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ボディビルと私<その4> ”根 性 人 生”

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.10.30
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プロレス回顧録

 先月までとは少し趣向を変え、今月号は私のプロレスラーとしての数々の実戦の思い出などをご紹介することにしたい。当時私の体格は、身長177cm、体重116kg、胸囲135cm、上腕囲47cm、大腿囲70cmだった。

 プロレスリングには私がこれまでに経験してきた柔道とは違い、体格はもちろん、精神面と技の比重も一段と強く要請された。とりわけ精神面における忍耐と持久力、そして、ショウとしての高度な技の多彩さ、迫力を出すための常識はずれの体格の育成、どれをとっても私が想像していた以上にすさまじいものだった。

 私の人生の中で、いままで漠然としか考えたことのなかった人間性を見出し、それを大きく育ててくれたいくたの試練と戦歴から、さらに私は根性というものを新たに発見したのだった。そしてこの根性は、私がこれから生きていくうえに、また、指導者、経営者としての精神的な支えとなっているのである。

 当時を振りかえって、プロ柔道発足からプロレスの創成期までを整理してみると、
〇 昭和25年4月、プロ柔道誕生。木村政彦七段、山口利夫六段、遠藤幸吉四段などと一緒に私も参加。
〇 昭和25年5月、力道山大相撲夏場所関脇8勝7敗で最後の土俵。この場所横綱東富士が優勝。
〇 昭和25年8月、プロ柔道の木村政彦七段、山口利夫六段、坂部康行六段ハワイへ遠征。
〇 昭和25年8月25日、力道山1人でまげを切る。同年9月、相撲廃業声明。
〇 昭和26年10月、世界の一流プロレスラー来日、力道山、遠藤幸吉ら練習に参加。
〇 昭和26年11月18日、後楽園で試合後、力道山プロレスラーとしての決意かためる。
〇 昭和27年2月1日、力道山プロレスラーに転向、修業のためアメリカへ出発。
〇 昭和27年4月1日、遠藤幸吉アメリカへ渡り、力道山と合流。
〇 昭和28年2月、力道山帰国。この間、すでに紹介した木村七段、山口六段、それに私(月影五段)、相撲の清美川、長沢らが、前後して関西でプロレスラーの名のりをあげる。
〇 昭和28年7月、日本プロレスリング協会結成。
〇 昭和28年11月、ルーテーズに挑戦のため力道山ハワイへ出発。
〇 昭和28年12月6日、世界タイトルマッチで力道山ルーテーズに敗れる。
〇 昭和29年2月、力道山と木村政彦のコンビで、外人レスラー、シャープ兄弟を迎え、世界タッグ・チャンピオンを競う。この時の前座試合に私も清美川とともに参加する。この興業は5月まで行われ、その間、東京を皮切りに熊本、小倉、大阪、神戸などを転戦、テレビ放映の影響もあって爆発的プロレス・ブームを巻き起こす。
〇 昭和29年4月、大阪に全日本プロレスリング協会誕生。
〇 昭和29年5月、木村政彦、熊本寸国際プロレス団を起こす。私もこれに参加。
〇 昭和29年7月、力道山・遠藤組のコンビ誕生。
〇 昭和29年7月、6人タッグ・レス初めて登場。
〇 昭和29年10月2日、大相撲秋場所14日目、横綱東富士引退声明。この場所を最後に豊登、藤田山の2人は廃業してプロレスラー転向を声明。
〇 昭和29年11月、前座試合に女子プロレス登場。
〇 昭和29年11月25日、木村政彦は力道山に対し、全日本チャンピオンをかけ挑戦。
〇 昭和29年12月2日、豊登初試合。
〇 昭和29年12月14日、東富士プロレス入り心境かためる。
〇 昭和29年12月22日、満天下の注目を集めて力道山、木村政彦の初の日本選手権試合が行われ、力道山の空手チョップに木村敗れる。
〇 昭和30年1月26日、全日本チャンピオン力道山に山口利夫挑戦。リング・アウトで山口惜しくも敗れる。
〇 昭和30年2月10日、力道山、木村政彦の和解成立。
〇 昭和30年4月10日、東富士ハワイでチョンマゲのまま初マットをふむ。
〇 昭和30年7月7日、サンケイ・ホールで東富士断髪式。
〇 昭和30年7月15日、力道山、東富士の初コンビ登場。これよりいよいよプロレス全盛期に向う。
X X X

 このあとはすでによくご存知だと思うので省略するが、ゆうに100キロを越す筋肉隆々の巨漢同士が、リング狭しとあばれまわる壮絶なスポーツは、日本人の気質にぴったりで、その後約20年経た今日までも、全国のプロレス・ファンを熱狂させ続けている。

木村再起、”猫手チョップ”披露

 力道山との世紀の1戦に敗れた木村政彦は、再起を期して以前にも増した激しいトレーニングを続けていた。そして、昭和30年12月10日、大阪なんば府立体育館において、”木村政彦のカムバック、国際プロレス団再度の旗揚げ興行”と銘打って、全国のプロレスファンの前にその勇姿をあらわした。

 この再起第1戦の対戦相手は、”ネブラスカの野牛”といわれ、ルールを無視した凶暴な技が売り物だったゴジャース・マック、ボブ・マンフリー、ジェロニモ・クァネイドの3外人だった。

 一方、国際プロレス団のメンバーは当然ながら木村政彦七段を筆頭に、清美川梅之、私(月影四郎)、大坪清隆(現日本プロレス監査役)、速浪武夫(相撲出身)、加藤やすひろ、小松五郎、白梅武、村井昭二といった顔ぶれだった。そして、大阪市の目抜き通りをオープンカーで行進して、華々しい宣伝がくりひろげられた。

 この大阪での第1戦は、以外にも外人組レスラーの大将、ゴジャース・マックと副将格のジェロニモ・クァネイドを除いては、数の割に実力ははかばかしくなかった。

 しかしながら木村政彦対マックの第1戦は、噂にたがわぬ荒技の連発で、激闘数十分、木村はマックの寝技に押え込まれてまず1本をとられ、文字どおりの好試合となった。

 もちろん、この再起第1戦に男の生気地をかけていた木村政彦は、2本目が始まるや、ものすごい速攻でアッという間に体固めで決めてしまった。マックは自分のニック・ネーム”野牛”のお株を木村にとられてしまったように、グッタリとなってしまった。

 いよいよ勝負を決める3本目のゴングが鳴った。そして中盤にかかるころだった。木村はかねて研究していた新兵器”猫手チョップ”を使って、マックをリングの上に深々と沈めてしまったのである。始めて見る木村のこの技に、満員の観衆はただ呆然とするだけだった。

 ”猫手チョップ”とは、手を猫の手のように曲げ、その手に全神経を集中して、相手の急所をねらってチョップするというもので、力道山の空手チョップに対抗して木村が研究開発したものだった。

 こうして試合は2対1で、見事に木村の再起は成功した。再度の旗揚げをした国際プロレス団にとっても、御大木村政彦の再起なるか否かは大きな影響をもつものだっただけに、控室でこの成功のニュースを聞いたわれわれもおどりあがって喜んだ。そして、この再起第1戦の興行を足がかりとして、いつも全国のプロレス・ファンに満足してもらえるような試合をしようと、みんなで誓い合った。

 大阪の第2戦は、第1戦に倍するほどの盛況で、会場には6000人ものファンが殺到した。私や清美川さんの後援会も、急きょ応援団を結成し、のぼりを押立ててきてくれた。「セミファイナル試合でもこれだけの応援だ、月さんきょうも俺はやるぞ!!」と、木村氏はものすごいはりきりようだった。試合の結果は、第1戦の”猫手チョップ”におそれをなしたのか、外人組はびびってしまい、2対0で木村が軽く連破してしまった。
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 この木村の再起と、国際プロレス団の真剣な試合態度が興行師の目にとまり、翌年早々、”正月興行”と銘打って、日本の表玄関、横浜市の神奈川体育館で関東のファンにお目見えすることになった。

 大阪での好試合もあって、横浜興行の前景気は上々だった。とくに、この地に多い外国の婦人たちに人気があったようだ。

 新年の決意も新たに、元日に大阪を発ち、正月気分にわく横浜市内をオープンカーでパレードした。車には日本側と外人側がペアで乗り、大きな体に市内の商店会のハッピを着せられて、盛り場を行進した。このパレードも、ハッピも私にははじめてのことで、いつもの度胸はすっとんでしまいテレくさいようなはずかしいような、大きな体の置き場所に困ったのをいまでも覚えている。

 正月2日、横浜での第1戦は予想どおりすごい反響だった。前座試合がすすんで、いよいよ私の出るセミファイナルの番である。私の対戦相手はジェロニモ。「45分1本勝負」で私にとっては外国人との初めての対戦だった。ファンの熱狂的な声援に、私の闘志はいやがうえにも盛りあがってきた。45分の激しい戦いは終わった。結果はいずれも決め手なく、残念にも引き分けであった。

 メインエベントは木村、清美川対マンフリー、マックというタッグ・マッチである。日本側のすさまじいファイトに外人組は苦戦となった。こうなると外国婦人などはますますエキサイトし、なりふりかまわず大きなゼスチュアで応援し、耳をつんざくような口笛を連発、国際試合の面白さを満喫させてくれた。しかし、結果は木村の猫手チョップが命中して2対0で日本側の勝ちとなった。

 こうして幸先きよかった興行も、そのとき参加した外人レスラーの中に不祥事件を起こした者があり、不良外人のレッテルを貼られて国外退去となり木村氏の再スタートに汚点を残した。

メキシコの強豪を迎えて 縁起のいい大阪で第2戦

 しかしながら、その後木村氏をはじめとして関係者たちは、この汚名をばん回すべく必死の努力をした。その甲斐あって、今度はメキシコからラウル・ロメロ(メキシコ・ジュニア・チャンピオン)、ラモン・ロモ(同ライト級チャンピオン)、ヤキ・ローチャ(全米インディアン・チャンピオン)らを始めとして、世界のプロレス界を股にかけて暴れまくる連中を呼ぶことに成功した。昭和31年4月、再起第1戦の縁起のいい大阪で、名実ともに”国際大会、プロレスリング第2弾”と銘打ったシリーズをオープンした。

 この大会は、さきの不祥事件のこともあって、最初はその盛りあがりを心配したのだったが、それも4000人を越すファンを前にして吹っ飛んでしまった。そして、木村政彦をはじめ日本側メンバーは、いやがうえにもファイトをかきたてられた。

 すでに前座の好ファイトに興奮していた観客は、私のセミファイナル45分1本勝負が始まるころは、すでにその極に達していた。対戦相手はタイガー・キラーである。あのナックル・パートのこぶし打ちを始め、あらゆる反則技で有名な男だ。私はなんとかしてこの反則攻撃をかわして、得意の逆えび固めで決めたいと考えた。

 試合開始、ゴングと同時にキラーは予想どおりナックル・パートのこぶし打ち。かみつき、目つぶしと反則の連打、一瞬、私の動きもとまり、フォール寸前に追い込まれた。なんとかしなければいけない、このまま簡単にフォールされては満員の観衆に申しわけない。それよりも私の根性がゆるさない。しかし、私の意識とは反対に、だんだん動きの止っていく自分の体をどうすることもできなかった。そして次の瞬間、私は大きく頭上にかかえられたかと思うと、そのまま場外にストレートでほうり出されてしまった。その上、キラーは座椅子で思いきり横腹を打ちつけてきたのである。

 全身から油汁がにじむほどの痛さに私はさらにスタミナを消耗し、だんだん気が遠くなるようだった。そのとき「月さんどうした!!」「根性を忘れたか!!」というかけ声が聞こえてきた。ハッとわれにかえって起きあがったが、すでに猛犬と化したキラーは、またもや目つぶしの反則技をかけてきた。

 きれいなファイトをファンに見てもらおうと、じっとがまんしていた私もついに”かんにん袋の緒”が切れた。横にあった座椅子をふりかざすや一撃お見舞。ひるむキラーにもう1発。いままで静まり返っていた場内は、これを見てヤンヤの喝采。リングにかけあがったキラーをつかまえて、とび蹴りを2発。時間切れ寸前でついに逆えび固めで強敵キラーを破った。

 こうして再々出発は気力、体力、技術を出しつくし、ファンの心を充分に魅了し、大成功のうちに終わった。

 この大阪大会では、私はただレスラーとしてだけではなく、国際プロレスの指導者の1人として、興行師との打合わせ、トレーニングの指導、さらには試合の反響や人気なども検討しなければならない立場に立っていた。
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指導者、経営者としての”根性”

 こうなると、いままでのように「ただ選手として良いファイトを見せればよい」「なんでも根性で立ち向っていく」だけではすまなくなってくる。よい試合をどう興行に結びつけていくか、また、プロレス界のもついろいろなトラブルをいかに円満に解決していくか、そして、国際プロレス団の発展のためにはどうしたらいいか、それらについても考えなければならなかった。

 そういった意味では、私たちのライバルではあったが、力道山の率いる当時の主流派的存在だった日本プロレス協会での力道山光浩氏の経営手腕は大いに見習うべきものがあった。

 当時、いくつかのプロレス団体が結成されては消えていった。陽のあたる場所の反対側には必ず陰があるようにプロレスの爆発的な人気で、すべてに陽があたっているように見えても、その裏にはいつも陽のあたらない不満もうずまいていた。すなわち、力道山をはじめ、ごく一部のスターたちの人気への反発が分裂という形をとったのである。そして、それらの中には二流、三流のものが多く、「にせもの」とののしられるようなものまで出現した。

 しかし、われわれの国際プロレス団は、再々起とはいっても、木村政彦をはじめとして、日本プロレス界で充分一流として通用する力量、人格、歴史を備えていた。しかし、”勝者に光りあり”常に勝負の世界にはこうした弱肉強食のパターンがくりかえされていた。その意味で、これからご紹介する日本各地の転戦の旅も、決しておもしろおかしいものではなく、いくたの苦しい経験の連続だった。

 この巡業をとおして、私は「経営者の根性」「指導者としての根性」をつかむことができた。自ら苦労し、体験して得たこの根性は、大きな財産として私の体にしみこんで死ぬまで離れることはないだろう。

 さらにもう1つ私が学んだものは体力づくりの真髄ということだった。私が学生のころから励んだ柔道は、1本わざありで、その瞬間に勝負が決するスポーツだったが、プロレスとなると、45分1本勝負とか60分3本勝負というように、ほとんどそれだけの時間連続して最大限に体を駆使するものでスタミナ保持という点で、柔道や相撲とは違った、いちだんときびしい体力が要求された。

 こうして体得した根性と体力づくり、すなわち、精神面と運動面との接触部分から、ボディビルのトレーニングについて、私なりの理論や指導法が生まれ、さらに社会人としての人間形成にまで発展させねばならないと考えるようになった。(つづく)
[ 月刊ボディビルディング 1973年8月号 ]

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