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13年ジャパンオープン女子優勝者 石澤静江

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.08.26
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こくざわ・しずえ/1961年11月20日生まれ/血液型:B型/出身地:栃木県/身長151cm、体重48㎏(オン)・54㎏(オフ)/職業:会社員(家業)/トレーニング歴:11年/ボディビル歴10年/ゴールドジムスパレア宇都宮所属
 2011年はじめのオフシーズンに私は、「力はあるのに、コンテストでは思うように結果が出ない」のが当時、悩みという、栃木県の石澤静江選手にインタビューを行った。印象は、仕事と家事・育児、トレーニングをバリバリこなし、10年近くボディビルに打ち込むバイタリティあふれる女性、というイメージだった。

 何ごとにも逃げずに立ち向かい、かつありのままを優しい心で包んでいる。「トレーニングは、すでに自分の生活の中でスタイルが確立している」と言い切る姿は自立した女性の雰囲気だったが、それでも芯の強さをなかなか表に出さない、奥ゆかしさを感じたことを覚えている。

 そのとき「目標の一つはジャパンオープン優勝と日本クラス別優勝」とはっきりと言っていた。

 あれから2年のシーズンを経て、2013年7月の日本クラス別(49㎏級)と8月のジャパンオープンに初優勝し、韓国遠征も決まった石澤選手に、ふたたび話を聞くことになった。「やっとです……」と言う。

 8月の終わりの暑い日の夕刻、シーズンまっさかりの石澤選手に会うため、さいたまスーパーアリーナまで出かけた。夕日がきれいな日だった。

競技者としての一大転機

 石澤選手はここ1〜2年、ここさいたまスーパーアリーナのゴールドジムに、住まいのある栃木市から月に2回は通っている。本誌連載でも人気の〝筋肥大専門職人〞本野卓士氏のパーソナルトレーニングを受けるためである。

 石澤選手は言う。
「本野さんには2012年に入って間もなく見てもらうようになりました。当時私は、低迷期といいますか、何かを変えないとそれ以上の順位には行けないと強く感じていて、誰かに違った視点で細かなところから綿密なアドバイスをいただきたいと切望しているときでした」

 折しも、なかなか治らない腰のヘルニアに苦しんでいる時期と重なっていた。限界を感じ、年齢的なことも考えて、正直、ボディビルをやめようかとまで思っていたと明かす。それでも長年通っているクリニックの医師は悩む石澤選手に「やめたほうがいい」とは言わなかった。「趣味は生きがいになりますからね」とむしろなんとか続ける方向で励ましたという。

 日常生活においても、最大の理解者である夫、そして家族に支えられて、もう少し頑張ってみようかと一歩を踏み出した日のことであった。

 石澤選手は、2011年のジャパンオープン優勝の山野内里子選手のすばらしい体に憧れていたこともあり、その指導をしている本野氏に直接電話をかけたという。

 本野氏は電話口で「石澤選手の活躍はよく見ていますよ。今年、2位だったんだから、来年は優勝めざして頑張ったらどうですか。故障もきっと克服できますよ」ときっぱりと言ったそうだ。

 とくに本野氏自身が故障から立ち直った経験があるというエピソードを聞いた石澤選手は心強く思った。「話し合いながらすすめていきましょう」と本野氏は頼もしく言った。石澤選手は、「(体の)正面は自信があるのですがバックに自信がありません。また、肩をどうにかしたいのです」と悩みを打ち明けた。

 バランスはいいが、どこかに突出した強みがほしいとかねてから思っていた石澤選手だ。本野氏は全体を強化するのと同時に、肩と背中の彫りを深くするメニューを作ってくれた。また、それまでの46㎏級から49㎏級にあげて戦うことを提案した。「2年後くらいを目指して頑張ろう」と本野氏は言った。自分が弱点と感じているところを日々、意識して強化に取り組むことで、意識が生まれ、変化につながっていくという。本野氏との出会いで転機を得た石澤選手は月に2回のさいたまアリーナでの指導の時間を大切にしながら、諦めることなく、しかし自分のペースを忘れないで、さらに磨きをかけていったのである。
ボディビルダーとしてプラトーにぶち当たっていた石澤選手は、何かを変えるために2012年から本野氏に指導を仰ぐようになった

ボディビルダーとしてプラトーにぶち当たっていた石澤選手は、何かを変えるために2012年から本野氏に指導を仰ぐようになった

選択と集中〜ボディビルに賭けた〜

 ところで、石澤選手が駆け出し時代から通い詰めていた宇都宮市のマツモトジムから、24時間営業の同じく宇都宮のゴールドジムにトレーニング拠点を移したのも、サイドワークとして楽しみながら続けていたエアロビクスインストラクターの仕事を辞めたのも、ボディビルコンテストで上位を目指すためのトレーニングにさらに打ち込む環境を求めてのことだった。

 忙しい石澤選手の生活時間を理解して、マツモトジムの関係者も快く送り出してくれたという。

 また、長く続けたエアロビクスインストラクターの仕事は、今でも代役的に担当することはあるが腰を酷使するのを避けるためにと、2013年4月に一区切りをつけている。

 並々ならぬボディビルへの想いがそれまでになく募っていた。ゴールドジムでは、トレーニングを時間を気にせずできること、副業をやめて時間的ゆとりができたことで「時間に追われるプレッシャー」から幾分解放されたという。

 そんな石澤選手のふだんの生活は、朝8時から夕方5時まで仕事をし、家事や場合によって介護もこなし、トレーニングを始めるのは夜9時からになる。ジムに着き、入念にストレッチをした後、90分ほどみっちりとトレーニングを行う。クールダウンをして終了。トレーニングルーティンは、8分割(4×2)を基本としている。毎日、ほとんど夜中の12時過ぎまでジムにいるという。好きなランニングはトレーニングというより気分転換的なものになっている。

 石澤選手からは、夜のトレーニング時間は、仕事、家事、介護すべてを終えてからの自分だけの時間なので何を気にすることもなく、トレーニングに打ち込める様子が伝わってきた。「ともに仕事をしている夫は、たいてい10時頃就寝しますが、毎日、頑張ってこいと送り出してくれますよ。私が疲れているように見えるときには『今日は休んだら』とすすめてくれたり、私の気分が乗ってこない日には逆に『行ってこい』とあえて背中を押すようにしてくれたり。私をよく知りながら場に応じた対応をして応援してくれる人は、夫の他にないですね。ありがたい存在です」という。

 また、休みの日には一緒に映画を見に出かけるなど、子育てを終えた夫婦として一つの理想の形ができているようだった。クリニックの医師、本野氏、夫の三人がそれぞれの場所で石澤選手の苦境を助けていたことがわかる。

失敗を成功への翼にかえて

 本野氏の指導を受けて臨んだ初めてのシーズン2012年は、ジャパンオープンで4位と、昨年の2位から順位を下げてしまう。優勝は高原佐知子選手で、2位に湯澤寿枝選手、3位に久野礼子選手が入った。2011年にはいずれも勝っていたライバルたちに敗れたのはショックだった。「悔しいより何より、なさけない気持ちでいっぱいでした」と当時を振り返る。

 ライバルに負けたことより、万全の状態でコンテストに臨めなかった自分が歯がゆいのだった。

 腰のヘルニアが完治していなかったこと、それならばと、無理せずこのシーズンを休むという選択もできたが、「なんとかなるのではないか」という思いで出場に踏み切った。それが甘かったのかどうかは、さまざまな見方考え方があるだろうが、シーズンに入っても腰から足にかけて痺れや痛みがときどき出てはクリニックに通い、ときには痛み止めなどの薬も飲みながらだましだましで進んだのだそうだ。「体に爆弾を抱えているようで、思い切ってトレーニングできないし、軽いトレーニングでもびくびくしながらやるという状態でした。何より心に不安がずっとあって集中できませんでした。体も絞れませんでしたね」と石澤選手はいう。腰に故障があるから、もちろん好きなランニングもできなかった。

 2012年のシーズンは前年2位のジャパンオープンで優勝を目指すつもりが、大きな失敗に終わったのである。しかし、失敗は成功の母とはよく言ったものだ。本野氏との二人三脚は翌年も続き、オフシーズン中に腰のヘルニアを完治させ、2013年には不安なく体を使えるところまでもっていくことができた。快進撃が始まる予感がした。

2013年の悲願達成

 2013年のジャパンオープンは、よく絞れた石澤選手の秀でて切れのある動きと、よくセパレートされた筋肉がひときわ目を惹いた。一つひとつのポーズが決まっていて、うまく体と筋肉の美しさを出している。2011年、12年と比べて表情も格段にいい。

 仕上がりのよさはもちろん、全身から健康的な美しさと人生の充実感がなめらかに発光するように表われていた。

 10年の蓄積を踏んだ文句なしの初優勝、だったのだが、本人は「まだまだだと思います。100%絞れてはいなかった」などと言う。石澤選手という人は、控えめな美徳を備えているのは確かだが、「決して現状に満足しない人」ともいえるのかもしれない。そして、それがいつも彼女の伸びしろを際限なく、つくっていく。無限の可能性はきっと、そのはじまりは精神的なものからくるのだ。

 シーズン中ということもあってか、彼女の横顔は鋭敏さを増し、精悍ともいえる野性味が加わっていた。

 約1時間のインタビューに続いてDVDのための撮影を行った。石澤選手はコンテスト時と同じように水着に着替え、汗をかきながら本野氏の声掛けで真剣勝負のポージングを行っていた。繰り返すポージング動作で息も上がる。トレーニングをしてきた結果をコンテストで十二分に出すためには、このポージング練習はどの選手にとっても欠かせない。石澤選手も、とくに力を入れているところだという。

 最近では娘さんが「なかなかやめるタイミングをつかめないね」と笑いながら言うそうだ。もちろんエールを込めた物言いで。そして「やめるときはもう一回高いところに立ったときだね」とも。

 そんな娘の思いやりと激励が嬉しい。最近は成人した子どもたちを誘ってジムに行くこともあり、石澤選手の背後には、公私ともに充実した生活が展開していることがわかる。「こんなにボディビルにのめりこむとは思わなかった」という彼女の真剣勝負の楽しみは、今や大きな翼をもち個人的趣味を超えて広がってきている。「アジアで活躍できる選手になる」という石澤選手の言葉はいま、現実のものとしてひときわ希望の光を帯びて響く。 感謝と敬意を感じ目を伏せずにはいられなかった。
腰のヘルニアを完治させ、十分なトレーニングと調整を行なうことができ、今年は前年の借りを返すことができた

腰のヘルニアを完治させ、十分なトレーニングと調整を行なうことができ、今年は前年の借りを返すことができた

トレーニングの結果をコンテストで十二分に発揮するためには、ポージング練習はとても大切だという

トレーニングの結果をコンテストで十二分に発揮するためには、ポージング練習はとても大切だという

インタビューを終えて

 現在、石澤選手を指導している本野卓士氏は「石澤選手は小柄ですが、もともと筋肉が大きいので、ジャイアント・キラーとして大柄な選手にも対抗していける十分な可能性があります」という。

 2011年の最初のインタビュー時、往年の名選手、大垣純子さんとともに、女性ボディビルダーがいかに本質的な価値をもって活躍していくかについて話したことがあります。今、「アジアで活躍できる選手に」という石澤選手は、身をもってそれを示してくれる存在になるかもしれません。少なくとも二回のインタビューとコンテストの彼女の様子からそう感じています。

 言葉にしたことは必ずいつか本当になるのかもしれません。石澤選手なら、たくさんの先達の想いを引き受けて、先駆者としての道を拓いていってくれるような気がします。きっと「まだまだです」とはそういうことなのでしょう。引き続き共感していきたいと思います。

text = Mayuko Sato
Photo = Ben
撮影協力:ゴールドジムさいたまスーパーアリーナ
[ 月刊ボディビルディング 2014年1月号 ]

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