フィジーク・オンライン

1978IFBBミスター・ユニバース・コンテスト
世界の強豪アカプルコに集合

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1979年2月号
掲載日:2018.10.01
IFBB・JAPAN副会長
磯村俊夫

大阪――ロス――アカプルコ

昨年10月30日、大韓航空204便で、大阪国際空港を日本チーム第一団(松山令子事務総長、磯村俊夫副会長、谷口明、小野幸利、臼井オサムの3選手)が一路、太平洋のリビエラとたたえられる情熱の国メキシコ随一のリゾート地であるアカプルコへと飛び立った。
始めて見る国、メキシコへの夢と期待で胸がはずみ、機内ではボディビル談義に花が咲いた。
小野選手……「脚のトレーニングは、近くのお寺の百数段ある石段を2~3往復ランニングして、そのあとスクワットをやったが、カットを出すのには、なんといってもこれが一番エーデノー」
谷口選手……「ユニバース出場のため、僕は最大限の努力をしてきたつもりです。その結果、各サイズも増し、それなりの成果があがったので、いい線いけると思うんだ」
臼井選手……「私にとって今回のユニバース出場は、知識の吸収と、一流ビルダーのトレーニング方法を自分の眼で確かめるのが目的です」
ロスまでの長い機中も、このような楽しい会話が止めどなく続き、時間のたつのも忘れてしまう。こんな訳で、この先にトラブルが待っていようとは誰も思わなかった。ロスアンゼルスからメキシコへ向う便がストライキとのことで、我々の楽しい旅はここで中断されてしまった。
ホテルも無事にきまり、ほっとひと息ついたとたん、激しい空腹感にみまわれた。
そこでさっそくレストランに飛び込み、サラダとハム・エッグを注文した。ところが、テーブルにならべられた料理を見てびっくりしてしまった。まずサラダはあたかも舟盛り料理のごとく、ハム・エッグはマットのごとく、とても人間の食べる量とは思えない。つくづく日本人ビルダーとアメリカ人ビルダーとの体格とスタミナの差がでる原因の1つを胃袋で感じた。
翌日、メキシコシティまでは無事にたどり着いたが、そこで再びストライキに泣かされた。事務総長の大活躍も空しく、明日ストのないことを願いながら、またもやホテル行き。ホテル代はツインで300ペソ、1ペソが約8円だからとても安い。ただ、メキシコのコインは大きくて、釣り銭をもらうと重くて困ってしまう。
11月1日の夕方、やっとのことでアカプルコ空港に着く。空港にはいつ着くともわからない我々を迎えにメキシコ連盟の役員が来てくれていた。彼らに感謝しながらバスに揺られてこのコンテストのために貸切られたメキシコ最高級のエル・プレジデント・ホテルに到着した。
翌2日、朝9時から、谷口、小野、臼井の3選手がトレーニングする予定であったが、さすがにみんな疲れきったせいか、この時間には、3人ともまだベッドの中。
トレーニング場に行ってみると、すでにトム・プラッツがパートナーを従えて、150kgのベンチ・プレスをやっていた。彼のやり方は、まず自分で限界まで繰り返したら、次にパートナーに補助してもらって、さらに2~3回行なう。つづいてインターバルをほとんどとらずに、重量10kgずつ下げて同じ要領で繰り返す。最終重量は50kgであった。ほかの運動種目も同様の方法で、やはりインターバルは重量交換のとき以外はとらなかった。
プラッツの激しいトレーニングに見とれていた私は、彼が途中でバーベルやダンベルを換えるときに見たその下半身の物凄さにドギモを抜かれた。これまで数多くの世界のトップ・ビルダーを見てきたが、彼ほどバルキーで、しかもカットのある大臀筋と大腿二頭筋の持ち主は見たことがない。
それにしても、日本の3選手のトレーニングは、外国のビルダーに比べてまず使用重量が軽すぎることが気にかかった。先に述べた食事の量にしろ、トレーニングの強度にしろ、やはり、並大抵のことでは、世界の一流にはなれないことを痛感した。
さて第二団は、といっても後藤紀久氏(IFBB国際公認審査員、医学博士)ただ1人であるが、仕事の都合で2日遅れて到著することになっていた。ただ、依然としてストライキがつづいているので、予定どおり到着するのはまず不可能である。心配なのは、後藤博士の出席する会議が明日に迫っており、それまでに間に合うかどうかである。
2日の夕方、アカプルコ空港に出迎えに行っていたメキシコ連盟のバスがホテルに帰ってきた。ジョー・ウイダー、フランコ・コロンブ、フランク・ゼーン、そしてマイク・メンツァーらにまじってバスから降りてくる後藤博士の姿を発見した。やはりロスで一泊し、だいぶ苦労して、やっと「はーるばるきたぜアカプルコへ」ということだそうだ。
その晩、19時から会議室で1977年度のワールド・コンテストの実録映画会が行われた。自分の知っている選手や有名選手のポーズがきまると場内から一斉に歓声がわき起こる。ことに、その選手がたまたま会場に居合わせている時など、一段と高い拍手が送られ、さながら生のコンテストを見ているようである。
3日はIFBBの会議が行われ、後藤博士と私が出席した。我々の議題はよく討論討議され、総会の終りにはベン・ウィダー会長に各国からの心のこもったプレゼントがあった。日本からも豪華な有田焼の花瓶をプレゼントしとても喜ばれた。
[プレジャッジ風景。右端がオスカー・ステート審査委員長。左から二人目後藤審査員。]

[プレジャッジ風景。右端がオスカー・ステート審査委員長。左から二人目後藤審査員。]

11月4日、ミスター・ユニバースの前座とでもいおうか、ミスター・メキシコが行われた。コンテストはメキシコ連盟のジュアン・ミランダ会長の司会で進められた。このコンテストにはゲストとして往年のチャンピオンたちが試合の合間に出場し、中にはかろうじて残っている筋肉でポーズをとり、場内の笑いを誘った。当日、日本のプロレス界に大変人気のある千の顔をもつといわれているミル・マスカラス(1961年度ミスター・メキシコ)も顔を見せ、素顔のままで、舞台の一人一人の選手に大きなゼスチュアでさかんに声援を送っていた。

’78ユニバース・コンテスト開幕

11月5日、いよいよ本番である。1978年度IFBBミスター・ユニバースとミスター・ラテン・アメリカが同時に開催される。コンテスト会場であるコンベンション・センター・テオティワカンホールは、周囲が緑に囲まれ、噴水が高く舞い上がり、日本ではとても見られない素晴らしい光景をかもしだしていた。
この大会は、メキシコ政府の主催で行われ、ロペス大統領も貴賓席から5千余人の大観衆とともに観戦した。テレビ中継ではフランク・ゼーンが解説し、その横には大男のルウ・フェリーノも顔を見せていた。ゲスト・ポーズは、足の骨折も完治したフランコ・コロンブが、水枕割りと彼独得の力強いポージングを披露し、場内割れんばかりの大声援を受けた。
コンテストは、ライト・クラス(75kg迄)、ミドル・クラス(90kg迄)、ヘビー・クラス(90kg以上)の3クラスに分かれて行われた。
まず、ライト・クラス優勝のカルロス・ロドリゲスは、ヒゲをたくわえ、コミカルな風貌をしており、ちょうどサミー・デイビス・ジュニアを太らせたような感じである。彼のポージングは心憎いほど大胆で、最後には観客に投げキッスをして退場していった。私もそのポーズに幻惑されて、彼の体については残念ながらよく憶えていない。
ミドル・クラスの優勝者トム・プラッツは上体の凄さもさることながら、その脚のバルクは全出場選手の中でもずば抜けていた。2位のピーター・スタッチ、3位のダーシー・ベックレスとも、プラッツに優るとも劣らず、とくにベックレスの広背は、あたかも亀の甲をつけているようだった。この3人の順位は誰が1位になってもおかしくないくらいの僅差だった。
ヘビー・クラスは最近メキメキ人気の出てきたマイク・メンツァーの頭上に輝いた。しかし、2位になったジュサップ・ウィルコッツもすごかった。日本ではあまり知られていないが、その風貌といい、プロポーションといいギリシャ神話のヘラクレスがそのまま舞台に現れたのではないかと、一瞬目を疑いたくなるほどであった。
[ユニバ―ス会場であるテオティワカン・ホールの前で。日本チームとヘビークラス2位・ジュサップ・ウィルコッツ(右端)]

[ユニバ―ス会場であるテオティワカン・ホールの前で。日本チームとヘビークラス2位・ジュサップ・ウィルコッツ(右端)]

メンツァーが勝ったのは、この世のものとは思えないほどの太い腕を中心としたポージングのうまさと、抜群の人気に支えられた面が多分にあったように思われた。
知名度の高いチェン・ウイントは善戦したが、バルク、デフィ二ション、バランスのいずれの面でも上位3人に比べると見劣りがした。
また、谷口選手の敗因をいうならばサイズ的には決して劣ってはいなかったが、皮膚の白さと、彼の消極的なポージングのために、迫力を欠いた点にあったといえよう。その点、モホ・ティク・ヒン(シンガポール)は、プロポーションは決してよいとはいえないが、その他においては谷口選手にはないものを備えていた。

IFBBの審査方法について

ここで、前後になったが、IFBBの審査方法について少し触れておきたい。コンテストに先立って、ホテル内の会議室で開かれたジャッジ・コミッティにおいて、審査に関する詳細が各国代表により3時間もの長時間にわたって討議された。選手にとって、厳正な審査をしてもらうことは最高の願いであり、それに充分値する充実した内容の会議であった。
審査は3段階に分けて行われる。まず第1ラウンドは、一人ずつ前面・両側面・背面のリラックス状態における筋肉の発達、均整を採点し、それから全員整列での比較審査が行われる。そのあと、各審査員の比較したい選手のゼッケンNo.が呼ばれ、さらに厳密な比較が行われる。
第2ラウンドは、規定6ポーズを1分以内に行い、その後、第1ラウンドと同様に規定6ポーズにおける比較審査が行われる。
第3ラウンドは、フリー・ポーズを1分以内に行い、ここでは比較審査は行われない。
これで、審査はすべて終了である。各ラウンドごとに最高20点、最低1点の配点が各選手に与えられる。これらのプレ・ジャッジは3時間あまりにわたり、ジャッジ・コミッティの重鎮であるオスカー・ステート氏の指示により入念に審査され、公正が期される。
この審査方法の利点は、第一ラウンドで全身の均斉、およびリラックス状態での各部分の形態が評価され、第2ラウンドでは、規定ポーズをとったときの全身、および各部分のバルクやカットが評価される。そして、第3ラウンドでは、表現力(各選手の個性を含め)が評価される。
このような3段階による採点方法は現在では審査の公正を期すための最高の方法だと思う。私は、国内ではIFBBオールジャパン、ローカル・コンテスト、そして学連コンテスト、国外においてはミスター・アジア(1973年クアラルンプール)と多数の審査経験を持つが、このようなビッグ・コンテストの審査ともなると、その責任は重大であり、終了したときには体中が痛くなるほどの緊張を覚える。
とくに、国際コンテストにおいては地味な性格の選手にはたいへん不利であると感じたのは私だけではないであろう。というのは、メンツァーやロドリゲスらのアメリカの選手は、これでもかこれでもかと、しつこいほど得意なポーズを強調してみせ、あたかも、「俺はゲスト・ポーザーでアカプルコに来たんだ」とでもいうように演技するのには驚かされた。
また、メンツァーなどは、彼のセールス・ポイントである太い腕を中心とした上体のポーズが多く、ポーズの2/3は坐り込むようにして、下半身のプロポーションの悪さをカバーしていたのには、むしろ感心した。彼に対する得点が多かったのは、もちろん、その素晴らしい肉体に対する評価だが、もう1つの原因は、すごい金髪美人である彼の奥さんの「マイク!マイク!」という声援であったともいえよう。
(この項、後藤紀之担当)

医学セミナーについて

11月3日、プレジデントホテルの会議室で、メディカル・コミッティ主催の医学セミナーが開催された。参加した人々は、他の会議とは違い、いくぶん緊張した面持で筆記用具などを持参して会場にやってきた。
開会に先立ち、IFBB世界会長のベン・ウイダー氏から「IFBBは、今まで十分に研究されていなかったところの運動の医学面に、多くの忠告をもたらすことにより、現代のスポーツ活動に多大な寄与を行なってきた。きょうの講演のテーマは、体格と成績との関係についてである。私はボディビルディングを”Third Culture”と呼びたい。つまり、人文科学、自然科学と並んで体の文化(科学)であるからだ」という内容の挨拶があった。
医学セミナーのすべてを紹介すると長くなるので、ここでは、そのうちの2~3の項目と、それに対する若干の説明に留めよう。
体重と成績との関係については、重量拳とレスリングの例をあげて、並みはずれた体重は、スポーツにおいて必ずしも有利ではないと報告している。ただし、ジャボチンスキーとアレクセイエフ(スーパーヘビー級オリンピク重量拳チャンピオン)の2人は例外であると述べているのはおもしろい。
スライドはその実例として、第25回世界選手権(1971年、ペルー)での各クラスの体重当り(kg)の拳上重量を比較して示した。それによると、ミドル級以上の相対力は、より軽い級の成績より劣っている。バンタム級ジャーク2.37~2.58kg、スナッチ1.75~1.92kgに対し、ヘビー級ジャーク1.74~1.99kg、スナッチ1.39~1.60kgであった。そして、その理由の1つは、軽い級の選手は脂肪が少ないからだとしている。
レスリングでは、1972年ミュンヘンオリンピックでのスーパーヘビー級、クリス・テーラー(アメリカ、440ポンド)とウイルフリード・デートリッヒ(ドイツ、200ポンド以下)との試合のスライドが示された。デートリッヒがテーラーを投げ、押え込んでいる写真は、2人の大きさの著明な差といい、参加者の笑いを誘った。
また、平均体重156ポンド(脂肪体質)と125ポンド(脂肪の少ない体質)のアメリカの13歳の男子生徒、各々10名の各テスト種目での比較成績が示された。種目は、シット・アップ、プッシュ・アップ、ソフトボール投げ、50ヤード、600ヤード競走、そしてスタンディング・ブロード・ジャンプ等であるが、いずれの記録も125ポンド・グループの方が156ポンド・グループより、はるかに勝れていた。
記録に関する講演の他にも、基礎的な話として、例えばパワー・トレーニングによる筋肉の肥大は個々の筋線維のサイズの増大による。毛細血管網密度の増加は持久的トレーニングにより生ずる、というような講演もあった。その他、遺伝的な能力とトレーニングによる適応反応、栄養、感染症の時代的変遷等について、それぞれその道の専門家により話された。
講演の内容は盛り沢山であり、ビルダーにとって有益な話が多かった。私も基礎医学者の端しくれではあるが、私の専門の予防医学とはかけ離れていたのと、英語のヒヤリングの乏しさ、それに長旅の疲れが重なって、しばしば居ねむりがでたりして、隣席で一生懸命に学ぼうとしていた磯村副会長に不十分な説明をして失礼をしてしまった。(この項、後藤紀久担当)

本場、アメリカのジム見学

こうして、アカプルコでの全日程を終了し、”アディオスアミーゴ”と言い合いながら、ショーを交えて和やかに行われたサヨナラ晩餐会はとても楽しいものだった。
帰国の途中、ロスアンゼルスで、勉強のため、本場アメリカのジムを見学することにした。空港にはビル・パール氏の若くて美しいと奥さんが迎えに来てくれ、彼女の運転する車で、ひとまずハリウッドのホテルに案内してもらった。
ビル・パール氏は、ユニバース・コンテストで役員として何日間も家を留守にしていたので、その間の残務整理に追われて大忙しの様子だった。そこで彼の弟子のジム・モーリス氏を紹介してもらって、ビル・パールとは別れた。
モーリス氏のジムは、広くて、その上とても綺麗だった。まず彼は、谷口臼井両選手の上半身を裸にして、体の長所・短所を指摘してから、自ら各部分のトレーニング方法をやって見せてくれた。
興味深かったのは、三角筋のトレーニング法であった。「三角筋は3つの部分(前部・側部・後部)からなっているのだから、各部分を別々に鍛えるのが好ましい。前部を鍛えたいと思うときは、他の部分は休息させることが望ましい」と彼はいう。両選手は、すぐにそれを試み納得したようだった。
次に訪問したのは、サンタモニカのゴールド・ジムである。これまでに沢山の一流ビルダーを送り出しており、日本でもよくその名を知られている憧れのジムである。さすがに世界に名高いジムだけあって、この日もロビー・ロビンソン、ケン・ウォーラー、ダニー・パディラといった、そうそうたるビルダーが思い思いにトレーニングに励んでいた。
ウェスト・ハリウッドにあるグレート・アースに行くと、プロテイン、各種ビタミン剤、レシチン、アルファルファ、カルシウム、鉄分等の健康食品が、日本の薬局の5倍くらいもあるスペースに所狭しと並べられている。こんな光景は日本ではとても想像がつかない。これも、アメリカ人の健康に対する関心度が高いためだといえよう。
まだまだ書きたいことは山ほどあるが、いずれまた何かの機会にゆずることにします。今回のユニバース・コンテスト、ならびにアメリカのジム見学は、私にとって大変に勉強になったことは確かです。
なお、「IFBBの審査方法について」と「医学セミナーについて」の項は後藤紀久氏、他の部分は磯村により分担して記述したことをつけ加えておきます。
[ジム・モーリス氏のジムの前で。左から磯村副会長、谷口選手、ジム・モーリス氏、松山事務総長、臼井選手。]

[ジム・モーリス氏のジムの前で。左から磯村副会長、谷口選手、ジム・モーリス氏、松山事務総長、臼井選手。]

月刊ボディビルディング1979年2月号

Recommend