズがよいかというところまで念入りに教えてくれた。さしずめ谷口、臼井両選手のための特別セミナールであった。彼はよほどビル・パールに心服していると見えた。彼も昨年からIFBBのコンテストに参加し、名実共にIFBBの人となった。

~~ジミー・カルーソー~~

彼はボディビルのチャンピオンではない。いわずと知れた世界一のボディビルのカメラマンである。マッスル・ビルダー誌の読者をよろこばせるあのチャンピオンたちの凄い写真はほとんど彼の手になるものである。一見、物静かな色の白い小柄な人である。その彼のどこに、あのボディビルダーの個々の体を研究しつくした鋭い眼がひそんでいるのかと思れるほどである。

私はもう彼とはずっと古いつきあいである。そう、1972年のバグダッド以来である。

11月2日、私はフランク・ゼーンから、あなたのウスイをテレビが取材するから、11月3日の朝8時に、トレーニング室(エル・プレジデントホテルの近くに臨時につくってもの)へよこすようにいわれた。

その前の晩、私たちの泊っていたロマノホテルの近くの道路で、IFBBの事務総長(日本流にいえば理事長)であるカナダのロバーツ氏とつれだって歩いていたカルーソー氏に出会った。2人とも私には古い友だちである。久しぶりに会ったあいさつをしてから、私はカルーソー氏に日本の選手3人の写真をとってほしいとたのんだ。彼は快く引受けてくださった。

さて、話を元に戻して、前日のゼーンからの話を受けて、朝8時、臼井選手はトレーニング室に赴いた。そこえNBC放送のインタビューアーが2人来て、臼井選手へのインタービューを始めた。彼に英語で答えさせようと思っていたが、ときどき助け船を出さざるを得なかった。

そのあとでカルーソー氏がトレーニング室へ来て、近くの海に面した崖の上で3人の写真をとってあげようという。皆大いによろこんで崖の上にいく。カルーソー氏は自分のカメラを持っておらず、磯村さんのカメラでとるという。これもまた、天のめぐみとばかりさっそくカメラに収まる。おかげで、世界一のカメラマンの撮影したフィルムごと日本に持ち帰ることができた。

お昼に近づき太陽が高くなった。するとカルーソー氏は、太陽の角度がよくなくなったから、ここでやめようといった。無口な人で、ほとんど大きい声も出さない。ポーズにつける注文も静かである。3人はそれぞれ何枚かずつとってもらった。まさにボディビルダーにとっては終生記念すべき写真だと思う。

~~ビル・パール~~

何故ビル・パールを最後に書くかといえば、いろいろご馳走をならべられたとき、一番おいしいものを残しておいて最後にそれをたのしく味わって食べる人がいる。ちょうどあれと同じ心境である。

ビル・パール、それはなんと古くから私たちの耳にのこっている名前だろう。ボディビルが日本にはじまった当時から、ビル・パールという名は、ラリー・スコットという名と共に私たちの心にきざみつけられてきた。

そのビル・パールと思いがけず私はアカプルコで会う機会にめぐまれた。私たちはラテン・アメリカ・コンテストのプレ・ジャッジングを見にいくところだった。エル・プレジデントホテルの前でマイクロバスを待っているとビル・パールが道に立っている。アッと思った。思わず近づいて握手する。いうまでもなく、私とは初対面であるのに、彼は年来の友だちに会ったような、その温かい人なつこい態度、表情といったら、会う人すべてが彼のファンになりそうなほど。

彼ぐらい高名になると、彼は知らなくとも相手が知っているという場合がいくらでもあるにちがいない。そんな場合、彼は相手をどのように受入れるかということをちゃんと知っている。これでこそ大スターだと思う。さきのダニー・パディラといい、このビル・パールといい、一面識もない初対面の人によくもこれだけ気持よくつきあえるものだとしみじみ感心する。

ガッシリと幅の広い部厚い肩と胸。その上に、幅広くて、温かい表情をたたえた顔がのっている。写真で見ていたのよりは、ずっと感じのいい顔である。それからあとは何かにつけて私たち日本ティームは親切にしてもらった。ほんとうに夢ではないかと思うくらいに。

アカプルコからミニバスでメキシコシティーへ。メキシコ・シティーから飛行機でロスアンゼルスに向かうとき空港の待合室へはいると、偶然そこにビル・パールがいた。そして、話をしているうちに、私たちがロスアンゼルスでは、ハリウッドのホリデーインホテルに泊ることがわかると、奥さんが迎えに乗って来たバンで皆をホテルまで送ってやろうといってくださる。

私は空港から遠いホテルまでどうやって皆を運ぼうかと心を痛めていた時なので、これほどありがたいことはなかった。空港からハリウッドまで、やさしくて美しくて聡明そうなビル・パールの奥さんのジュディの運転するバンで私たちは送ってもらった。

翌朝、ビル・パールは前日の約束どおり、再び奥さんの運転する車でホテルまで私をむかえに来て下さった。帰りの飛行機のチケットを受取らねばならなかったのである。ハリウッドからダウンタウンまで遠い遠い道のりを私をはこんで下さり、そして道案内をして私を助けてくださった。どういって感謝の気持をあらわしていいかわからない。

それからホテルに帰り、ジム・モリスのジムに電話して、私たちの面倒を見るようにたのみ、そこからまたモリスのジムまで運んでくださったのである。心の底から温かい立派なご夫婦である。

今度の旅でビル・パールに出会ったことは、ほんとうに私の人生での大きな収穫だと思う。私は、人間の幸福はお金でも、名誉でも、権力でもないと思う。人と人との打算を越えた温かい心と心のふれあいだと思う。そういう意味では、今度の旅は少なくない収穫があった。私は感謝せねばならない。
〔ビル・パール〕

〔ビル・パール〕

× × ×

最後にほほえましいエピソードを。帰りにロスアンゼルス空港で税関を通過したときのことである。私たちの荷物はさして注意の的ではなかったようだ。ところが、ひとりの婦人の税関吏が私に近づいて、小さい声でいった。「彼はふところに何か持っているらしい」と。誰のことかと、彼女の視線を追うと谷口選手の胸を見ている。私はすまして、「ハイ、彼はふところにマッスル(筋肉)を持っています」と答えた。

マッスルと聞いて彼女はケゲンそうな顔をしたが、私が「彼はボディビルダーです」というと、まわりの人々はたちまち了解してドッと笑った。そして昨夜、マイク・メンツァーがここを通過したことを私たちにいった。マイク・メンツァーにも同じ質問をしたのだろうか。そこまではわからない。
月刊ボディビルディング1979年3月号

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