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追悼特集 LARRY SCOTT 初代Mr.オリンピア ラリー・スコットを偲ぶ

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.09.14
記事画像1
text by Sumio Yamaguchi
1938~2014
ラリー・スコット

1938年10月12日生まれ/アイダホ州ブラックフット出身/ユタ州ソルトレイクシティ在住/身長約170cm、体重約93kg(現役時代)/初タイトル:1959年ミスターアイダホ/主なタイトル:1962年IFBBミスターアメリカ、1964年IFBBミスターユニバース、1965、66年ミスターオリンピア/ニックネーム:レジェンド
 2014年度のIFBBプロリーグは今年もアーノルド・クラシックからスタートし、デニス・ウルフの初優勝で盛況のうちに終了した。その1週間後の3月8日、ボディビル界に悲しいニュースが伝わった。初代ミスター・オリンピアのラリー・スコットが、彼のホームタウンであるユタ州ソルトレークシティで死去。享年75歳だった。彼は近年アルツハイマー病を患っていたが、死因はその合併症であったと、ザ・ソルトレーク・トリビューン紙が報道している。

 ミスター・アメリカ、ミスター・ユニバース、そしてミスター・オリンピア。1960年代のボディビル界のスーパースター、〝レジェンド〟と呼ばれたラリー・スコット。彼はミスター・オリンピアであったばかりではない。巨大な上腕二頭筋をつくりあげたプリチャー・カールは〝スコット・カール〟と呼ばれ、彼のトレードマークにもなってきた。アーノルド・シュワルツェネッガーはツイッターで、メッセージを送っている。

「ボディビル界は本日アイドルを亡くしました。我々は〝レジェンド〟ラリー・スコットの死を惜しみます。彼は多くの人々に影響を与えた偉大な男です。彼のご家族に対し、心からお悔やみ申し上げます」

 アーノルドにとってラリー・スコットはボディビルダーの先輩としてばかりではなく、彼の人生に大きな影響を与えた人だったと回想している。

 ラリー・スッコトの訃報はいち早くネット上で広まり、ロサンジェルス・タイムズ紙やニューヨーク・タイムズ紙などの電子版でも報道され、ネットのボディビルサイトでも多くのお悔やみが寄せられている。彼はミスター・オリンピアとしてだけではなく、その人間性でも愛されていた。ボディビル界は2012年に1967~69年にミスター・オリンピアで3連勝したセルジオ・オリバが死去し、昨年はミスター・オリンピアの創始者ジョー・ウィダー氏が死去した。そして今回はラリー・スコットという偉大なオリンピアンを亡くしている。

第一回ミスター・オリンピア

 ボディビル史上初めてミスター・オリンピアが開催されたのは1965年9月18日。場所はニューヨーク市。会場のブルックリン、アカデミー・オブ・ミュージックには超満員の観客が押し寄せていた。これらの観衆は、カリフォルニアから来たブロンドヘアの信じられないような腕の太い伝説のヒーローの登場を今や遅しと待ちわび、会場には割れんばかりの歓声が鳴り響いていた。

 人々が待ち望んでいたのは、ラリー・スコット。そして、これがその日初めて開催されるミスター・オリンピアの始まりであった。当時、ラリー・スコットはすでにミスター・アメリカ、ミスター・ユニバースなどすべてのタイトルを手にしており、まさしくボディビル界のスーパースターだった。第一回のミスター・オリンピアはアル・メイナード、ハロルド・プール、ラリー・スコットの3人の出場者で開催された。

 ラリー・スコットはこのときのことを、1991年の著書『LoadedGuns』で、次のように書いている。

「ステージの暗い所で、静かにカーフレイズを行ない、脚に最後のタッチアップを行なった。

 それは、満員の観客の前に出る寸前だった。そのとき私の頭の中ではこのような会話がよみがえった。
『ラリー、お前はボディビルダーとして成功できないよ。小さすぎる。何かほかのことをやったほうが良いよ』

 それは11年前のことだった。当時は体重55kgのひ弱な男だった。しかし、今は90kgのハードマッスルなフィジークになっている。私の上腕は普通の男の脚よりも太く、肩は大きく丸く外へ飛び出し、ココナッツのようである。私はステージにゆっくり足を進めた。会場からは『ラリー!』『ラリー!』という大きな歓声が沸き上がった。これまで私が出場してきたコンテストの中で、第一回ミスター・オリンピアほど興奮した観客はなかった。それはまるで観客が暴動でも起こすではないかと思われるほど興奮していた。ステージから見ると観客の歓声がウエーブのごとく波立ち、そしてカメラのフラッシュは私をめがけて連写されていた。私はステージから興奮している観客を見ながら、ゆっくりとポージングをとるように自分に言い聞かせ、そして、ステージのスポットライトがとどかない端まで行って、これらの観客達の声援にもこたえられるようにポージングをとり続けた」
1977年IFBBオールジャパンコンテストにてゲストポージングを行うラリー・スコット 写真=徳江正之

1977年IFBBオールジャパンコンテストにてゲストポージングを行うラリー・スコット 写真=徳江正之

第1回ミスターオリンピアに優勝したラリー・スコット(Photo from IFBBPRO.COM)

第1回ミスターオリンピアに優勝したラリー・スコット(Photo from IFBBPRO.COM)

アイダホ生まれの痩せっぽち

 ラリー・ディー・スコットは、1938年10月12日、アイダホ州ブラックフット市で生まれ、ユタ州ソルトレークシティ在住。身長170cm、ボディビルダー当時の体重は93kg(オン)。

 ボディビルダーとしての転機は高校生のころだった。彼はクラスの中でも身体がいちばん小さかった。スコットの父親は身長が183cmあったが、彼は170cmで止まってしまい、体重も50kgそこそこの痩せっぽっちの身体だったため、自分の身体には非常にコンプレックスをもっていた。

 16歳のある日、学校にミスター・アメリカ、ミスター・ユニバースのジョージ・アイファーマンが訪れ、体育館でポージングや力業などを披露した。このときスコットは初めて間近に見たボディビルダー、アイファーマンの巨大な筋肉や、まるで人間とは思えない身体に度肝を抜かれ、「ボディビルダーとは自分とはまったくかけ離れたものである」とショックを受けた。

 しかしその後ボディビル雑誌を見ると、そこには巨大なアイファーマンとは異なり、マスキュラーなボディビルダーの写真が掲載されていた。「これならば自分でもこのような身体になれるのではないか」と思ったスコットはトレーニングをスタートする。バーベルなどはなかったため、古いトラックの車軸を外してバーベルの代わりにした。

 スコットは高校卒業後、地元のYMCAでトレーニングするようになり、徐々に筋肉がついてきた。特に上腕は身体の中でもいちばん良く発達していった。しかし友人から「何のためにトレーニングしているのか」と聞かれ、「ミスター・アメリカになるため」と答えると「ミスター・アメリカなんかにはなれないよ。お前は肩幅が狭い。やめたほうが良い。無駄なことだよ」とまったく相手にされなかった。

ヴィンス・ジロンダとの出会い

 スコットは友人達からのネガティブな言葉を受け止めながらも、いったんジムでバーベルを握りしめれば、すっかり忘れてトレーニングに励んだ。そして1959年スコットが21歳のとき、地元で開催されたミスター・アイダホに初めて出場していきなり優勝した。

 スコットは次にミスター・アメリカになる目標を追うためカリフォルニアに移り、ヴィンス・ジムに入会した。ヴィンス・ジムとはボディビル界の〝グル〟として、ハリウッドセレブのトレーナーとして有名なヴィンス・ジロンダのジムである。このときスコットはミスター・アイダホに優勝したことで、自分のフィジークにやや自信を持っていた。スコットはヴィンス・ジロンダに初めて会ったときの印象をYouTubeのインタビューで次のように語っている。

「初めてヴィンスに会ったとき、『私はラリー・スコットです。ミスター・アイダホの』と挨拶すると、ヴィンスは『それがどうした?』と言いました」

 スコットはヴィンスがなんて無礼で無愛想な男かと、現実が信じられなかった。しかしながらヴィンスはボディビルの知識は豊富で、ユニークなエクササイズや栄養学、そしてサイズを大きくするのみならず、フィジークの美しさということも学んでいる。特にポージングについてはこだわりがあった。スコットはヴィンスから「ポージングをとるときは、ポーズから次のポーズへ移る間のポーズこそが、ポージングを決めるときよりも重要である。ステージではダンスを踊っているときと同じで、ひとつのポーズから次のポーズにどのようにして移るかが、美しいポージングにするためのポイントである」と教えられている。

 このようなアドバイスで、スコットにとってはステージで自信を持ってポージングをとることができたと言っている。スコットはヴィンスのアドバイスを受けながらハードトレーニングに励み、フィジークはどんどん大きくなり、1960年にミスター・カリフォルニア優勝、ボディビルをスタートして7年後、1962年にはついに目標であったミスター・アメリカで優勝。1963年にはミスター・ユニバースにチャレンジしたが、ハロルド・プールに敗れて2位になったが、翌1964年に優勝した。これでボディビル界のすべてのタイトルをとったスコットは、彼のボディビルダーとしてのキャリアを終了したかに思われていた。

ミスター・オリンピア誕生秘話

 IFBBの創立者ジョー・ウィダーは、ラリー・スコットを含め、当時のチャンピオン達が20代でコンテストから引退している状況をみて、彼らがボディビル界に残る手立てがないかを考えていた。ラリー・スコットはインタビューでオリンピア誕生のエピソードを話している。

「私はジョー・ウィダー氏とレストランで会食しながら、ミスター・ユニバースやミスター・ワールドの優勝者のみが出場できる、真のボディビルチャンピオンを決定する新しいコンテストを開催するということについての話をし、どのような名称にするか相談されました。

 そのときにビールを飲んでいたのですが、そのビールは〝オリンピア〟という銘柄でした。そこで、ジョーが『オリンピアだ…〝ミスター・オリンピア〟にしよう』と提案したのです。私は『それはビールの名前ではないか』と言いましたが、ジョーは『オリンピアが良い!』と言って決まりました」

 このようにして、ミスター・オリンピアが誕生したという。第一回目のオリンピアでは資金が不足していたため優勝賞金はなかったが、優勝者には王冠が贈呈され、二回目からは賞金1000ドルが贈られている。ジョー・ウィダーは「これからはボディビルダーも他のスポーツ選手のように賞金を稼いで生活できるようにならなければいけない」と思いをよせていたのだ。
第2回ミスターオリンピアに優勝したラリー・スコットとジョー・ウィダー。当時の優勝賞金は$1000だった

第2回ミスターオリンピアに優勝したラリー・スコットとジョー・ウィダー。当時の優勝賞金は$1000だった

プロコンテストの始まり

 第一回ミスター・オリンピアはポージングが終了し、あとは優勝者の発表となった。司会者がミスター・オリンピアの優勝者は「ラリー…スコット!」と、アナウンスすると、観客はラリー・スコットが優勝したことが当然のように興奮していた。スコット自身は自分の勝利をこれほどまで喜んでくれることは信じがたいものであったという。

 このように1965年にスタートした第一回目のミスター・オリンピアは、伝説のヒーロー、ラリー・スコットが初代ミスター・オリンピアとして優勝、栄光の王冠を手にした。ミスター・オリンピアは大変な盛況で終了し、そのためジョー・ウィダーは今後もオリンピアのコンテストを開催してゆく決心を固めることとなった。

 翌66年もニューヨークで開催。この年はラリー・スコット、ハロルド・プール、チャック・サイプス、そしてセルジオ・オリバが出場した。スコットは2位のハロルド・プールと接戦の末、2度目のミスター・オリンピアになった。この年より優勝者に賞金1000ドルが贈られるようになった。これがプロコンテスト、そしてプロボディビルダーの始まりであった。

 しかしスコットはオリンピア2連勝を機に、コンテストからの引退を表明した。このため、スーパースター、ラリー・スコットの時代は終わりを告げることとなった。

 コンテストから引退したスコットはパーソナルトレーニングの会社を設立して、トレーニングの通信指導のビジネスをスタートし、世界中から多くのクライアントを得て成功している。その後、トレーニング器具やサプリメントの販売も行ない、ユタ州内にいくつかのトレーニングジムをオープンしている。

 1979年、スコットは40歳のときにカナダのコンテストにカムバックして9位に入賞。80年もコンテストに出場しているが、これがスコットにとっては最後のコンテスト出場となっている。1999年ラリー・スコットは長年の功績を評価され、IFBB栄誉の殿堂入りを果たしている。

 なお、1977年8月にはIFBBオールジャパンコンテストのゲストとして、奥さんと一緒に来日している。引退してからすでに10年の時が経過していたが、彼の肉体はまさにミスター・オリンピアであった。引退したとはいえ、まだ20インチあった上腕を見せつけ、その上腕をつくりあげたスコット・カールをファンに披露した。詳細は本誌1977年10月増刊『ラリー・スコット来日記念特集号』を参照してほしい。
1997年8月IFBBミスタージャパンのゲストとして来日したラリー・スコットの増刊号表紙

1997年8月IFBBミスタージャパンのゲストとして来日したラリー・スコットの増刊号表紙

スコット・カールの真相

 筆者は本誌1992年10月号でラリー・スコット(当時54歳)にインタビューしている。そのダイジェストを紹介したい。

ーーなぜコンテストから引退したのですか?

スコット 1966年、2回目のミスター・オリンピアのタイトルを取って引退しました。その年はちょうど結婚した年でもありましたので、豊かな夫婦生活を送るため、良き夫であるためには、コンテストとの両立は無理だと考えたのです。また、私はモルモン教徒でもあり、家庭を何よりも大切にしなければならないと教えられていましたから、長年続けてきたボディビルに区切りをつけたのです。

ーーたしか奥さんは日本人でしたね?

スコット 私の妻はハワイ生まれの日本人です。だから私も日本語を話しますよ。スコシね。

ーーボディビルを始めた理由は?

スコット 私は子どものころから身体が小さく、コンプレックスを持っていました。逞しい身体になりたくて器械体操をやっていましたが、あまり効果はなかったようです。そんなある日、本屋でボディビルの雑誌を見つけ「これしかない!」と思い、その日から毎日上腕三頭筋のトレーニングに励みました。

ーーどうして上腕三頭筋のトレーニングを?

スコット このとき買った雑誌の特集が上腕三頭筋の特集で〝あなたも30日でこのような素晴らしい上腕三頭筋がつくれる〟と書いてあったからです。それをただ信じただけです。

ーーその効果はどうでしたか?

スコット だめでした。目茶苦茶なやり方でしたから。その後ヴィンス・ジロンダのジムに入会して、本格的にトレーニングの指導を受けました。

ーー有名なスコット・カールはいつごろ編み出されたものですか?

スコット 世間ではスコット・カールは私が発明したかのように言われていますが、私がトレーニングしていたヴィンス・ジムにはすでにプリチャー・カール台はありました。それを私が好んで行ない、効果があったので、その名が広がったのです。私はこのスコット・カールをバーベル、ダンベル、そしてリバースで、スーパーセットで行ないました。レップ数は各種目6回。それを5セット行なったことで、私の上腕二頭筋はメキメキと発達しました。
彼の代名詞とも言えるスコットカールを実演する

彼の代名詞とも言えるスコットカールを実演する

ーー食事では何か特別なことは?

スコット よくミルクを飲みました。毎日10リットルくらいですか。サプリメントはプロテインパウダーとビタミン剤で、タンパク質はおもに鶏肉から摂りました。ただ、私の大好物はチョコレートチップクッキーでした(笑)。

ーー現在と昔のミスター・オリンピアを比べて、何か違いはありますか?

スコット いちばんの違いといえば、賞金額の違いですね。ボディビルコンテストで賞金を貰ったのは私が初めてですが、そのときは1000ドルでした(現在は250000ドル)。それと、現在のオリンピアではプレジャッジとファイナルに分けられていて、ファイナルではだいたい順位がわかってしまいます。私のころはプレジャッジがありませんでしたので、フリーポーズも真剣にとりました。観客と一体になって感激し、また涙し、盛り上がったものでした。

 ラリー・スコットは奥さんが日本人ということもあり、私に対してもとても親切に対応してくれた。ボディビルダーとして成功する秘訣を聞くと、「トレーニングをやめないことです」と、とてもシンプルな回答をよせてくれた。
コンテスト前夜、下関市制88周年の市民祭を見物するスコット夫妻。奥様は日本人である

コンテスト前夜、下関市制88周年の市民祭を見物するスコット夫妻。奥様は日本人である

記事画像8
コンテスト後のレセプションにて。スコットと一緒に写っているこの方、誰だかわかるだろうか?
『ポージングガイダンス』著者の増淵氏である

ゴールデンボーイ

 本文中にもあるが、ラリー・スコットは背も高くなく、肩幅が狭く、痩せっぽっちだったので、まったく目立たない男だった。しかしボディビルに出会ったことで大きく成長し、ボディビルダーの頂点を極め、そしてボディビルの歴史に残る上腕をつくりあげている。

 特にスコットの筋肉は丸みがあり、曲線を持ったフィジークは美しさがあり、ほとんどのポーズは太い上腕をアピールしたもので、ポーズをとると一層映えた。そしてポージング中は笑顔を絶やさなかった。そのため、当時のウィダー社の雑誌のみならず、他の多くのボディビル誌でも、ブロンドで甘いマスクのスコットをとり上げていた。太陽とビーチ、そしてビキニガールに囲まれたスコットはカリフォルニアのヘルシーなイメージにマッチした〝ゴールデンボーイ〟として、多くの表紙を飾り、ハリウッドの映画にも出演した超売れっ子スターになった。
ダンベルショルダープレスを行うスコット

ダンベルショルダープレスを行うスコット

 スコットにはボディビルダーとして成功できる素質はまったくなかった。彼の世界一のフィジークは、多くの努力とハードトレーニングによってつくりあげられたものである。彼はミスター・オリンピアとして貢献したばかりではなく、ステージを降りてからもファンとの交流に時間を費やしたミスター・オリンピアでもあった。今日のオリンピアの盛況、そしてボディビル界の繁栄を築きあげた、まさしく〝レジェンド〟である。また彼は信仰深いモルモン教徒で、1966年に結婚して4男1女をもうけた。90年代に2人の息子を亡くしているが、7人の孫がいる。
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空港までは電車で移動する。取り巻きを引き連れて改札を通過。磯村氏の姿も

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 初代ミスター・オリンピア、ラリー・スコットの偉業と名声は永遠に語り継がれることだろう。そして、スコット・カールもボディビルダー達の間で永遠に愛好されることだろう。

 ラリー〝レジェンド〟スコットのご冥福を心からお祈りいたします。
スコット夫妻を囲んで。月ボカメラマン徳江氏の若き日の姿も

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[ 月刊ボディビルディング 2014年8月号 ]

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