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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
さわやかな青春<その1>

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月刊ボディビルディング1979年2月号
掲載日:2018.10.08
~川股宏~

◇逆境は成功へのパスポート◇

松下電器産業の創設者、松下幸之助氏についてのエピソードにこんな話がある。
松下氏の成功の秘密はどこにあるかとの質問に対して、氏は次のように答えたという。
「運ですよ」とポツンと答えたあとつけ加えて「それに、子供の頃なにひとつ恵まれた環境になかったということでしょうね」と。
松下氏は、小学校4年中退の学歴でありながら、そのハンデをものともせず、世界の松下電器を創設したことは誰もが知るところである。ところが、もし、氏が大学卒であったなら、あるいは松下電器はこの世に存在しなかったかも知れない。
私はここで、松下幸之助氏のドキュメントを書くつもりはない。ただ、逆境に対して、前向きな積極的態度でこれを打ち破るか、消極的な、あきらめの心でこれに挫けるかによって、人生は両極端に分れるということに言いたいのである。同じ逆境を変えるにしても、心の作用で変えるのを”運“とでも呼んだらいいのだろうか。
前置きが長くなったが、私はここに逆境にもめげず天性の明るさ、前向きで積極的な考えと行動、そしてさわやかな青春を感じさせる1人の青年を描きたい。彼はもちろん、松下氏のような成功者でもなく、地位も金もない。それは当然、功成り名をなした大実業家と一青年の違いだ。しかし、差こそあれ、境遇、心の持ち方に一脈通じるものが感じられるのである。

◇5歳の坊やが人命救助◇

東京の葛飾といえば”帝釈天“や映画”寅さんシリーズ“で有名になったところである。土地柄、人情味のある下町である。また、地盤が低いせいかいたるところに小川やドブがある。
坊やの遊び相手は、2歳年上の兄ちゃんや近所の子供たち。毎日、近くの小川でメダカを取ったり、ザリガニを取ったり、ごく普通の子供だった。
昭和30年、この坊やが5才のときの出来事を、お母さんは話してくれた。
「水遊びが好きなものですから、その日も近くの川に1人で遊びに行ったんですよ。ところが、近所のヨチヨチ歩きの坊やが、親がちょっと目を離したすきに1人で外に出て川に落ちてしまったんです。
それを見たうちの子が、たった5才なのに、赤ちゃんをだき上げて助けたばかりか、親のところまでヨイショ、ヨイショと連れて行ったんです。
びっくりしたり、喜んだり、その親ごさんは、私たちにお礼に来たその足で、警察に人命救助で表彰してやって欲しいと申し出たんです。そしたら、警察の方や区役所の方が状況を調べに来るやら、近所の評判になるやら、そりゃあもう大変でした。
自分の子供をほめる訳じゃございませんが、小さいときからこんなんですから、今まで親に一度だって心配をかけたことがございません。それに、5才で子供を助けるくらいだから、小さいときから力は強かったんでしょうね」

◇親思いの明るい子◇

こんなことがあったその年の秋、一家は葛飾から”練馬だいこん“で有名な練馬区関町に引越した。お父さんは印刷の組込みの技術者であったが、コツコツ働き蜂のように働いても一家はなかなか裕福という訳にはいかない。お母さんは、幸い実弟が目白で仕立屋さんをやっていたので、仕立の仕事を分けてもらい、夜遅くまで手内職をやっていた。
今は小学校になった坊やの目からは「お父さんやお母さんはあんなに一生懸命働いている。僕も何か少しでも手伝いをしなくちゃあ」と明るく快活な精神で受けとめた。そして、出来上がった仕立物を目白の叔父さんの家まで持っていく役を引き受けた。
朝早く起きて学校に行く前にも、夜遅く届ける時にも、いつも明るく「行って来まーす」と元気に家を出る。小学校3年当時、電車で往復1時間近くの間を何往復したことか。
余談であるが、今の日本の家庭は子供を甘やかせすぎている。ハイおみやげとか、子供が何か欲しいといえば、ハイ坊やと高価な物をすぐ与える。勤めはじめたばかりで、月給10万円以下の新米サラリーマンや、学生身分の馬鹿息子が何百万円もするスポーツカーに乗っている。「お父さん、僕、医者になりたいよ」と言えば、莫大な入学金で医者の身分まで買ってやれる豊かなご時世だ。
ところが、同じ先進国のアメリカでは、まず子供に「サンキュー」という感謝の言葉と、「プリーズ」という思いやりの言葉を最初に教えるという。
話を元に戻そう。アメリカの教育方針をマネしたわけではないが、この少年の家庭では、まったく自然に子供たちに「ありがとう」「どうぞ」という感謝と思いやりの気持を習慣づけたといってよい。
中学生になった頃からは、何か欲しいものがあれば、少年はまずアルバイトをしてお金をためてそれを買った。釣りが好きだったことから、少年のアルバイトは主に近所の”釣堀り“の手伝いだった。
「よその子が、良い物を買ってもらったからといって、決して欲しがったりしませんし、それに、一度だって、卑屈に物事を考えたりすることはありませんでした。この子は小さいときから、人をうらやんだりする性格は持ってないんです……」と母は語る。
と、ここまで読んだ読者は、どんな印象をお持ちだろうか。「美談づくめに二宮金次郎の再来か!」と思うに違いない。
だが、ちょっと違う。この少年、第一に勉強はあまり好きではない。勉強より外で走ったり、スモウをとったり泳いだりといった方が好きだった。両親も、いまはやりの教育ママのように「勉強しなさいッ!」なんてことは決していわなかった。勉強好きの兄の成績表と比べるとだいぶ違っていたという。
だから、今ではスポーツ万能選手といってよい彼の素地は、このころ養われ、培われたといってもいい。
こんな、貧しいながらも、楽しい明るい家庭に1つの事件が起きた。
それまで、まじめ一方で、頑健そのものだった父が、ちょうど厄年の42歳になったとき、突然、鼻から大量の血がふき出した。顔中血だらけ、それが何日も続いた。多分、高血圧からくる病気だったのであろう。
今まで病気ひとつしたことのない人だけに、本人は肉体的にも精神的にも打ちひしがれてしまい、当分の間、働ける体ではなくなってしまった。少年が中学3年生、高校進学に胸をふくらませていた時のことである。
少年には2歳年上の兄と、弟が1人いた。兄は勉強もよく出来、選ばれて石川島播磨重工の附属養成学校に通っており、少年も両親も進学は当然と思っていたが、この状況では、進学を断念するよりいたし方ない。
このことで一番心を痛めたのは両親であった。現在のように高校進学率が94%という高率ではないにしても、経済の繁栄と共に、すでにかなりの進学率に達していた。可愛いい我が子を、中学卒で終らせることは、子供もふびん、親としても肩身が狭かった。
ところが、この少年、親の心、子知らずとはよくいったもの、進学を断念することをなんとも思っていないばかりか、就職すれば嫌いな勉強をしないですむし、それに、少しでも親を助けることが出来るとばかり、意気揚々としていたのだ。
この姿を見て、両親も胸のつかえがスーッと楽になった。そして少年は、「日本電気」に就職して会社への第一歩を踏み出した。就職といっても、まだ中学を出たての15歳の少年。すぐ仕事をするわけではない。まず、しっかりと基礎的な技術と教養を身につけるために3年間、訓練所へ入れられる。
あまり勉強が好きではなかった少年にとって、やっと勉強から開放されたと思ったら、またこの訓練所で3年間みっちりしぼられるハメになった。当時、少年の心を占めていたのは、巨体の激突するプロレスであり、劇画のスーパーマンといった、ごく普通の少年と全く変わるところはなかった。ただみんなが親の保護のもとに、ぬくぬくと生活しているのに比べると、いくら親を助ける喜びがあるとはいえ、少年にとってはつらい日々だった。ー続ー
月刊ボディビルディング1979年2月号

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