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ヨーロッパひとり歩き<その2>
イギリス・ボディビル界の周辺

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月刊ボディビルディング1979年3月号
掲載日:2018.10.13
(財)スポーツ会館トレーナー早稲田大学ボディビル部監督
岸 正世史

英国ビルダーの地元での評価

渡英して、最初にNABBA本部を訪問した私は、その後も何度か同事務所を訪れていたので、幸いにもイギリス・ボディビル界の様々な情報を得ることができた。

ロンドンに約1週間滞在したあと、ひとまずこの町に別れを告げ、ヨーロッパ大陸に渡った私は、パリを経由してデンマークのコペンハーゲンに飛びコペンを振り出しにドイツ、フランスと国際鉄道で南下していった。

そして再び、なつかしのロンドンに帰ってきたのは、7月もあとわずかを残すだけとなった下旬であった。

涼しいロンドンでは、真夏でも半袖を着る日はほとんどないが、夏だというのに市民は毛皮やぶ厚いコートを着ていたコペンハーゲンやハンブルグを経て来た身には、ずいぶん暖かく感じられる。その上、ドイツ語やフランス語にはまったく弱い私にとって、英語の通じる国に戻って来たという安心感は大きかった。

ヨーロッパ大陸訪問前にすでに手に入れておいた資料をもとに、以後のイギリス国内での活動を、さしたる障害もなく行なうことができたのは、NABBA関係者をはじめ、一般のボディビル・ファンの暖かいご協力に負うところが多い。

特に私が興味を持ったのは、イギリスのボディビル関係者やファンは、このイギリス国内の歴代チャンピオンの中で、果たして誰が最もすぐれたビルダーだと思っているか、そして二番目は、三番目は・・・・・・ということであった。

もっとも、同様のことは、わが母国日本国内のビルダーについても決して定かではない。わが国の場合、ルールが改正されたとは言っても、一度ミスター日本になったビルダーは、なかなか再度同じ舞台にはあがらないし、JBBAだ、IFBBだ、プロだ、アマだと、様々な事情がこの決定を許さない。

ちなみに、私は一ファンとして、現状では実現不可能に違いないが、末光健一、杉田茂、須藤孝三、奥田孝美らを始めとする、いまだ第一線で活躍している日本のトップ・ビルダーたちが一堂に会して競い合うのを見ることが夢なのだが。

さて、それ以来、私はトレーニング・センターに行く度に様々な人をつかまえては、「いったいこのイギリス国内の歴代チャンピオンの中で、あなたは誰が一番・・・・・・」という質問をしていった。

この質問は、時にはロンドンを遠く離れた地方都市を訪れた折にも、忘れなく発したものだった。NABBAの関係者はもちろん、町のジムの一般ビルダーからコーチ、ファン、時には女性ファン(ちゃんと女性のボディビル・ファンもいたのです)に至るまで私の執念は及んだ。

質問を受けた被害者の中には、ユニバース・コンテストのベテラン審査員ケン・ヒースコート氏や、プロ・コーチのフォワード・ネルソン氏、同じくプロでヘルス・インストラクターのフランシスコ・ヒメネス氏、ミスター・ノース・イースト・コーストのゴードン・パスクィル君らもいた。

こうして、多くの人たちの話を開いているうちに、私はある1つの難問にぶつかった。それは、質問に答えてくれた人たちの年代の相異という問題であった。

すなわち、例えばある人が、「かのレジ・パークこそわが国のザ・グレイテスト・ビルダーである」と言ったとする。しかし、レジ・パークが最初にユニバースのタイトル・ホルダーになったのは、なんと27年前の1951年、2回目が20年前の1958年、そして、最後にプロ・ミスター・ユニバースになったのが、今から13年も前の1965年のことである。1965年と言えば、日本では多和昭之進選手がミスター日本になった年だしまして、1951年にいたっては何をか言わんや、である。

例え、パークの全盛期が1965年、彼自身37歳の時であったと仮定したとしても、雑誌の記事や写真、さらには一連のヘラクレス映画で知る以外、直接パークを知る者は、いきおい中年以上になってしまうわけだ。

そこで、比較的若い人たちには、特に、「あなたの知る範囲内で」という注釈をつけて質問することにした。したがって、私があとでまとめたランキング表は、当然最近のビルダーの方がより濃い密度の審査が行なわれての結果であると解釈すべきである。なぜなら、最近のビルダーの方がより印象も強く、また、そのビルダーを直接、自分の目で見たという人もそれだけ多いということになるからだ。

次に、ビルダーの優劣を決める場合の、人それぞれの「好み」という問題はどうだろう。これは、競争におけるタイムやウェイトといったような歴然とした決定要素のない場合には、重要な問題となってくる。つまり、「私はフランク・ゼーン・タイプが好きだ」「私はセルジオ・オリバ・タイプが好きだ」というように、まったく違ったタイプの優劣の問題である。

事実、私が回ったトレーニング・センターのコーチの中には、「スティーブ・デイビスというビルダーを知っていると思うが、彼がミスター・カリフォルニアになったというなら、うちのセンターの何人かの選手は全米コンテストを支配してしまうだろう」と、痛烈なことを言っている人もいた。

それはともかくとして、私は、この「好み」という問題については、一応そのままこれをランキングに反映させようと思っていた。「誰が最もすぐれたビルダーであるか」と同時に、「誰が最も人気のあるビルダーか」ということもまた、私にとってはきわめて興味のあることだったからだ。

「人気も実力のうち」という考えのもとに、私はようやく、足で集めた英国史上歴代名ビルダー・ランキング・ベスト・ファイブなるものをまとめるに至った。その結果は次のようになった。

1位●バーティル・フォックス

英国歴代ナンバー・ワンは、なんといってもバーティル・フォックスであった。話には聞いていたが、ここ1~2年のフォックスへの支持者の増加は驚くべきものがある。様々な人たちから意見をもらってこのランキング表ができたのは、まだ1978年度ユニバース・コンテスト前であったことを思うと、その時、イギリス国民はすでにフォックスがサージ・ヌブレに勝つであろうことを予想していたに違いない。

コンテストのあとの例のダンス・パーティーでフォックスを見つけた。私は、まず彼に「おめでとう」と言って握手をしてから、サインをもらい、このランキングのことを話してみた。

彼の反応はこうであった。

「それは、たいへんうれしい。しかし、僕が歴代ナンバー・ワンだなんて、おそらくその人たちはボディビルをよく知らないのだろう」

おとなしくて無口な彼としては、ずいぶん気のきいた冗談を言って照れていた。

また“Health & Strength”誌のある記者はこう言っていた。

「フォックスの脚に、いま一層のデフィニションがつき、もっと上手なポージングができるようになれば世界のザ・グレイテスト・ビルダーはアーノルド・シュワルツェネガーではなく、彼になるだろう」
〔人気No.1バーティル・フォックス〕

〔人気No.1バーティル・フォックス〕

2位●レジ・パーク

十数年たった今でもレジ・パークの人気は衰えていない。1951年、地元イギリスに初の栄冠をもたらして以来、7年後の1958年、そしてまた7年後の1965年と、三度にわたりユニバースを制覇、最初のトリプル・タイトル・ホルダーとなった実績は現在でも高く評価されている。

それに輪をかけ、一連のヘラクレス映画は、彼のスターとしての座をも不動のものにしたようだ。

「逞しい肉体に甘いマスク、これぞボディビルの醍醐味であり、真価である」と、口からアワをとばして力説していたややホモ気味のビルダーがロンドンのとあるジムにいた。

ともあれ、パークはアメリカのスティーブ・リーブスと共に永久不滅のビルダーとして後世にその名が残るであろう。
〔人気No.2レジ・パーク〕

〔人気No.2レジ・パーク〕

3位●トニー・エモット

3位はやや混戦気味で、ロイ・デュバルの名前もずいぶん聞いたが、結局トニー・エモットが護得した。

かつて、アメリカの専門家たちによって選出された1977年度のトップ・ビルダー・ベスト・テンの記事が米誌“Muscle Digest”に載っていたのを見たことがある。これはのちに本誌「内外ボディビル情報」で、恩師、窪田先生が訳しておられたのでご記憶の方もあると思う。

それによると、フランスのサージ・ヌブレが9位、バーティル・フォックスが10位となっていた。

その後、この選出には、各方面からずいぶんとクレームが寄せられたそうだが、そのうちの多くは、サージ・ヌブレの不当な評価についての抗議であったと聞いている。これは、窪田先生も書かれていたようにヌブレのアメリカでの知名度に問題があったようだ。最近の情報では、このヌブレのアメリカでの評価も遅ればせながら、だんだんと高くなってきたということである。

これに対して、イギリスを始めとするヨーロッパでのヌブレに対する評価はさすがに高い。彼を評して、「スーパー・スター」という表現をイギリス国内で何度も聞いたし、1977年のユニバース・コンテストでヌブレがトニー・エモットに破れたあとも、例えば、ドイツのボディビル専門誌“Athletik Sport Journal”の1978年10月号にも、表紙に、ピンナップにと、ヌブレの人気はとどまるところを知らない。

話がちょっと横道にそれたが、そのヌブレを堂々とコンテストで下したというところに、このトニー・エモットへの高評価が集約している。
〔人気No.3トニー・エモット〕

〔人気No.3トニー・エモット〕

4位●ロイ・デュバル

エモットに3位の座を譲ったとはいうものの、ロイ・デュバルの支持者はかなり多い。以前に、ミスター・ブリテン、ミスター・ヨーロッパAAUミスター・ワールド、NABBAミスター・ユニバースと、四冠をさらった彼の活躍は、当然のことながら、それなりに評価されている。デュバルの方がエモットよりも迫力があると言う人もいた。

1976年のNABBAユニバースを彼自身最後のコンテストにすると言っていたロイだが、1978年度第30回には再び登場し、当日の予備審査に居合わせた私は、幸いにしてこのイギリスの四冠王の体をつぶさに観察する機会に恵まれた。

今をときめくフォックスやヌブレと同じ舞台では、いささか気の毒な気がしないでもなかったが、そのガッシリとした上体は、やはり並みのビルダーではないことを思わせた。ただ、強いて弱点を探すとすれば、上体に比べて脚がやや貧弱に見えるという点であろうか。
〔人気No.4ロイ・デュバル〕

〔人気No.4ロイ・デュバル〕

5位●ポール・ウインター

ポール・ウインターという名前をあまり聞かない読者が多いかも知れないが、ウインターは、やはり当時活躍していたレジ・パークや、アメリカの神様、ビル・パールらの間隙を縫うかのごとく、1960年度第12回NABBAユニバースの栄冠を勝ち得ている。さらに1966年には、彼自身二度目の王座につき、堂々ユニバースのダブル・タイトル・ホルダーとなった。

イギリスの歴代ナンバー・ワン・ビルダーにポール・ウインターの名前をあげ、彼の優勝したユニバース・コンテストを見たといっていたロンドン市内のあるジムのビルダーに当時の他の出場選手などについて聞いてみたところ、アーノルド・シュワルツェネガーや、かつてのIFBBミスター・ワールド男、リッキー・ウェインらの名前が出てきた。アーノルドはアマ・トールマン・クラスで2位、リッキーはポールに続いてプロ・ショートマン・クラスで同じく2位だったとのことだ。

ポール・ウインターのランキング5位を脅かしたビルダーと言えば、これもかなり多くの人たちが口にしていたジョン・シトロンであった。ジョン・シトロンは、ウインターが二度目の王座についた年、すなわち1966年から67年にかけてアマ・ショートマン・クラス、翌68年から69年にかけてのプロ・ショートマン・クラスと、なんと4年連続クラス優勝をなしとげている。
月刊ボディビルディング1979年3月号

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