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☆ボディビルと私☆
ボディビルと共に歩んだ二十年 1976年6月号

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月刊ボディビルディング1976年6月号
掲載日:2018.07.05
パワーリフティング全日本フェザー級日本記録保持者
富永義信(税理士)

◇ボディビル――その動機

 子供時代の私は体が弱くて、ずいぶん親に心配をかけたものだ。勉強も嫌いだったが、とくに体育が一番苦手だった。

 そんな弱々しかった私は、長崎に原爆が投下されたとき、父の故郷の佐賀県嬉野町に疎開し、そこの小学校に転校した。嬉野という町は長崎からするとうんと田舎だったので、町から来た転校生ということで、私はよくみんなにいじめられた。私と友達になろうとするよりも、いじめ抜いてやろうという悪童が多かった。そんなわけで学校が終って家に帰るときなど、みんなに見つからないように1人で遠回りして逃げるようにして帰った。もしも力が人一倍強かったら、と子供ながらに毎日毎日思ったものである。

 昭和31年春、私は九州の長崎を後に日大に入学した。依頼心が強く、引っ込み思案の私には大都会東京での生活は目まぐるしく、また、ただ一人の下宿生活はやるせないものだった。そんなとき、さびしさをまぎらわせ、心のよりどころを求めて始めたのがボディビルだったのである。

 子供のときから私の潜在意識の中には、いつも強いもの,逞しいものへのあこがれがあり、それがたまたま知り合いもほとんどない東京に、ぽつんと出てきて、身内のない孤独の自分を救ってくれるものは自分以外にはないんだと悟ったとき、頭の中に浮んだのがボディビルであり、それから今日まで20年間にわたりボディビルなしでは考えられない私の人生が続いている。

 大雪の日であろうが、うだるような暑い日であろうが、嵐の日であろうが私はジムに通ってボディビルを練習するのが毎日の日課となっている。

 当時はまだボディビル・ジムもほとんどなく、トレーニングに関する書籍類もあまりなかった。とりあえずスポーツ店に行ってエキスパンダーを買ってきて、毎日下宿で自己流の練習を開始した。

 大学に入学して間もなく鉄棒の試験があった。力のことに関しては以前から関心の深かった私は、全国から集まっている大学生たちが果たしてどのくらいできるものかという興味で胸がおどった。エキスパンダーの効果も多少あってか私は最高点の100点だった。

 そのとき、筋骨隆々とした逞しい体格のI君を知った。I君はボディビルでその素晴らしい筋肉美と力を得たのだという。子供の頃からあこがれていた強いもの、逞しいものの現実をそこに見出したのだ。早速、I君にボディビルの手ほどきを頼んだのはいうまでもない。
【昭和33年、ボディビル開始2年後】

【昭和33年、ボディビル開始2年後】

◇尊い友情

 まずボディビルの基本運動から指導してもらったが、エキスパンダーだけではどうにもならない。早速、鉄亜鈴2個を購入し、I君の作ってくれたスケジュールにそって正確に、そして忠実に毎日毎日練習した。こうして、わびしかった東京での学生生活にとって鉄亜鈴2個とリンゴ箱1個、それにエキスパンダーが私の無二の親友となってくれたのである。

 私は学校のすぐ近くに下宿していたので、沢山の友がよく遊びに来た。I君を友に得たことで、彼の友達が皆私と親しくなった。遠い長崎から上京して、行く所のない私に彼らはとても親切であった。君はこれから体を鍛えて筋肉をつけなければならないといっては、ただ1個しかない卵を私にくれた友。アルバイトで金が入ったからといって肉を山ほどご馳走してくれた友。

 洗濯代を食費に廻せといって自分の家で洗濯してきてくれたクリーニング屋さんの息子。私のまわりには温い友情がみなぎっていた。

 私はこのような友に支えられ励まされて、つらいとか苦しいとか一切口にせず、一心に練習に励んだ。半年ほどするとようやく効果が目に見えて出てきた。

 東京での初めての寒い冬が過ぎ去った。南国長崎と比較しての寒さばかりでなく、身内のないただ1人の下宿はさぞかし味気ないものになっていただだろうが、温い友情と一心に打ち込めるボディビルがあったのは大きな収穫であった。
【昭和35年8月、ボディビル開始4年後の私】

【昭和35年8月、ボディビル開始4年後の私】

◇ボディビル道場に入門

 東京での大学生活にも馴れ、心浮き立つ大学2年の春を迎えた。そして、I君のすすめで世田谷ボディビル・センターに通うことにした。当時「ボディビル」という雑誌が出ていたが、彼はこの雑誌に体験談などを投稿したりして、ボディビルの知識や経験はすでに相当のものだった。

 本格的にボディビルと取組みはじめた私は、1日2時間の練習がとてもつらかった。しかし、立派な体になりたい一心で、よくそのつらさに耐えた。私はどんな時でも、学校か下宿か道場に必ずいた。

 入門して6ヵ月が経過し、秋がやってきた。ある日、友人に撮ってもらった自分の写真を見て、そのあまりの変わりように、われながら驚いた。胸がぶ厚く大胸筋が見事に発達し、腕が太く逞しく写っている写真であった。

 私はすっかり嬉しくなり、鏡に写った自分の体を見て、改めて努力の尊さを知った。たゆまない練習の積み重ねによって、肉体はこんなにまで変えられるのだ。肉体ばかりではなく、努力によって精神だってきっと強く大きくなれるはずだ。うんと勉強しよう。そして肉体と心を磨くのだ。

 すっかり調子づいた私は、このときはっきりと将来の方針が決った。税理士になろう。自分の努力でどんどん開拓の出来るやり甲斐のある職業ではないか。その上、自由業故に、いつまでもボディビルを続けることができる。

 一度決めたことなら、男ならやってみよう。私の決心は固かった。肉体と精神を共に大きく逞しく築きあげることそれは男として素晴らしいことではないか。その夜、私は興奮していつまでも寝つかれなかった。

 それからの私は、まるで人が変わったかのようによく勉強するようになった。専門外の文学書もよく読んだ。

 当時、日大教養学部の附近はまだたんぼが多く、私はよくあぜ道を散歩したものだった。夕日の落ちるこの田園風景は、下宿生活の私にとって哀愁をおびる東京に感じられた。もう秋風も冷かった。しかし、私の心は妙に晴やかであった。それは大きな目的が私にあったからである。夢のある人生の素晴らしさを、ボディビルが私に教えてくれた。

◇つらい練習に耐えた固い決意

 大学3年からは専門科目に入るために商学部のある神田三崎町の校舎に移った。ボディビルと勉強を両立させるために、下宿も学校の近くに変えた。ジムも便利な有楽町の産経ボディビル・クラブに移った。

 第1次ボディビル・ブームといわれたこの頃は各地にジムが生まれた。産経ボディビル・クラブも新しく出来たジムだったが、入会者も多く、結構にぎわっていた。当時のビルダーには現在のようなスポーツマンとしてのマナーが見られなかった。

 私はたいてい学校の帰りにジムに寄って練習していたが、夕方5時を過ぎると、筋肉隆々としたひと目でビルダーとわかる会員がポツポツ現われる。ガムをかみながらニヤけてジムに入ってきては、しばし自分の体に見とれ満足げに練習着に着替える者も1人や2人ではなかった。

 こんな光景を毎日見ていると、何かボディビルをやっていくのに不安が出てきた。ホームシックにもなった。元の下宿が懐しく、もう一度世田谷の下宿に戻りたいと思ったりした。本格的にトレーニングに励むのも怠りがちとなり、適当にジムに通い、ただ健康管理程度にやっていこうと幾度も思ったりした。しかしその都度、嫌になるほど堅物のもう1人の自分が「お前は半年前のあの固い決心を忘れたのか、それでも男なのか」と怒鳴っては責めるのだ。

 ともすれば挫折しそうになる自分であったが、半年前のあの決意を思い起こしては歯をくいしばって頑張った。ボディビルの道場には誰も鞭打ってくれる者はいない。強くなるには自分の意志以外には何者もない。バーベルが重くてもう投げ棄ててしまいたい時、もう1回だ、もう1回だと思って耐えた。

 私にボディビルを最初にコーチしてくれた親切なI君とは、学部も違い。またジムも変わったのでほとんど会うことがなくなった。その頃の私には人とゆっくり話す時間もなかった。大学に入って2年間、何かにつけ親切にしてくれた友の顔を思い浮べながら、泣き言を云わず、ただひたすらに孤独の練習を続けた。

 私のあまりにも激しい練習を見て。体をこわすから程々にと言われたこともよくあった。しかし私は勝負をしたかった。私の体が参るか、打ち勝つか闘ってみたかった。こんなハード・トレーニングを続ける私を見て、会員の中にはだんだん私を理解してくれる者も出てきた。最初の頃、マナーの悪いと思った会員の何人かとも一緒に練習するようになった。親しくなってみると、彼らも外見ほど恐くもなく、なかなか優しい面も多いことに気づいた。とにかく当時の私は自分でも驚くほどメチャクチャに練習したものである。
【昭和35年6月写す】

【昭和35年6月写す】

◇資格獲得のための努力

 ボディビルの練習ばかりでなく、勉強の方にも同じように打ち込んだ。大学にいるうちに取れる資格は何んでも取ろうと欲張った。そしてまず教職課程を選考することにした。普通、2年間で単位を取るところを、私は半分の1年間で全部単位を取ろうと思った。そのため、週2日は夜学生に混って単位を取るための講義を受けた。

 ボディビルによってだいぶ筋力のついてきた私は、大学3年の秋だったが急に重量挙げをやりたくなった。当時日大には重量挙げ部がなく、やむなく中央大学の重量挙げ部で練習させてもらうことにした。

 勉強とスポーツで体は疲れきって。風呂に入ると予習も復習もできなくなりそうだった。下宿生活は全くの放任故に自分の気が進まなければ、怠けてもよいし、誰からも怒られない。それはボディビルの練習によく似ている。

 要は自分の意志力のみを頼りにしなければならない。トイレに行って血尿を見ることもあった。スポーツとの両立があまりにも辛かったので何度も止めようかと思ったが、何とか頑張り抜いた。

 しかし、どうしても不可能なことにぶつかった。それは、中央大学での重量挙げの練習は午前4時までには集合しなければならない。そうすると教職課程の講義が受けられなくなる。その科目を翌年に廻したとしても、やはり翌年も同じ講義なら単位は取れない。私は何日も考えた末に重量挙げを断念することにした。

 私は大学2年の秋の決意を忘れてはいない。それは勉学とスポーツを両立させることである。スポーツだけでは目的達成にはならないのだ。もう一度ボディビルに戻ろう。私が重量挙げを始めたのは、力を競い日本一の力持ちになろうと思ったからだ。しかし、はかなくも私の夢は消え去った。ボディビルなら夜でも練習できる。ここではっきりと目標を決めた。それはボディコンテストに入賞することだった。

 教職課程の単位は予定どおり1年間で全部取れた。そして次は税理士の資格獲得に本腰を入れた。家庭教師、珠算塾、会計事務所のアルバイト等をやって、両親からの送金の不足を補った。しかし大学4年間では満足のいく勉強が得られず、大学院に進みたかった。経済的にも地方からだと相当の負担がかかる。私は自分なりに勉強して、とにかく大学院に合格してから長崎に帰ろうと考えた。両親も、私が大学院に合格してしまったら進学に賛成してくれるに違いない。そして大学卒業の年の新年はただ一人下宿で迎えた。

◇執念でカゼも吹っとぶ

 エンゲル系数80パーセント以上の私の下宿生活は何の潤いもなかった。ただ目標が、苦境の自分を救ってくれていた。大学4年の寒寒とした冬がやってきた。クリスマスもお正月も私には無縁のものだった。ただ一人の下宿でしよんぼりと聞く除夜の鐘、言いようのない空虚な心境だった。

 私は新たな気持で1月3日からトレーニングを開始した。どんなに辛くとも自分で選んだ道なのだ。目的達成まで頑張り抜く決意は一層強く固まった。お正月を下宿で過ごしている事を知った友が、私の年賀状が着くなり直ぐに来てくれ、うちに来て正月を過すように誘ってくれた。私にとってこういう友がいてくれた事はどんなに心強かったか知れない。

 大学3年の秋に下宿とボディビル・クラブを移ったので、下宿から私の通っていた蒲田ボディビル・クラブまでは歩いて5分位だった。スランプの時、途中の橋に立ち止まり、何度かトレパンやシャツを川に投げ棄てたいと思った。バーベルを見たくもない日が何度もあった。しかし私はひたむきの努力を続けた。そういう中で困る事は病気して寝込んだ時である。大きな目標に向う気力だけが支え故に、張り詰めた神経が緩む事が恐かった。

 ところが、その心配していた日がついに来た。大学院受験を1週間後に控えた私は夕方から熱が出だして遂に風邪を引いてしまったのである。一晩寝れば良くなると思ったものの、夜中はトイレに行くのも苦痛だった。苦しい一夜を過ごした。受験まであと1週間しかない。大事をとってここ2~3日寝ようかと思ったが、最後の追い込みの2~3日はどんなに体の調子が悪くとも寝る訳にはいかない。無鉄砲な冒険かも知れないが、思い切りボディビルをやって今日1日で風邪を直そうと考えた。

 無理してそれが後にたたれば大変である。しかし私はあえて猛トレーニングに励んだ。厚着しての1時間半のトレーニングで体中から汗が吹き出た。

 ボディビルは私を救ってくれるためのものなのだろうか。あんなにひどかった風邪がハード・トレーニングで治ったのである。朝起きてみると頭が軽くとても爽やかだった。

◇念願の入賞を果す

 大学の卒業式も、大学院の入学試験の日も晴天だった。太陽は有難い。暗い心はいっペんに晴れてしまう。努力の結晶と、そして幸運に恵まれ、私は日大大学院商学研究科に入る事ができた。そして私はボディコンテストで入賞する事と、税理士になる事で頭がいっぱいだった。

 昭和35年の夏に福岡の百道海水浴場でボディコンテストがある事を知った私は、毎日トレーニングに励んだ。重量挙げのボディコンテストと大阪のボディコンテストで入賞できなかった私はすっかり自信を失なった事は事実である。自分なりに満足のいく練習を積みながら入賞というものに相手にされない淋しさはいいようがなかった。

 昭和35年8月14日の日曜日の朝、私は博多に向った。長崎を出る時どんよりと曇っていた空は、無惨にも佐賀をとおる時には大雨になった。せっかくはるばる来たのに、もしコンテストが中止されるのではないか思うと切ないものだった。ところが不思議な事に博多駅に着くと、どしゃ降りの雨が小雨に変っていた。そして昼から雨も止み、予定どおりにコンテストが行われる事になった。

 出場選手は思い思いにポーズをとった。表彰台に飾られたカップが異様な光を放ち、眩しかった。このうちどれが自分の手に抱かれるであろうか。しかし入賞を夢みる事は止めよう。そうでなければ入賞できなかった時の自分が惨めで哀れ過ぎる。審査員の先生方の集計を待つ心境が、過去二度とも入賞できなかった私にはとても嫌だった。

 海水浴場にステージが置かれ、午後からは天気も回復したので見物人も段々多くなってきた。結果が出たらしい。選手のどの顔も皆緊張に包まれ。固い重苦しい雰囲気である。私はゼッケン1番で出場した。しばらくの後、アナウンサーによって発表が行われた。「大変長らくお待たせいたしました。只今より上位5名の入賞者を発表致します……」私はじっと下を見ていた。僅か数秒、この一瞬、本当に何とも言えない気持である。
「……ゼッケン1番、……」

 私はハッとした。後から後から喜びが湧いてきた。こんなに嬉しい事があるだろうか。入賞を信じていいんだろうか。私は遠く海を眺めていた。とても幸せだった。私の心は踊った。打ち寄せる波まで、まるで踊っているように私には見えた。第4位に入賞し、大きなカップを手渡された。重いカップであった。体が弱く、体力のないためによくいじめられた子供の頃のこと、大学に入学して疲れた体にムチ打って続けたトレーニングなどが、走馬灯のように私の脳裡をかすめた。現在の福岡ボディビル協会の太田理事長も笑顔で私に祝福を送ってくれた。この時の感激を、今でも私は忘れる事ができない。そして東京・長崎間は何度も往復しているが、何時も博多駅をとおる時、昭和35年の夏のあの日のことを必ず私は思い出すのである。(つづく)
月刊ボディビルディング1976年6月号

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