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☆ 不滅の男性美 ☆ スティーブ・リーブスの足跡

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[ 月刊ボディビルディング 1973年3月号 ]
掲載日:2017.10.05
ミルトン・ムーア
訳:高山勝一郎
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"ビルダーの偉大さとは何か"

 ビルダーにおける偉大さを計るものさしはいろいろあるであろう。

 永年の精進、年令を超えた肉体の強さ、逞しい心身による社会への貢献……等々である。

 ここにスティーブ・リーブスという男がいる。

 彼が偉大であるかどうかは「偉大」という言葉の定義からして問題のあるところであるが、彼には少なくともその片鱗があるとはいえる。

 たとえば、ビルダーとしての人気の長さが偉大さの一つの尺度とすれば、リーブスは最も偉大なビルダーとして数えねばならぬ。

 また、後進の多くのビルダーの指標となり、刺激となったことを偉大とするなら、やはり彼は偉大である。

 多くのタイトルを保持すると同時にその美しい筋肉美を永遠に映画のフィルムにとどめたその頻度を偉大とするなら、彼はまた最高に偉大でなければならぬ。

 人間の到達し得る最も完成した美しさを偉大とするなら、リーブスはもはや偉大なるビルダーの中でもその頂点に立つことになる。

 リーブスに対する一般の評価をひろってみると、「ボディビル史上最高のハンサム・ボーイ」、「地上で最も完成された体をもつ男」、「すべてのフィジーク・タイトルを手中にする男」、「写真と映画の最多記録保持者」……等々つきるところがない。
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"リーブスの生いたち"

 1927年1月21日、アメリカはモンタナのグラスゴーで呱々の声をあげたスティーブ・リーブスは、幼い頃を牧草と馬の鞍の上で過したといってよい。

 10才になったとき、彼はカリフォルニアのオークランドに両親と共に移り住んだ。

 彼がボディビルに興味を持つようになったのは16才のときである。

 友だちと腕角力をやって負けたのがくやしく、なんとか力をつけようとした彼が、眼をつけたのがウェイト・トレーニングであった。

 すぐ、オークランドのエド・ヤリックのジムに入門した彼は、そこでくる日もくる日もトレーニングに打ちこんだのである。

 1944年、米国陸軍(アーミー)に入隊するまで、ヤリック・ジムでの日課は中断されることなくつづいた。

 その頃はもう町を歩いていても、海岸で坐っていても、彼の体は人目をひくに充分な発達を示していた。

 南洋でマラリアにかかったリーブスは、日本に休養にやってきて、ここでアーミーを除隊になり、再びウェイト・トレーニングにとりつかれることになる。これが1946年のことである。

 この年、彼はアメリカに戻り、オレゴンのポートランドで行われたミスター・パシフィック・コンテストに始めて参加したのであった。

 そしてミスター・パシフィックのタイトルをあっという間に手に入れて、いならぶ人々をア然とさせてしまったのである。

"コンテストに次々に挑戦"

 翌1947年のミスター・パシフィックのコンテストはロスアンジェルスでひらかれ、今までにない大観衆を動員した。このときも栄冠はリーブスの上に輝いた。

 ときを移さず同年6月、ミスター・アメリカのコンテストに参加した彼は多くの観衆に「完成された体を持つダーク・ホース」として迎えられ、万場の人気をさらい、ついにミスター・アメリカの王座にのし上ってしまった。

 このときから彼は、新聞や雑誌の寵児となり、やがて銀幕のプリンスとしての将来を約束されたのである。

 しかし、好事魔多しという諺のとおり、翌1948年3月、煙雨にけむるロスアンジェルスでひらかれたミスター・USAコンテストで、リーブスの自信は無残にもうちくだかれた。

 すなわち、リーブスは優勝したクラレンス・ロスの後塵を拝することになってしまったのである。

 つづいて同年8月、ロンドンで行われたミスター・ユニバース・コンテストにおいて、またもかの巨人ジョン・グリメックに遅れをとり、2位に甘んじることになった。

 この年のたった一つの救いは、フランスのカンヌで行われたミスター・ワールドでようやく優勝できたということであろうか。

"不滅のリーブス"

 この当時、ボディビル・ファンならずとも、スリー・ビッグ・ビルダーとしてのジョン・グリメック、クラレンス・ロス、スティーブ・リーブスの名は皆知っていた。

 この3人の激突は、当時最も人々の待ち望んでいたもので、ついにこれの実現したのが1949年3月、ロスアンジェルスで開かれたミスター・USAのコンテストであった。

 その結果はどうであったか。

 1位はジョン・グリメック、2位はクラレンス・ロス、リーブスは3位であった。すなわち、スリー・トップの最下位だったのである。

 人々のリーブスに対する期待もあこがれも一時にさめてしまった。

 リーブスがふつうのビルダーだったら、そのまま人々から忘れられ、ボディビルへの熱意も冷えて、やがて完全にこの世界から姿を消したであろう。

 現に、リーブスは数カ月ジムに姿をあらわさず「リーブスもこれまで」という印象を一般に与えていた。

 しかし、すべては逆であった。

 リーブスは、長期のレイオフをとったあと、恐ろしいばかりの執念でトレーニングを再開、おのが体を人間の観念から超越した完成された超人の域へ改造をはじめたのである。

 1950年夏、1年前に涙をのんだミスター・USAコンテストに優勝。つづいて同年9月、ロンドンで行われたミスター・ユニバース・コンテストに出場した彼は、かのレジ・パークを見事破って優勝をとげたのであった。

"銀幕のプリンス"

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 このときから、リーブスの華麗なる歴史が始まったといってよい。

 「ラルフ・エドワード・ショウ」でテレビに出演した彼は、つづいてハリウッドに招かれ、「ザ・バンプ」「キスメット」の2本の映画で重要なワキ役を演じ、そのタレントぶりを世間に示した。

 1954年、映画「アテネ」で主演したリーブスは、この年からへラクレスの代名詞を自分の肩にのせたのである。

 この映画を見たイタリアの映画プロデューサー、ピエトロ・フランシスはすぐに彼をローマへ呼びよせ、「怪力へラクレス」と銘うった映画に主演させた。これが放映された1957年からへラクレス映画の全盛時代がはじまるのである。

 そのすべてで大当りをとり、銀幕の若きプリンスとしてのリーブスは、女性のあこがれであると同時に、男性の憧憬のまととすらなった。

 彼の主演したおもな映画をあげてみると、「マラトンの巨人」、「怪力ゴリアテ」、「鎖のへラクレス」、「ポンペイ最後の日」、「バグダッドの盗賊」、「海賊モーガン」、「トロイの戦車」、「スパルタカス」、「偉人サンドカン」、「マレーの海賊」、「へラクレスの復讐」、「地獄への長い道」等々枚挙にいとまがない。

 そして、もう一度「ビルダーの偉大さ」とは何かについて考えてみよう。

 いまやリーブスの映画によって、多くの女性が、多くの男性が、そして多くの子供たちが、ウェイト・トレーニングによって得たリーブスの体の美しさを知っており、ボディビルへの理解を高めている。

 彼はすでに46才になるが、その人気は不滅である。

 しかもまだボディビルへの情熱を持ちつづけ、いまでもトレーニングを欠かさない。

 彼を偉大なるビルダーの1人に数えることに誰が異論を唱えるであろうか
[訳者注]著者ミルトン・ムーアはスティーブ・リーブスの研究において世界に知られており、多くの著作を出しているオーソリティである。

ステイーブ・リーブスの足跡ー覧

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身長  185cm
体重   97kg
胸囲  131cm
上腕囲  47cm
首囲   46cm
カーフ  46cm
大腿囲  67cm
腹囲   76cm

< タイトル >
1945年 ミスター・パシフィック・コースト
1946年 同上
1947年 ミスター・アメリカ
1948年 ミスター・ユニバース2位
 〃   ミスター・USA2位
 〃   ミスター・ワールド
1949年 ミスター・USA3位
1950年 ミスター・USA
1950年 ミスター・ユニバース

< 個人歴 >
1942年 ウェイト・トレーニング開始(16才)
1944年 アーミー(米陸軍)に入隊
1946年 同除隊
1947年 ラジオと舞台に出演
    ナイト・クラブにゲスト出演
1950年 ミスター・ユニバースを最後にコンテストから引退を声明
1951年 テレビ出演
1953年 映画「キスメット」等に出演
1954年 映画「アテネ」に出演
1955年 ジムのコーチ兼代表者となる
1957年 へラクレス映画の主演つづく
1963年 リナ・ツァルザヴィッツ伯爵夫人と結婚、リーブス伯爵の称号を贈られる。
[ 月刊ボディビルディング 1973年3月号 ]

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