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L-1チャンピオンが行く 筋肉浪漫街道 【第1回】全ての道は筋トレの道に通ずる

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.08.30
『エイ!』
朝からジム内に気合の声と、鉄の擦れる音が交差する。
時計の針は、午前7時を指そうとしている。
そう、私の1日は、まさに筋トレから始まるのだ。
 朝一番で、まだ眠っているであろう身体を、1時間弱のストレッチで目覚めさせ、そして軽く朝食とサプリメントでエネルギーを補給すると、いざジムへ。

 私は、大阪の八尾という、都会から比べれば少し辺鄙な町に住居と会社を構えている。約200坪の敷地内に、総床坪数180坪の2階建ての建物と、20台以上駐車可能なパーキングを備えた場所で、ニシダガスセンターという、LPガスや住宅設備機器の小売販売、そして大阪ガスの認定工事会社を営んでいる。会社はその建物の1階に位置し、実は2階が『フィットネスアカデミー リスポ』というトレーニングジムを併設しているのだ。つまり会社の中にジムがある、言い換えればジムの中に会社がある( 笑)、そんな環境の中で、日々悠然と筋トレを行っている訳である。

 トレーニングをこよなく愛する方々から見れば、恵まれた環境でいいなと感じられると思うが、ここに辿り着くまでには、紆余曲折、山あり谷ありと色んな事がありましたので、一概に喜んでばかりはいられない中、何故資金を掻き集め、苦労しながらでもトレーニングジムを開設するに至ったのか…。少しその辺りの話から触れてみたいと思う。

 それは20年以上前の話に遡るのだが、当時私は23歳、中肉中背、いえ、どちらかと言えば、細見のおチビちゃんという風貌だったので、人一倍強さに憧れ、強くなりたい、デカくなりたいという一心で筋トレに励んでいた。ちょうどその頃、1年と半年間滞在していた、オーストラリア留学を終え、日本に帰国してすぐ、大阪市内は京橋にある、ワールドジムは杉田茂会長の所でお世話になることになった。

 当時のワールドジムは、会員数が1000人を超えていたと聞いていた。まさしく西日本一のマンモスジムで、驚く事に、殆どの会員が筋骨隆々。言い方が悪いかもしれないが、まるでもう化け物の集まりだった。また日本の各地で開催されるあらゆるボディビルコンテストにおいて、杉田会長率いるワールドジムから輩出される選手たちが、冠を総なめにする等、物凄く厚い選手層を誇っていた。

 私はそんなワールドジムに所属しながら、国際空手道連盟極真会館関西本部道場に在籍し、空手の修行にも明け暮れていた。地上最強の空手のキャッチフレーズと共に、劇画の『空手バカ一代』に触発され、男は強くなりたければ極真の門を叩け、極真の道場へ行けば必ず強くなると言われた、極真黄金時代の波に乗り、18 歳で極真会館の門下生となり、日々厳しい稽古に精進していた。

 時は経て、22歳の時に関西本部交流試合無差別級で優勝。翌年には、4年に1度開催される空手オリンピック、全世界空手道選手権大会の選考会を兼ねた、第15回全オーストラリア空手道選手権大会に出場し、軽量級で優勝。決勝戦では、後に全日本大会で2年連続準優勝に輝き、不死鳥と呼ばれたギャリーオニールと対戦し、運良く私の放った前蹴りが、ギャリーの水月(お腹の急所、所謂みぞおちのこと)を捉え、技有含む判定勝ちで、何とか優勝をもぎ取り、帰国後は全日本ウエイト制大会の中量級制覇を目論み、息の荒い、脂が乗り切っている頃だった。

 そんな私がオーストラリアで痛感したのが、圧倒的なパワーの違いだった。小手先のテクニックなんてものは、パワーの前では何の意味も成さない。事実オージーは、当時から日本人には無いパワーを駆使して、空手の世界でも頭角を現してきており、私が出場したオーストラリア大会の重量級では、後にK1で一世風靡したサム・グレコが、持ち前の体格とパワーで、ぶっちぎりの優勝を果たしていた。身長180㎝を優に超え、体重100㎏超級の超人が、空手の技を学び、空手以外のフィジカルで、ウェイトトレーニングをこなして、今ある以上のパフォーマンスで試合に挑んで来るわけだ。そりゃ末恐ろしい状況だよ。その圧倒的なパワーを目の当たりにして、ウェイトトレーニングから目を背ける事が出来ると思うか? 答えは、もちろん〝NO〟だね。ウェイトトレーニングの重要性を認識しだしたのが、時を同じくして、オーストラリア留学中だったというわけである。

 帰国後、日本一といわれるジム、ワールドジムへ何の躊躇いも無しに入会した訳が、お分かりになったと思う。しかし私は、ここで出鼻を挫かれることに事になる。極真こそ最強で、極真で見たもの、聞いたもの以上のものなんて無いと高を括っていたのだが、オージーにも負けない、いや、それ以上の筋肉マンが、ワールドジムにはウヨウヨしているじゃないか! 「何じゃここは…」が第一声だったから。世の中には、凄い人が沢山いているものだと、遅まきながら気付くことになったのだが、次はこの筋肉の鎧を囲った超人たちに、少しでも近づきたい一心で、週4回、5回はジムへあししげく通うようになった。仕事、空手、筋トレの毎日。気付けば身体も徐々に変わりはじめ、以前とは比べ物にならないくらい筋量が増え、逞しい体へと変貌を遂げていった。

 そんな日々の繰り返しが7年間程続いていた頃、ひょんな事から会社を起業する話が浮上してきたのである。アマチュアの私にとっては、空手もウェイトトレーニングも、仕事あっての事なので、競技者として続けていくには、仕事もバリバリこなさなければならない。年齢も30歳手前で、仕事の大切さも身に染みて分かってきた頃なので、この機会を活かす手はないと考え、思えば即行動に移してしまう私の性格も加味され、世間から時期尚早だと言われながらも、30歳を契機に今の会社である、ニシダガスセンター株式会社を設立する決断に至ったのだった。

 追々この連載で会社設立に際しての苦労話も書いていくつもりだが、仕事とトレーニングの両立に苦しみながらも、自分の夢を叶える為の環境作りに、自分の全てを注ぐ事で、多くの喜びを感じたことも書き加えていきたい。
             (つづく)


文/西田謙司
極真こそ最強で、極真で見たもの、聞いたもの以上のものなんてこの世に無いと高を括っていた私が、オージーにも負けない、いや、それ以上の筋肉マンが、ワールドジムにはウヨウヨしていた。『何じゃここは…!』が、私の第一声だった。
1998 年のワールドジム内にて。左より筆者、杉田会長、倉川選手

1998 年のワールドジム内にて。左より筆者、杉田会長、倉川選手

[ 月刊ボディビルディング 2014年3月号 ]

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